第4話 工房を追われた令嬢
疑いというのは、毒に似ている。少しずつ、確実に、信じる力を奪っていく。
だから私は、自分の心にすら、証拠を求めることにした。心は、たやすく、嘘をつくから。
師の死から数日後、私の立場は、坂を転げ落ちるように変わった。
宮廷から、正式な通達が届いたのだ。「王立染織工房の管理を、当面、ロザリン嬢から解く」と。
理由は、噂だった。
――ロザリン嬢こそ、偽の高級織物を作らせ、ひそかに売りさばいていた張本人ではないか。
――婚約破棄を逆恨みし、王室御用達を騙る品を、市場に流したのだ。
――師ニコは、それに気づいたから、口を封じられたのだ。
馬鹿げている。けれど、噂というのは、馬鹿げているほど、よく走る。誰も、確かめないからだ。
私は、工房の鍵を、返した。返すとき、手は震えなかった。震えさせなかった。
門の外で、セドリックが待っていた。
「ひどいやり口だ」と彼は言った。「君を疑わせて、君の口を封じる気だ。生かしたまま、無力にする。殺すより、ずっと賢い」
「ええ。とても、頭のいい人の仕事ね」
「皮肉を言う元気があるなら、大丈夫だ」
噂は、止まらなかった。
市場へ行けば、職人たちが、ふいと、目を、逸らす。かつて、私を、慕ってくれた人たちが。
「ロザリン様が、まさか」――そう言って、信じてくれる人も、いた。けれど、その声は、噂の波に、すぐ、かき消されてしまう。
(噂は、染みに、似ている)
一度、布についた染みは、こすればこするほど、広がっていく。慌てて、弁解すればするほど、人は、かえって、疑う。
だから私は、決めた。弁解は、しない。代わりに、証を、揃える。
布の染みは、言葉では、落ちない。けれど、正しい手当てを、すれば、いつか、きれいに、抜ける。名誉も、きっと、同じだ。
「セドリック。私、噂とは、戦わない」
「では、何と?」
「事実と。事実だけが、噂を、上書きできるから」
私は、ふっと、口元を、ゆるめた。久しぶりに、笑えた気がした。
「セドリック。教えて。なぜ、まだ私を信じるの。みんなが、私を疑っているのに」
彼は、少し考えてから、答えた。
「噂は、いつも、いちばん都合のいい方向に流れる。流れが揃いすぎているときは、たいてい、誰かが水路を掘っている。……今回は、掘った跡が、はっきり見える」
胸の奥が、こそばゆくなった。私はそれを、気づかないふりをした。
工房を追われても、色を読む目までは、奪えない。私たちは、王都に出回る偽物を、片端から集めることにした。市場の隅、貴族の屋敷、古着の店。
そして、ひとつの傾向に気づいた。
偽の紫も、偽の緋色も、染めの「癖」が、よく似ていたのだ。
「これを見て、セドリック」
私は、二枚の赤い布を、窓辺に並べた。本物の緋色と、偽物。
「本当の深い赤は、遠い地から運ばれる、小さな虫から採るの。とても、手間のかかる色。偽物は、それを安い赤で似せて、上から薄く塗り重ねている」
「見分けが、つくのか」
「光が、教えてくれる。数日、陽に当ててみて」
数日後。窓辺の偽物の赤だけが、目に見えて、痩せていた。陽の光に弱いのだ。本物は、ほとんど変わらない。
「色の強さは、こうして光が暴くの。誤魔化しは、太陽の下では、続かない」
「君は、その赤が、虫から採れると言ったな」とセドリックが、興味深そうに、尋ねた。
「ええ。遠い地で、葉の上に棲む、小さな虫。それを集めて、潰して、煮出すと、目の覚めるような赤が採れるの。一粒は、芥子粒ほど。だから、ひと匙の赤に、どれほどの虫が要るか」
「……気が、遠くなる」
「でしょう? 手間のかかる色ほど、偽物に狙われる。高く売れるから。でも、手間を惜しんで似せた色は、必ず、どこかで、ほころびを見せるの。陽の光、水、こすれ。本物が平気な場所で、偽物だけが、音をあげる」
「逆に言えば」とセドリックが、考えながら言った。「本物かどうかを、確かめたければ――いじめてみればいい、ということか」
「ええ。そのとおり。やさしく扱えば、どちらも、きれいに見える。けれど、陽に晒し、水にくぐらせ、布でこすって、それでも色を保つのは、本物だけ。試練に耐えるかどうか。それだけが、嘘と真を、分けるの」
「……人と、同じだな」と彼は、ぽつりと言った。
私は、その言葉に、答えなかった。けれど、心の中で、深く、うなずいていた。
私は、卓の上の偽物を、染めの癖で、また、ひと山、寄せた。
「ねえ、セドリック。気づいた? この山、ぜんぶ、下染めの順が、同じなの」
「同じ……それが、何を?」
「染めの順は、工房ごとに、癖がある。指の癖と、同じ。この順は――うちの工房の、ものよ」
言ってしまってから、胸が、冷えた。
「つまり、本当に、内側から」
「ええ。誰かが、うちの手順を、そっくり、外へ。……認めたくは、ないけれど」
セドリックは、しばらく、考え込んでいた。
「ロザリン。つらいことを、聞く。工房の手順を、すべて知る者は、何人いる」
「……ほんの、数人。私が、心から、信じている人たちだけ」
答えながら、ひとりの顔が、浮かんだ。いちばん、浮かんでほしくない、顔が。
私は、その顔を、頭の隅に、押しやった。まだ、確かめていない。確かめるまでは、疑わない。それが、せめてもの、誠意だった。
「……君は、戦い方を、知っているな」
「ええ。叫ぶより、ずっと効くもの」
◇
その夜、私は、隠れ家の卓に、集めた偽物をすべて並べた。
そして、染めの癖で、ひとつずつ、分けていった。観察し、似たものを寄せ、違うものを離す。
すると、奇妙なことがわかった。
ほとんどの偽物が、同じ手順――そう、うちの工房に、代々受け継がれてきた、限られた手筋から、派生していたのだ。
特に、あの半端な媒染の赤。ニコが遺した糸と、同じ効き方。
仮説は、固まりつつあった。けれど、私はまだ、その先を見たくなかった。
その「内側」が、誰なのか。確かめるのが、怖かった。生まれて初めて、色を確かめるのが、怖かった。
「ロザリン」と、彼が、静かに言った。「市場の商人から、妙な話を聞いた。偽の染料を、まとめて卸している男がいるそうだ。バルトという、染料商だ」
「会えるの?」
「ああ。だが、問題はそこじゃない。彼が言うには――卸し先の符牒の中に、宮廷の、ある女官の名が、混じっているらしい」
「女官……?」
「女官長、オーレリア。氷のような女だと、評判の」
私の中で、線が、つながった気がした。
工房を追う通達に、署名をした人。私の集めた偽物を、証拠として取り上げた手の者を出した人。
その人の名が、偽の染料の符牒にある。
(この人が、糸を引いているの)
けれど、つながりすぎる線ほど、疑わなければならない。それも、ニコの教えだった。
私は、決めた。
明日、宮廷に上がる。追われた身で、許しも得ずに。
氷のような女官長に、まっすぐ、問いただすために。
支度をしながら、私は、ニコの糸を、もう一度、懐から出した。赤と青。火と水。半端な媒染の、まだらの赤。
(あなたが遺したものは、まだ、何も語り終えていない)
明日、私は、この糸を持って、いちばん高い場所へ行く。追われた者が、追った者の前に立つ。みっともなくても、構わなかった。私には、色という、嘘をつけない味方がいる。
そのとき、私はまだ、知らなかった。
その「氷」が、実は、私と同じものを守るために、たったひとりで、凍りついていたことを。




