第3話 師が遺した一筋の糸
人が遺すものは、言葉だけではない。色も、糸も、ときに、声よりも雄弁に語る。
私がそれを思い知ったのは、師を失った、あの日のことだった。
その昼、私が工房に着いたとき、染め場の戸は、半分だけ開いていた。
「ニコ?」
返事はない。
染料の匂いの奥に、別の匂いが混じっていた。冷たい、水の匂い。
大きな藍の桶のそばで、ニコは倒れていた。
「ニコ!」
駆け寄って、抱き起こす。冷たい。とうに、冷たくなっていた。
頭の脇に、血。桶の縁に、ぶつけたように見える。床は、濡れていた。足を滑らせた。誰が見ても、そう思うだろう。
(……足を滑らせた?)
私の手が、止まった。
ニコは、四十年、この染め場に立っていた。この床の、どこが滑るかも、どこに桶があるかも、目をつぶってでも歩ける人だった。
その人が、見慣れた自分の仕事場で、足を滑らせて死ぬ。
そんなことが、あるだろうか。
セドリックが、遅れて駆け込んでくる。私の様子を見て、すべてを察したようだった。
「ロザリン。離れて。触ったところを、覚えておいて」
「……これは、事故じゃない」
「わかってる。でも、今は声に出さないで。耳が、どこにあるか、わからない」
彼は床に膝をつき、ニコの周りを静かに見て回った。観察している。怒りも、嘆きも、いったん脇に置いて。
私も、見た。見るしかなかった。それが、ニコが私に教えたことだったから。
桶の中の藍は、まだ生きていた。黄緑の液。昨日のまま。布を浸せば、きっと、また青く染まるだろう。
皮肉な、ことだと思った。
ニコが、丹精した藍は、こうして、まだ、生きている。なのに、それを育てた手は、もう、動かない。
(あなたが、いなくなっても、色は、残るのね)
それは、慰めのようで、いちばん、残酷な、事実だった。
セドリックが、床の、濡れた跡を、指で、なぞった。
「水で、足を滑らせた――そう、見せたいんだ」と彼は、低く言った。「でも、この濡れ方は、不自然だ。桶から、こぼれたんじゃない。誰かが、撒いたように、見える」
「撒いた……」
「ああ。事故に、見せかけるために。手の込んだ、仕事だ」
私は、ぞっと、した。ニコの死が、ただの不運ではなく、誰かの、冷たい計算の、結果だったことに。
許せない、と思った。生まれて初めて、人を、許せないと、思った。
棚の奥――油紙の包みが、なくなっていた。
「セドリック。昨日、ニコが見せようとした包みが、消えている」
「やはり、何かを掴んでいたんだ。それを、誰かに知られた」
「知られた……? でも、ニコは、誰にも言うなと」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
ニコは、確かに言った。「特に、工房の中ではな」と。
つまり、彼は、工房の中の誰かを、警戒していたのだ。
そして、その誰かは――この話を、知っていた。
「ロザリン」とセドリックが、低く言った。「外を見てくる。君は、ここで、ニコの周りを、もう一度だけ、よく見ておいてくれ。君の目でしか、見えないものがあるはずだ」
彼が出ていったあと、私は、ひとり、染め場に残った。
ニコの作業台。彼の手の癖が、そこら中に残っている。刷毛の置き方。糸の束ね方。
私は、ひとつひとつを、指でなぞった。手が、震えていた。
刷毛は、毛先が、いつも同じ方向に、寝かせてあった。糸は、太さごとに、束ねて、色の薄い順に、並べてあった。媒染に使う器は、洗ったあと、必ず、伏せて干す。四十年、同じ手順を、崩さなかった人。その律儀さが、染め場のすみずみに、染みついていた。
(あなたは、何ひとつ、いい加減にしなかった。色にも、人にも)
だからこそ、わかる。この人が、自分の仕事場で、足を滑らせて死ぬなど、ありえない。この床の、どの板が軋み、どこに水が溜まりやすいか、ニコは、誰よりも、知っていた。
涙は、出なかった。出してはいけない気がした。出してしまえば、何も見えなくなる。
そのとき、台の脚と床の隙間に、何かが挟まっているのに気づいた。
一筋の、染め糸。
引き出してみる。短い糸だった。半分が赤茜、半分が、藍の青に染め分けられている。
茜の赤は、ただ布に染めても、すぐに褪せて流れてしまう。だからミョウバンで媒染して、色を、しっかり布に留める。媒染をきちんと効かせた茜は、深く、長く、保つ。けれど、媒染が下手だと、洗うたびに、痩せていく。
この糸の赤は、奇妙だった。媒染の効きが、半端なのだ。深いのに、ところどころ、抜けている。
私は、この効き方を、知っていた。
うちの工房の、ある特定の手順でしか出ない、半端な赤。最近、見習いの誰かが、ずっと練習していた、あの色だ。
(誰が、これを染めたの)
私は、糸を、灯りに、近づけた。
赤と、青。茜と、藍。ニコが、いちばん大切にしていた、ふたつの色だ。
「赤は、火。青は、水」と、ニコは、よく言っていた。「火と水を、一本の糸に宿せたら、一人前だ」と。
この糸は、まさに、その染め分け。けれど、赤の媒染が、半端だった。火が、ところどころ、消えかけている。
(ニコ。あなたは、この糸で、何を、伝えたかったの)
答えは、返ってこない。もう、永遠に。
喉の奥が、熱くなる。けれど、私は、奥歯を噛んで、こらえた。泣けば、目が、曇る。曇った目では、色が、読めない。
ニコは、私が泣くたびに、決まって、こう言った。
「泣くな、とは言わん。だがな、ロザリン。泣くのは、見終わってからにしろ。色は、待ってくれんぞ」
(……ええ。見終わるまでは、泣きません)
私は、もう一度、糸の赤を、灯りに透かした。半端な媒染。深いところと、抜けたところが、まだら模様になっている。この効き方は、染師の癖だ。手の温度、布を引き上げる速さ、媒染に浸す間――そのどれかが、いつも、同じ分だけ、足りない人。
うちの工房で、この癖を持つ者を、私は、ひとりだけ、知っていた。けれど、その名を、心の中ですら、口にするのが、怖かった。
ニコは、最後の力で、これを台の下に隠したのかもしれない。私に、見つけさせるために。それとも――私に、覚悟をさせるために。
◇
その夜、戸口で、足音がした。
「まだ、いたのか」
声の主は、私のいちばん近くにいる人だった。
ナタリー。工房の副長で、私の右腕。子どもの頃から、ずっと一緒に色を学んできた、いちばんの友だった。
「ロザリン様。こんな時間まで……お体に障ります」
「ナタリー。あなたこそ、どうして」
「灯りが見えたので、心配で。ニコさんのこと、聞きました。……信じられません」
彼女の目は、潤んでいた。声も、震えていた。
私は、懐の糸のことを、口にしなかった。
なぜ言わなかったのか、自分でもわからない。ただ、言ってはいけない、と、何かが囁いた。
「ナタリー。ひとつ、聞いていい? 最近、半端な媒染の赤を、練習していたのは、誰かしら」
ナタリーの肩が、ほんの一瞬、強張った。
「……さあ。見習いの誰かでは。よく、覚えていません」
「そう。いいの。忘れて」
私は微笑んだ。微笑む練習だけは、昨夜、しておいてよかったと思った。
ナタリーが去ったあと、私は、糸を、布に包み、懐の奥深くに仕舞った。
師を奪った者は、偽物を作る者と、つながっている。そして、その者は――おそらく、この工房の中にいる。
私は、いちばん信じたい人を、いちばん疑わなければならなくなった。
そのことが、ニコの死よりも、深く、胸を抉った。




