第2話 王の調査官と消えない色
偽物というのは、たいてい本物よりも美しい。欠点を消すためだけに、作られているから。
だから私は、完璧すぎるものを、いちばん先に疑うことにしている。
婚約を解かれた翌日、私を訪ねてきたのは、宮廷からの使いではなかった。
ひとりの男だった。年の頃は、私より少し上だろうか。地味な外套。けれど、靴だけは、よく手入れされている。
「ロザリン嬢。突然、失礼します。セドリックと申します。王の調査官をしております」
「調査官、ですか」
「ええ。昨夜の広間での件、耳に入りまして」
彼は外套の内側から、小さな布切れを取り出した。深い紫の、端切れ。
「これに、見覚えは」
私は手に取り、灯りにかざした。指の腹で、そっと撫でる。
「……これも、偽物ですね」
「やはり」
「染め重ねの紫です。下に赤を染めて、上から青を重ねている。遠目には本物に見える。でも、光に透かすと、青と赤が分かれて見えるんです。本物の貝紫は、色がひとつに溶けて、こんなふうには分かれません」
セドリックの目が、わずかに細くなった。観察している。私を、ではなく、私の手元を。悪くない見方だと、私は思った。
「単刀直入に申し上げます」と彼は声を落とした。「ここ半年ほど、王都に偽の高級織物があふれています。貴族向けの紫、王室御用達を騙る金糸。よくできている。だから、誰も偽物だと気づかない」
「気づかないまま、本物として買っている」
「ええ。そして、真っ当な職人たちが、次々に立ちゆかなくなっている。値段でも、見た目でも、勝てないからです。誰かが、組織立ってやっている。素人の仕業ではない」
私は、端切れをそっと机に置いた。
「私に、何を」
「あなたの目が要ります。色を、読める目が。宮廷の中で、本物と偽物を、ひと目で分けられる人は、そう多くない」
私は、しばらく彼を見つめた。
「ひとつ、伺います。なぜ、追われたばかりの私を頼るのです」
「追われた者ほど、失うものが少ない。そして、昨夜のあなたは、泣きも、すがりもしなかった。手袋を見ていた。……ああいう人は、嘘をつくのが、いちばん下手なんです」
その言葉に、私はなぜか、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
「いいでしょう。ただし、私のやり方で。色は、叫びません。だから、私も、叫ばずに進めます」
セドリックは、わずかに、口元を緩めた。
「ひとつ、教えてほしい」と彼は言った。「なぜ、偽物が、これほど、見抜きにくいのか。素人の私には、本物との違いが、まるで、わからない」
「色を、重ねているからです」と私は答えた。「本物の貝紫は、ひとつの色。けれど偽物は、赤を染め、その上に青を重ねて、紫に“見せて”いる。重なった色は、遠くからだと、ひとつに見えるのです」
「重ねる、か」
「ええ。本物は、海の小さな巻貝から、ほんのわずかしか採れません。たくさんの貝を割って、やっと、指先ほどの色。だから、途方もなく、高い。王だけに許されたのも、そのためです」
「それを、安く似せている」
「赤は、本来、遠い地の虫から採る、貴重な色を使えば、本物に近づきます。でも、それでは、高くつく。だから偽物は、もっと安い赤を使い、ミョウバンのような媒染で、無理に布へ噛ませている。だから――洗えば痩せるし、陽に当てれば、褪せるのです」
セドリックは、しばらく、黙って、私を見ていた。
「……あなたは、色のことになると、人が変わるな。さっきまでの、静かな令嬢は、どこへ行った」
「あら。失礼ね」
私は、少しだけ、笑った。
「色のことだけは、誰にも、譲れないの。母から受け継いだ、たったひとつのものだから」
「いい目だ」と彼は言った。「その目で、見てほしいものが、山ほどある」
「望むところです」
◇
その日の午後、私はセドリックを工房の奥へ連れていった。
染め場の隅で、老いた染師が、大きな桶を覗き込んでいた。ニコ。私に色のすべてを教えてくれた、師だ。
「ニコ。お客さまよ」
「ほう。珍しい」
ニコは腰を伸ばし、桶を指さした。桶の中の液は、紫でも青でもない。にごった黄緑色をしていた。
「調査官さん。これが何の色か、当ててみなされ」
「……黄緑、ですか」
「これが、藍さ」
セドリックが眉を寄せる。ニコは皺だらけの手で、白い布を液に浸し、引き上げた。
布は、黄緑色のまま。けれど、空気にさらされた途端――みるみる、鮮やかな青へと変わっていく。
「藍ってのはな、桶の中じゃ色を隠してるんだ。布に染みて、風に触れて、初めて青くなる。隠れていた色が、空気を吸って、本当の姿を見せるのさ」
セドリックが、息を呑んだ。
「人も、同じだよ」とニコは笑った。「隠してる色は、いつか必ず、表に出る。隠しきれるもんじゃない」
私は、桶の縁に、そっと、手を、添えた。藍の、独特の匂いが、立ちのぼる。慣れ親しんだ、懐かしい匂いだ。
「ニコ。藍の調子は?」
「上々さ。生きてる。藍はな、生き物だ。機嫌をとってやらんと、青くならん」
「相変わらず、難しいことを」とセドリックが、笑った。
「難しい? とんでもない」とニコは、首を振った。「正直なだけさ。手をかけた分だけ、応えてくれる。偽物には、これが、できん。心が、ないからな」
ニコは、青く染まった布を、高く、掲げた。陽に透かすと、藍の青は、深く、澄んでいた。
「見ろ。この青には、にごりがない。混ぜ物を、してないからだ。一色を、まっすぐ、極めた色だ」
私は、その青を、目に、焼きつけた。これが、本物。これが、ニコの、四十年だった。
「調査官さん」とニコは、布を下ろしながら言った。「あんた、さっき、偽物と本物の違いがわからん、と言ったな。だがな、目で見分けようとするから、わからんのだ」
「では、どうすれば」
「待つのさ。陽に当てて、水にくぐらせて、何日か、置いてみる。本物は、何をしても、びくともせん。偽物は、待てば待つほど、ぼろを出す。色ってのは、急かしちゃいかん。急かすと、嘘に、騙される」
セドリックは、その言葉を、胸に刻むように、ゆっくりとうなずいた。私は、ニコのこういうところが、好きだった。色を語りながら、いつのまにか、人の生き方を、語っている。
私は、思わずセドリックと目を合わせた。昨夜、私が回廊でひとり考えていたことと、同じだったからだ。
「ニコ」と私は尋ねた。「最近の偽物、見たでしょう。どう思う」
ニコの笑みが、ふっと消えた。
「……あれはな、素人の仕事じゃない」
「どういうこと」
「下染めの順も、媒染の効かせ方も、玄人の手だ。茜の赤を布に噛ませる、あの手間のかけ方――ありゃあ、うちの工房の手順を、知ってる者の仕事だよ」
冷たいものが、背を走った。
「うちの、手順を」
「ロザリン。お前にだけ、見せたいものがある」
ニコは、染め場の奥の棚から、油紙にくるんだ小さな包みを取り出しかけ――そこで、手を止めた。
「いや。今夜は遅い。明日にしよう。これは、ひとりで見ちゃならんものだ」
「ニコ?」
師は、油紙の包みを、もう一度、棚の奥へ仕舞った。その手が、かすかに震えているのに、私は気づいた。
「明日の昼。お前と、この調査官さんと。三人でな。……いいか、この話は、誰にも言うんじゃないぞ。特に、工房の中ではな」
私は、その意味を、深く考えなかった。考えておけば、と、あとでどれほど悔やんだことか。
私は知らなかった。
ニコと言葉を交わせるのが、それが、最後になるとは。




