第1話 その紫は嘘をついている
「あなたとの婚約を、白紙に戻したい」
殿下がそう言ったとき、私がまず見ていたのは、その隣に立つ女のドレスの裾だった。
広間がざわめく。視線がいっせいに私へ集まるのが、肌でわかった。
私はゆっくりと息を吸い、そして、吐いた。手のひらは、不思議なほど冷たく、落ち着いている。
「もちろんです、殿下」
自分でも驚くくらい、声は澄んでいた。
ジェラルド殿下の眉が、わずかに動く。きっと、泣くか、すがるかすると思っていたのだろう。
「……ずいぶん、あっさりしているな」
「ええ。お引き止めする理由が、見当たりませんので」
殿下の腕には、ひとりの令嬢が寄り添っていた。シエナ嬢。最近、社交界に現れたばかりの男爵令嬢だという。
頬は薔薇色。瞳は潤み、勝ち誇るでもなく、ただ控えめに目を伏せている。完璧な、いじらしさだった。
(ああ、お上手な人だ)
私は素直に、そう思った。
そして同時に、まったく別のことを考えていた。
彼女のドレス。深い、深い紫。王家にだけ許された、高貴な色。
(……でも、その裾は)
私はリューデンの王立染織工房を預かる身だ。色を見るのが、私の仕事だった。
歩くたび、シエナ嬢の裾がわずかに床を擦る。蝋燭の灯りの下で、その擦れたところだけ、紫がほんの少し、赤く濁って見えた。
(本物の紫は、こんなふうに褪せない)
胸の奥が、静かに鳴った。
王家の紫は、海の小さな貝から採る色だという。ひとさじの色を得るのに、数えきれぬ貝を要する。だからこそ、王だけに許された。
そして、それほど手をかけて生まれた色は、めったなことでは褪せも移りもしない。それが、本物の証だった。
広間のあちこちで、扇の陰から、ささやきが漏れていた。
「まあ。捨てられたというのに、あの落ち着きよう」
「気位だけは、高くていらっしゃること」
聞こえている。もちろん、聞こえていた。けれど私は、顔を上げたまま、背筋を、伸ばしていた。
(言いたい方には、言わせておけばいい)
私は、王立染織工房を預かって、三年になる。糸を選び、染めを検め、職人たちと、夜更けまで桶を覗いた日々。その手で覚えた色を、広間のささやき程度で、手放すつもりは、なかった。
シエナ嬢が、殿下の腕の中で、そっと、私から目を逸らした。
その仕草の、ひとつひとつが、よく出来ていた。けれど、出来すぎていた。
(本物の戸惑いは、もっと、不格好なもの)
人の心も、染めと同じだと、工房の老いた染師が、よく言っていた。急いで染めた色は、深みが出ない。時をかけた色だけが、底から、静かに、光る、と。
この令嬢の、いじらしさには、その「時」が、感じられなかった。まるで、一晩で塗り上げた、かりそめの色のように。
ふと、広間の隅で、ひとりの老貴婦人と、目が合った。
彼女は、何も言わず、ただ、わずかに、うなずいた。その目に、嘲りは、なかった。むしろ――何かを、見極めようとするような、静かな光が、宿っていた。
(……どなただったかしら)
思い出せないまま、私は、視線を、正面へ戻した。今は、考えることが、ほかにある。
私は、もう一度、シエナ嬢の裾に、目を落とした。
擦れて赤らんだ、紫の縁。あれは、安い赤の上に、青を薄く重ねた色だ。遠目には、貝紫に見える。けれど、近くで光を当てれば、ふたつの色が、別々に、顔を出す。
(見ているだけでは、足りない。確かめて、示さなければ、ただの当て推量)
観察し、仮説を立て、確かめ、証を示す。それが、師に教わった、色を扱う者の、作法だった。
その人は、口癖のように、言っていた。「色は、嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって、人のほうだ」と。
その言葉が、今夜ほど、胸に響いた夜は、なかった。
目の前の紫は、嘘をついている。ならば、その嘘を、暴くのは――その色を、誰よりも知る、私の役目だ。
私は、静かに、息を、整えた。
「ロザリン嬢」
殿下の声で、我に返る。
「君には感謝している。長らく王宮の工房をよく治めてくれた。解消の手続きは、追って正式に――」
「殿下」
私は、彼の言葉を遮った。自分でも、めずらしいことだと思う。
「ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
広間が、しんと静まった。
「シエナ嬢の、その美しいドレス。どちらでお求めに?」
シエナ嬢が、初めてまっすぐ私を見た。長いまつげが、ぴくりと震える。
「……南の、評判のよい仕立て屋ですわ。それが、なにか?」
「いいえ。とても良い色だと思って」
私は微笑んだ。
「ただ、ひとつだけ。手袋を、外していただけますか」
「なぜ、そんなことを――」
「お嫌でしたら、結構です。これは、ただのお願いですから」
私は引かなかった。引く理由が、なかった。
ためらいながら、シエナ嬢が片方の白い手袋を外す。
その指先の、内側。何度も裾を直していたのだろう。白い肌に、うっすらと――赤紫の色が、移っていた。
(やっぱり)
「ご存じでしたか」
私は、できるだけ穏やかに言った。
「本物の高貴な紫は、肌にも、ほかの布にも、色を移しません。けれど、安い染料を重ねて似せた紫は、こうして擦れたところから、こっそり本性を見せてしまう。布も、肌も、嘘がつけないものですから」
シエナ嬢の頬から、薔薇色が引いていく。
「それに」と、私は声を落とした。「本物の紫は、陽の光を浴びても、めったに褪せません。安い染めは、光の下では長く保たない。だから、晴れた日にお出かけになるときは、お気をつけになって」
殿下が、眉をひそめた。
「ロザリン。何が言いたい」
「いいえ。何も」
私は、外したばかりの手袋を、そっと彼女に返した。
「ただ――婚約の解消、謹んでお受けいたします。その前に、ひとつだけ。あなたの隣にいる方が、本当にその色にふさわしいのか。それは、追々、はっきりすることでしょう」
私は裾をつまみ、深く礼をした。
広間は、水を打ったように、静かだった。
誰も、何も、言えなかった。私が、声を荒らげも、涙を見せもせず、ただ、色のことだけを、淡々と、語ったからだ。
シエナ嬢は、青ざめたまま、殿下の腕に、すがっていた。けれど、その殿下さえ、今は、彼女ではなく、私の、置いていく言葉のほうを、見ていた。
(これで、種は、蒔いた)
あとは、芽が出るのを、待てばいい。嘘という種は、放っておいても、勝手に、奇妙な花を、咲かせるものだから。
背を向け、広間を出る。歩幅は、いつもと同じに保った。乱さない。それだけを、考えていた。
◇
回廊に出ると、夜気が頬を冷やした。
そこで、ようやく気づく。手が、震えていた。
(……平気な顔を、していたつもりだったのに)
握りしめると、手のひらに爪が食い込んだ。
悔しさではない。怒りでも、悲しみでもなかった。
それは、もっと冷たくて、まっすぐな感情だった。
あの紫は、嘘をついている。そして嘘は、いつか必ず、色になって表に出る。
私は、そのことだけは、誰よりもよく知っていた。
亡き母も、よく言っていた。「布は、その人の暮らしを映す鏡よ」と。母も、染めを生業とした人だった。
その母から受け継いだ目が、今夜、はっきりと告げている。
あの令嬢のまとう色も、殿下の選んだ未来も、どこかが、深いところで、ねじれている、と。
ふと、視線を感じた。
回廊の奥、柱の陰。誰かが、こちらを見ていた。
灯りの届かない場所で、その人影は、私が去ったあとの広間を、じっと眺めている。
「どなた」
私は、声をかけた。
返事はない。衣擦れの音だけが、かすかに遠ざかっていった。
その目が、私を見ていたのか、シエナ嬢を見ていたのか。
このときの私には、まだ、わからなかった。




