表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第6話 余白を読む人

 

 監査官の机には、物は運ばれてこない。


 運ばれてくるのは、物から剥がされた言葉だけだった。


 破損。

 処置。

 指示。

 例外。

 不備。

 再確認。


 紙の上で、器は器物になる。灯りは灯具になる。腕は身体補助具になり、笛は葬送具になり、扉は建具になる。


 そう呼び替えた瞬間、誰の手にあったかは少し遠くなる。


 ユリウス・クラウゼン・ロートフェルトは、その遠くなったものを読む仕事をしていた。


 返還監査局の執務室は、修復局よりずっと乾いている。


 火も、水も、油も、木屑もない。机は磨かれ、棚は整い、壁には帝国全域の返還区分図が掛けられている。赤い線は監督下。青い線は返還完了。黒い点は再調査中。地図の上でなら、町も道具も人も、よく整理されて見えた。


 その朝、クラウゼンの机には五つの報告書が置かれていた。


 返還街区七番、西側路地、第三灯。

 返還街区四番、補助義手。

 返還街区九番、旧竜番葬送笛。

 返還街区二番、名縫い布。

 返還街区五番、北列二十三号戸扉。


 担当修復師は、すべて同じだった。


 リゼット・オルヴァ。


 報告書の上には、薄い灰色の札が一枚載せられている。


 裁量逸脱疑義。


 その札は、まだ正式な処分ではない。

 けれど、紙の上に置かれた瞬間、書類全体の温度が変わる。


 ものの修復ではなく、人の審査になる。


 クラウゼンは灰色の札を指で少し横へずらした。


 それだけで、下の文字が見える。


 第三灯、標準白灯化完了。

 義手、使用者特異形状として残置。

 葬送笛、葬送割音復元。

 名縫い布、所在管理糸除去。

 扉、炭化部保護処置済み。


 どれも短い言葉だった。


 短い言葉は、たいてい長い現場のあとに残る。


「ロートフェルト監査官」


 扉の外から声がした。


「入ってください」


 入ってきたのは、返還監査局の上席補佐官、エドヴィン・ハルツだった。背は高く、薄い唇をしている。いつも手袋をしているが、紙をめくるときだけ右手の親指の先を少し外す癖があった。


 人間の手垢より、インクの掠れを気にする男だ。


「例の修復師の件です」


「読んでいます」


「早めに処理した方がいい。現場判断が増えすぎると、下が真似をします」


 下。


 それは職位のことだった。

 だが、ハルツが言うと、別の意味にも聞こえる。


 規定の下。

 記録の下。

 判断を持たない方が都合のいい場所。


「処分を想定していますか」


「まずは注意記録です。軽いものです」


 クラウゼンは灰色の札を見た。


 軽い紙だった。


 けれど、一度挟まれると、修復師の経歴からは簡単に抜けない。


「五件とも、最終的には使用可能状態で返還されています」


「使用可能、という言葉が問題です」


 ハルツは一枚目の報告書を手に取った。


「標準化指示に対して、光色が残っている。身体補助具は標準角に戻していない。葬送笛は一度修復した音割れを再発生させた。名縫い布は原形復元の指示に反して糸を抜いた。扉の公印は判読性を回復していない」


 彼は紙を戻した。


「一件なら事情でしょう。五件なら傾向です」


「傾向はあります」


「では」


「ただし、傾向の名前が違う」


 ハルツの眉が少しだけ動いた。


「規定違反では?」


「規定語と使用実態の不一致です」


 ハルツは短く笑った。


 そこまで言い換えるのか、という笑いだった。


「監査官。あなたは彼女に近すぎるのではありませんか」


 クラウゼンは返事をしなかった。


 近い。


 その言葉は、実際には何も測っていない。

 机の幅も、書類の距離も、視線の長さも。


 ただ疑いを置くのに便利な言葉だった。


「再確認します」


「本人聴取を?」


「先に、現場を」


「またですか」


「書類に足りないものがあれば、本人を呼んでも同じことしか聞けません」


 ハルツはしばらくクラウゼンを見た。


「二日以内に判断を」


「承知しました」


 補佐官が出ていったあと、部屋は元の乾いた静けさに戻った。


 クラウゼンは五つの報告書を並べた。


 リゼットの字は、上手すぎない。


 修復師の字だった。

 まっすぐではあるが、筆跡のところどころに作業後の疲れが出る。急いだときは横線が細くなる。迷ったときは、処置欄の最初の一字だけが少し重くなる。


 第三灯の記録では、光量、の光が重い。

 義手の記録では、使用者、の使が重い。

 葬送笛の記録では、復元、の復が少し滲んでいる。

 名縫い布では、除去、の除の払いが短い。

 扉では、保護、の保がやや大きい。


 どれも規定違反の証拠にはならない。


 ただ、その一字の重さを見る者が、監査局には少ないだけだ。


 クラウゼンは外套を取った。


 最初に向かったのは、返還街区五番だった。


 扉の報告は新しい。

 新しいものほど、まだ現場の形を残している。


 五番街区の北列は、川に近い。


 午後の石畳には、薄い水が残っていた。長屋の壁は低く、窓の下に薪が積まれている。どの家も、扉の高さが少しずつ違った。帝国の建築台帳では同型住居とされているが、現地に来れば、同じ扉など一つもないことが分かる。


 二十三号戸はすぐに見つかった。


 扉の外側には、黒い傷があった。


 近づけば、かつて文字だったものだと分かる。

 少し離れれば、ただの古い焼け跡に見える。


 ちょうどよい曖昧さだった。


 監査官としては、あまり好ましくない。

 人間としては、よくできていると思った。


 扉の前で、子どもがひとり座っていた。


 粉のついた手で、木片を並べている。年は七つか八つくらい。報告書に名前はない。扉の内側に背丈線があった、という補記もない。そういうものは、たいてい処置欄に入らない。


 子どもはクラウゼンを見上げた。


「巡回の人?」


「違います」


「じゃあ、扉の人?」


 少し考えて、クラウゼンは頷いた。


「扉を見に来ました」


「読むの?」


「読みに来たわけではありません」


「じゃあ、いい」


 子どもは木片へ視線を戻した。


 その手が、扉の焼け跡に触れている。


 文字を隠すためではない。

 そこが手を置くのにちょうどよい高さだからだった。


 扉は、すでに子どもの道具になっていた。


「前は、そこを読んでいましたか」


 クラウゼンが訊くと、子どもは顔をしかめた。


「読めたから」


「今は」


「読もうとしたら読めるかもしれないけど」


「読まない?」


「うん。手が粉になるから」


 彼は自分の手を見せた。


 白い粉が指の腹についている。


 理由としては十分だった。


 大人は、理由を大きくしたがる。

 子どもは、ときどき小さいまま正しい。


 戸が内側から開いた。


 マレナ・フォスが出てきた。彼女はクラウゼンの外套の留め具を見て、すぐに監査局の人間だと気づいたらしい。


「何か、不備がありましたか」


「確認です」


「扉は、開きます」


「そのようですね」


 マレナは扉の把手に手を置いた。


 そこにも粉がついていた。


「読めますか」


 彼女が訊いた。


 クラウゼンは焼け跡を見た。


「近づけば」


「近づきますか」


「いいえ」


 マレナはそれ以上、何も訊かなかった。


 その沈黙の中で、子どもが扉にもたれた。背中が黒い傷の一部を隠す。マレナは注意しなかった。


 家の扉として、正しく使われていた。


 監査報告にそう書くことはできない。


 しかし、書けないからといって、見なかったことにはならない。


 クラウゼンは長屋を離れた。


 次に修復局へ向かった。


 リゼット・オルヴァは、第三修復室にいた。


 彼女は小さな引き出しの取っ手を直していた。古い戸棚の部品だ。飾りもなく、由来もない。返還品ではなく、修復局の備品らしい。片側の釘が緩み、取っ手が斜めに傾いている。


 リゼットはそれをまっすぐ直していた。


 ただ、まっすぐに。


 釘を抜き、穴を埋め、位置を測り直し、新しい釘を打つ。躊躇はない。思い入れもない。誰かの痛みを探すような顔もしていない。


 クラウゼンは入口に立ったまま、しばらく見ていた。


 彼女は顔を上げた。


「監査官」


「失礼」


「何かありましたか」


「あなたが、何でも曲げて残す人なのか確認に来ました」


 リゼットは少しだけ目を瞬いた。


 それから、手元の取っ手を見た。


「これは曲がっていると不便です」


「でしょうね」


「中身を取り出すたびに手首をひねるので」


 彼女は釘を打った。


 木と金属の間に、短い音がした。


「まっすぐにするものは、まっすぐにします」


「では、どう分けていますか」


 リゼットはすぐには答えなかった。


 釘の頭を指で確かめ、引き出しを一度開け、閉めた。取っ手はまっすぐだった。軽く動く。何の物語にもならないほど、正しく直っていた。


「壊れている場所と、使われている場所が、同じとは限りません」


 彼女はようやく答えた。


「壊れている場所」


「はい」


「使われている場所」


「はい」


「その二つが重なっていれば、直します。重なっていなければ、先に見ます」


「見るだけで、分かりますか」


「分かりません」


 リゼットは道具を布で拭いた。


「だから、聞きます。持ち主に。使う人に。ときどき、物の方にも」


 最後の言葉だけ、少し声が低かった。


 冗談ではないのだと分かった。


 クラウゼンは机の上の戸棚部品を見た。


「聞いても、嘘をつかれることは?」


「あります」


「本人も知らないことは?」


「あります」


「あなたが間違えることは?」


「あります」


 早かった。


 そこだけ、迷いがなかった。


「間違えたときは」


「戻せるなら戻します。戻せないなら、戻せないことを記録します」


「それで足りますか」


「足りません」


 リゼットは顔を上げた。


「でも、足りないからといって、最初から何も見ないよりはいいと思っています」


 修復室の外で、誰かが乾燥棚を閉めた。薄い金属音が廊下に伸びる。


 クラウゼンは灰色の札を思い出した。


 裁量逸脱疑義。


 あの札は、彼女の仕事を簡単にする。

 簡単に悪くする。


 ただ、それで説明できるものは少なかった。


「あなたの報告書は、処理に困ります」


「申し訳ありません」


「謝ることではありません」


「では」


「困らせている自覚は持ってください」


 リゼットは少しだけ考えた。


「あります」


「十分ではありません」


「たぶん」


 彼女はそう言って、机の上の小さな木屑を払った。


 その手には、粉がついていた。木粉だった。扉の小麦粉ではない。それでもクラウゼンは、五番街区の子どもの手を思い出した。


「ロートフェルト監査官」


「はい」


「私は、規定を嫌っているわけではありません」


「知っています」


 リゼットは意外そうに彼を見た。


「知っているのですか」


「嫌っている人間は、あんなに長い処置理由を書きません」


 彼女は少し黙った。


 それから、薄く息を吐いた。


「短く書ける仕事の方が、楽です」


「でしょうね」


「でも、短く書くと、次に壊れることがあります」


 クラウゼンは返事をしなかった。


 その言葉は、監査局の机では聞けない。


 だが、監査局の机にも必要な言葉だった。


 修復室を出る前に、彼は振り返った。


「オルヴァ修復師」


「はい」


「あなたの処置は、物の上では残っています」


 リゼットは黙って聞いていた。


「紙の上では、まだ危うい」


 それだけ言って、クラウゼンは修復局を出た。


 監査局へ戻るころには、日が傾いていた。


 執務室には、朝と同じ五つの報告書が置かれている。灰色の札もそのままだった。


 クラウゼンは外套を脱ぎ、椅子に座った。


 まず札を外した。


 それから、新しい用紙を取り出す。


 処分記録ではない。


 指示文再検討申請。


 標準化、原形復元、判読性回復。

 それらの言葉が、現地使用実態と衝突する場合がある。

 修復対象の機能は、構造上の機能と生活上の機能に分けて確認されるべきである。


 彼はそこで筆を止めた。


 生活上の機能。


 監査局では嫌われそうな言葉だった。


 柔らかすぎる。

 測定しにくい。

 悪用される余地がある。


 それでも、ないことにすれば、扉は掲示板に戻る。

 義手は肩を騒がせる。

 笛は泣く場所を失う。


 クラウゼンは続きを書いた。


 上記五件について、担当修復師の処置は現行指示文から逸脱して見える箇所がある。ただし、使用者確認および現地確認の結果、いずれも返還後の使用継続性を高める処置であり、処分対象ではなく、指示文側の未整備事例として整理することを提案する。


 処分対象ではなく。


 その一文だけは、少し強く書いた。


 強く書かなければ、弱い紙は負ける。


 夜になって、ハルツ補佐官が戻ってきた。


 彼は申請書を読み、眉間を押さえた。


「あなたは、彼女を庇っていますね」


「いいえ」


「では何を」


「監査の対象を間違えないようにしています」


「言葉遊びです」


「そうです」


 ハルツが顔を上げた。


 クラウゼンは続けた。


「だから、慎重に扱う必要があります。言葉ひとつで、扉が扉でなくなることがあります」


 ハルツはしばらく黙っていた。


 納得はしていない。


 だが、今ここで破り捨てるほど軽い紙でもないと判断したのだろう。


「上に回します」


「お願いします」


「通るとは限りません」


「承知しています」


 補佐官が去ったあと、クラウゼンは机の上に残った灰色の札を見た。


 裁量逸脱疑義。


 それはまだ有効な札だった。


 いつでも戻せる。


 いつでも、リゼット・オルヴァの名前の上に置ける。


 彼はその札を破らなかった。


 破れば、危うさまで消えてしまう。


 代わりに、別の封筒へ入れた。


 表には、未使用、とだけ書いた。


 庇ったのではない。


 まだ使わないと決めただけだった。


 執務室の外で、夜番の鐘が鳴った。


 修復局の鐘よりも硬い音だった。感情を含まず、時間だけを知らせる音。クラウゼンは机の上の報告書を揃え、明かりを落とした。


 廊下へ出ると、窓の向こうに返還街区の灯りが小さく見えた。


 あのどこかに、読めなくなった扉がある。


 白い粉の手形は、もう落ちただろうか。

 それとも、明日の朝まで残るだろうか。


 クラウゼンには分からなかった。


 彼は手袋をはめ直した。


 右手の親指の先だけ、少し遅れて布の中に収まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ