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第5話 読めなくなった扉

 

 扉は、閉じているときより、開くときの方がものを言う。


 蝶番の軋み。

 木枠を擦る音。

 中の空気が外へこぼれる匂い。

 外の寒さをどれだけ入れるか、家の中の声をどれだけ逃がすか。


 扉は、ただ境目に立っているわけではない。


 その家が、外に向けてどんな顔をするかを、毎朝いちばん先に決めている。


 返還街区五番の長屋から外された扉は、修復局の搬入口に立てかけられていた。


 大きな扉ではない。


 大人ひとりが身を縮めずに通れる程度の高さで、板は三枚。横木が二本。鉄の把手は黒ずみ、下の端は湿気で少し膨らんでいる。右下には犬か猫が引っかいたような傷があり、内側には子どもの背丈を測った線がいくつも刻まれていた。


 問題は、外側だった。


 ちょうど胸の高さに、焼印が押されている。


 帝国の丸印。

 その下に、太い字で三語。


 赦免済。

 再居住許可。

 監督下。


 焦げは深く、板の中ほどまで入っていた。年月で端は潰れ、雨と手垢で黒は薄れ、すでに判読しづらくなっている。けれど、近づけば読めた。


 読みたくなくても、読めた。


 伝票は、扉に紙紐で括りつけられていた。


 返還街区五番、北列二十三号戸。

 損傷、下端膨張、蝶番摩耗、公印焼印摩耗。

 処置、建付け調整、蝶番交換、公印判読性回復。


 公印判読性回復。


 それは修復の言葉ではあった。


 けれど、扉に向かって使うには、少し声が大きすぎた。


 私は板の表面を手で撫でた。


 焼印の上だけ、ほかの場所より滑らかだった。雨で削れたのではない。布で拭かれ、袖で擦られ、手のひらで何度も押さえられた跡だ。人が消そうとして消えなかったものは、周りより少し静かな艶を持つことがある。


 把手の下には、白い粉が残っていた。


 小麦粉だった。


 長屋の誰かが、粉のついた手で毎日そこを触っていたのだろう。焼印の一部にも白く入り込んでいる。赦免、の免のあたりに粉が溜まり、文字の線を少しだけ曖昧にしていた。


 私は爪の先で粉を払おうとして、やめた。


 修復室へ運び込まれた扉は、床に寝かされると急に家ではなくなった。


 扉は立っている方がいい。


 横たわると、ただの板に近くなる。

 ただの板なら、削れる。磨ける。焼印も、線の深さと炭化の具合だけで考えられる。


 私は蝶番を外し、下端の膨張を測った。湿気を吸って木が膨らみ、枠に当たっていたらしい。少し削れば済む。蝶番も交換できる。把手はまだ使える。


 公印は、難しくなかった。


 焼印の溝を掃除し、炭化した線を整え、薄い黒樹脂を流す。輪郭を起こせば、文字はまた読める。必要なら帝国印の欠けた部分も補える。


 読みやすくすることは、簡単だった。


 昼過ぎ、長屋の戸主が来た。


 女だった。


 年は五十を少し越えているように見えた。髪に白いものが混じり、手首から肘にかけて粉がついている。パン焼きか、麺打ちか、粉を扱う仕事の手だった。爪は短く、手の甲は乾いて割れている。


 名前は、マレナ・フォス。


 彼女は扉を見るなり、まず下端を見た。


「やっぱり膨らんでましたか」


「はい。ここが枠に当たっていたと思います」


「朝、開けるときだけ引っかかるんです。昼になると、少しましになる」


「湿気です」


「でしょうね。川が近いので」


 そこまでは普通の受領人の声だった。


 けれど、視線が焼印に移ったところで、彼女の口が止まった。


 私は伝票を机の端へ置いた。


「公印の判読性回復も指示されています」


「ええ」


 マレナは短く答えた。


「知っています」


「読める状態に戻す必要があります」


「必要なのは、誰にですか」


 責める声ではなかった。


 疲れた人が、もう何度も同じ問いを自分の中で置いてきたあとの声だった。


「巡回官に提示するためです」


「巡回官は台帳を持っています」


「扉の印も確認します」


「見なくても分かるのに」


 マレナは扉の前に立った。


 指で焼印には触れなかった。触れると手が汚れるものではない。触れたら、そこがまた文字になると思っているようだった。


「これが読めなくなってから、うちの子はここに背を預けるようになりました」


 私は内側の背丈線を思い出した。


「お子さんが」


「孫です。字を覚えたばかりで」


 彼女は把手の下に残った白い粉を見た。


「最初に読んだんです。これを」


 修復室の奥で、誰かが小さく咳をした。


「何と読むの、と聞かれました。赦免って何、と。誰が何を許したの、と」


 私は答えを探さなかった。


 その問いに、修復師が出せる答えはない。


「それからしばらく、あの子は扉の前で靴を履かなくなりました。裏口から出るんです。裏口は狭いし、井戸端を回らないと道に出られないのに」


 マレナは笑わなかった。


「去年の冬、粉袋を運んでいるときに、私がこの上へ手をついたんです。白くなって、字が少し読めなくなった。それを見てから、あの子もここに手を置くようになりました」


 私は焼印に入り込んだ小麦粉を見た。


 赦免済。


 粉で曇った文字。


「読めなくなったから、扉に戻ったんです」


 マレナはそこで初めて、私を見た。


「読めるあいだは、毎朝、あれは家の入口ではありませんでした」


 私は何も書かなかった。


 扉の上には、まだ紙紐の跡が残っている。伝票を外しても、細い凹みだけが板の表面に残っていた。


「印を消せば、問題になります」


「消してくださいとは言っていません」


「では」


「読めるように戻さないでください」


 その違いは、指先ほどの細さだった。


 けれど、彼女はそこに立っていた。


「文字があることは、知っています。昔からそこにあったことも。でも、毎朝読めるようにされるのは困るんです」


「困る」


「家に入る前に、まず許されたことを思い出さなければならないから」


 彼女の手に白い粉がついている。


 その粉で、彼女はパンか麺を作る。孫の口に入るものを作る。扉を開けるとき、その同じ手が焼印の上に置かれる。


 赦しという字は、粉で曇っていた。


 私は伝票を見た。


 公印判読性回復。


 その文字の方が、焼印より新しく、ずっと簡単に読めた。


 午後、巡回吏員が来た。


 監査官ではない。五番街区を回る若い吏員だった。帽子の縁が硬く、靴はよく磨かれている。彼は修復室に入ると、扉より先に伝票を見た。


「公印も戻りますか」


「建付けから先に見ています」


「明日の夕方には必要です。北列は近々確認が入るので」


「確認なら台帳があるはずです」


「扉に印がある方が早い」


 吏員はあっさり答えた。


 早い。


 その言葉は、たいてい正しい側の顔をしている。


「読めないと、戸主を呼ばなければならない。台帳を照合する。面倒でしょう」


 面倒。


 そこに家の朝はなかった。


 孫がどの入口から出るかも、粉のついた手も、冬に膨らむ板もなかった。


「公印は、どの程度まで判読できればいいのですか」


「規定では三語すべてです。赦免済、再居住許可、監督下」


 吏員は扉を見た。


「まあ、今でも何となくは読めますが、上からなぞった方がいいでしょう。薄いと、こちらが怒られる」


 こちら。


 その中に、扉の内側の人間はいなかった。


 吏員が帰ったあと、私は扉を立てかけた。


 立てると、焼印の高さが変わる。


 床に寝かせているとただの文字だったものが、立てた途端、人の胸の位置に来る。家に入る人の目に入る。出ていく人の背中を押す。子どもなら、ちょうど顔の高さだ。


 私は扉の前に立った。


 外から帰ってくるつもりで、把手に手をかける。

 手のすぐ上に、焼印がある。


 開ける前に、読める。


 扉なのに、先に読ませる。


 そのことが、急にひどく無作法に思えた。


 私は下端を削った。


 湿気で膨らんだ部分を薄く落とし、木目に沿って整える。蝶番は新しいものに替えたが、把手は磨くだけにした。黒ずんだ金属は、手に馴染んでいる。あまり光らせると、扉だけが知らない顔になる。


 問題は焼印だった。


 消すことはできる。


 表面を深く削れば、文字は消える。ただし板は薄くなる。焼印は深い。完全に消そうとすれば、扉の腹をえぐることになる。


 読めるように戻すこともできる。


 溝を整え、樹脂を入れれば、またはっきりする。


 どちらも、手としては単純だった。


 けれどマレナが求めたのは、どちらでもなかった。


 消さない。

 戻さない。


 読める文字を、ただの古い傷に近づける。


 私は水を含ませた布を取った。


 焼印の溝に詰まった古い煤と泥を、すべては取らず、浮いた分だけを拭う。文字の角だけを削る。線の終わりを少し丸くする。樹脂は入れない。代わりに、周囲の木目へ近い色の油を薄く染み込ませる。


 作業としては、判読性回復ではない。


 保護だった。


 これ以上割れないように。

 これ以上文字として立ち上がらないように。


 赦、の言偏がただの黒い枝に崩れる。

 免、の下の線が、雨染みのようにほどける。

 監督下、の三文字は、木目の節とほとんど同じ暗さになった。


 近づけば、何かがあったことは分かる。


 けれど、すぐには読めない。


 読むには、立ち止まらなければならない。

 立ち止まり、顔を近づけ、昔の字を拾おうとしなければならない。


 扉としては、それで十分だった。


 夕方、マレナがもう一度来た。


 扉は修復室の壁際に立てかけてあった。


 彼女はまず、下端を見た。手で撫でる。次に蝶番を見た。把手を握り、少し動かす。職人の確認ではない。毎朝使う人の確認だった。


 最後に、焼印を見た。


 長く見た。


 口を開かなかった。


 私は横で、余った油を布へ染み込ませていた。何かを言えば、こちらの仕事になる。黙っていれば、彼女の扉でいられる。


「読めないですね」


 ようやく、彼女が言った。


「近づけば、少しは」


「近づく人は、読みたい人です」


 彼女は把手に手をかけた。


 扉はまだ枠に戻っていない。だから開くわけではない。それでも、彼女の手は自然に開ける位置へ落ちた。


「うちの子は、読まなくていい」


 その声は、誰かに許しを求めているものではなかった。


 扉の使い方を、ただ決め直す声だった。


 翌朝、私は扉を五番街区へ運んだ。


 長屋の北列は川に近く、石畳の隙間に薄い泥が入っている。洗濯物の紐が低く渡り、窓から麦を煮る匂いがした。二十三号戸の前では、小さな男の子が座っていた。


 七つくらいだろうか。


 膝に粉のついた布袋を抱え、こちらを見るでもなく、扉のない入口を見ている。入口には仮の板が立てかけられていて、家の中の暗さが少し漏れていた。


「戻るの」


 男の子が訊いた。


「戻します」


「あれ、まだ書いてある?」


 私は扉を台車から下ろしながら、すぐには答えなかった。


「何かは残っています」


「読める?」


「読みたいなら」


 男の子は少し考えた。


「じゃあ、いい」


 それだけ言って、布袋を抱え直した。


 マレナが奥から出てきた。マレナの後ろに、若い男がいる。息子か、婿かは分からない。彼は何も言わず、扉を枠に合わせるのを手伝った。


 蝶番を固定する。


 古い穴に、新しい釘を打つ。枠は少し歪んでいた。扉だけをまっすぐにしても、合わない。枠の歪みに合わせ、釘の角度をほんの少し変える。扉が家へ戻るときは、扉だけを正しても意味がない。


 最後の釘を打ち終えると、マレナが把手を引いた。


 扉は開いた。


 引っかからなかった。


 家の中から、温かい粉の匂いがした。焼く前の生地の匂いだった。男の子が立ち上がり、扉の横に寄る。焼印だった場所を、じっと見た。


 私は息を止めかけた。


 男の子は読まなかった。


 片手をそこに置いた。


 文字を確かめる手ではなかった。扉が戻ってきたか確かめる手だった。粉袋を抱えていたせいで、手のひらには白い粉がついている。黒く沈んだ焼印跡の上に、薄い白がのった。


 彼はそのまま扉を押した。


 扉が閉まる。


 軽い音だった。


 許可証が閉じる音ではない。

 掲示板が閉じる音でもない。


 家の扉が、ただ閉まる音だった。


 私は釘箱を片づけた。


 帰り支度をしていると、巡回吏員が通りの端から歩いてきた。昨日の若い男だった。彼は扉の前で足を止め、目を細めた。


「印は」


 マレナが答える前に、私は修復報告の控えを差し出した。


「炭化部保護処置済み。板厚保持のため、深削りおよび再焼き入れは不実施です」


 嘘ではない。


 けれど、全部でもない。


 吏員は控えを読み、扉を見た。近づけば読めるかもしれない。けれど彼は泥の上で靴を止めたままだった。家の扉に顔を寄せるには、少し距離があった。


「まあ、台帳と合えばいいでしょう」


 そう言って、彼は次の家へ向かった。


 早い仕事だった。


 扉の前には、男の子の手形だけが残っていた。


 白い粉の手形。


 焼印だったものを、ちょうど半分隠している。


 私はそれを見て、少しだけ目を伏せた。


 その手形も、夜までには落ちるだろう。マレナが拭くかもしれない。雨が来れば流れるかもしれない。あるいは、明日また新しい粉の手が同じ場所につくかもしれない。


 そこから先は、扉の仕事だった。


 修復局へ戻る道で、川沿いの風が冷たかった。


 私は道具箱の中で、削った木屑が揺れる音を聞いた。赦免の字の角だったものも、監督下の線だったものも、その中に混じっている。もはやどれがどれか分からない。


 廃棄箱へ入れれば、ただの木屑になる。


 記録庫へ回せば、証拠になる。


 私は少し迷ってから、木屑の袋を閉じた。


 今日のところは、どちらにも渡さなかった。


 夕方、修復室に戻ると、指先にまだ白い粉が残っていた。


 小麦粉だった。


 扉の前で男の子がつけたものか、搬入口で触れたものかは分からない。


 あの長屋では、今ごろ扉が閉まっているだろう。


 読もうとしなければ読めない傷の上に、また粉の手が置かれるかもしれない。

 背を預けるかもしれない。

 何も知らずに、冬の風を止めるかもしれない。


 私は水場へ行かなかった。


 手を洗うのは、明日の朝でいいと思った。

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