第4話 名前をほどく
その布には、名前が多すぎた。
最初にそう思った。
帝国修復局の布類は、木箱ではなく浅い引き出しで運ばれてくる。畳まれたままだと傷の深さが分からないからだ。織物、喪布、婚礼幕、祈り布、帳、子どもを包むための名縫い布。布は軽い。けれど、広げると場所を取る。
場所を取るものは、たいてい、誰かの時間も取っている。
私の机へ届いたのは、古い寝台覆いだった。
返還街区二番、旧施療院保管品。
用途、幼児用保温布。
損傷、端部焦げ、縫い目切れ、名縫い糸の脱落。
処置、原形復元。
布は大きくはなかった。両腕を広げれば抱えられるほどの正方形で、表地は淡い灰色、裏には羊毛が薄く入っている。帝国の支給布より、ずっと柔らかい。長く使われ、洗われ、また使われた布だった。
端の一辺が焦げていた。
火に落ちたのではない。おそらく、焼かれかけたものを誰かが途中で引き戻したのだろう。焦げは斜めに走り、布の隅だけが黒く縮んでいる。焦げた部分の近くで、いくつもの刺繍糸が切れていた。
名前だった。
小さな名前が、布のあちこちに縫われている。
リオ。ラナ。ミル。アダ。ノイ。
短い名。長い名。途中で途切れた名。
その上から、別の糸で縫い直された名。
縫い目は、どれも同じではなかった。
丸い字。尖った字。迷いのない字。途中で糸の張りが変わる字。名前を縫う手は、たいてい名前の持ち主の顔を思い浮かべている。だから同じ針でも、少しずつ違う。
けれど、その布には別の糸も混じっていた。
金色の糸だった。
帝国の施療院で使われる名縫い糸。魔力を通しやすく、子どもの体温や所在を読むために使われる。実用的で、切れにくく、濡れても色が落ちない。
金糸の名は、どれも同じ高さで、同じ大きさで縫われていた。
名前というより、札に近かった。
私は焦げた隅を広げ、切れた糸を拾い集めた。原形復元なら、焦げを切り取り、地の布を継ぎ、欠けた名を補う。金糸も同じ太さのものを選び、同じ角度で戻す。
布はまた、きれいな施療院の保管品になる。
そうすれば、処置は終わる。
終わるはずだった。
名縫いのひとつに、妙な箇所があった。
金糸で縫われた名。
ミリヤ。
その下に、別の穴が残っている。
古い糸をほどいた跡だった。布の目だけが、かすかに歪んでいる。指でなぞると、金糸の下に、もうひとつの名前の形が沈んでいることが分かった。
金糸は強い。
強い糸は、下にあったものをよく隠す。
昼過ぎ、受付係が来た。
「二番街区の布の件で、受領予定者が来ています」
「予定日は明日では」
「本人が、どうしても今日見たいと」
私は布を見下ろした。
焦げはまだそのままだ。名も補っていない。途中の状態を見せるのは、普通なら避ける。けれど、受領人が来る理由は、途中にしかないこともある。
「通して」
来たのは、若い女だった。
二十代の半ばに見えた。髪を短く切り、濃い茶の外套を着ている。腹のあたりに、まだ少しだけ産後の重さが残っていた。手首には赤い紐が巻かれている。祈り紐ではない。子どもの名を忘れないために、母親が自分の手へ結ぶ地方の習慣だと、どこかで聞いたことがあった。
「ミリヤ・トルです」
彼女はそう名乗った。
私は布の上の金糸を見た。
そこにも、ミリヤとある。
彼女は私の視線に気づいた。
「その名前です」
声は静かだった。
「それを、戻さないでください」
私はすぐには答えなかった。
彼女は机に近づき、布には触れず、金糸の名だけを見た。
「旧施療院の記録では、この名になっています」
「はい」
「名縫い糸は脱落部分を復元するよう指示されています」
「はい」
彼女は、ひとつひとつ受け取った。
受け取るたびに、顔のどこかが少し硬くなる。
「でも、それは私の名前ではありません」
修復室の奥で、誰かが椅子を引く音がした。
「帝国に来てから付けられた名ですか」
彼女はうなずいた。
「母の付けた名は、ほどかれました」
ほどかれました。
殺された、でも、奪われた、でもなかった。
糸の話として言われたぶん、余計に布から離れなかった。
私は金糸の下に沈む古い穴を指でなぞった。
「この下の跡が、元の名ですか」
「たぶん」
「読めますか」
「読めません」
ミリヤはそこで初めて、私を見た。
「だから、戻せないんです」
私は何も言えなかった。
元の名を読めない。
それは、消されたものを戻せないということだった。
けれど、別の名を戻せば、消した側の手だけが残る。
「この布は、何に使うのですか」
「娘を包みます」
彼女の手が、腹の前で小さく握られた。
「二番街区の名縫い布は、子どもの最初の冬に使います。古い名が多いほど、寒さを越せると言われていました。帝国の施療院に集められてからは、子どもを数えるための布になりましたけど」
「では、金糸を残した方が、保温の魔力は」
「残ります」
彼女は遮らなかった。
むしろ、その答えを最初から分かっていたようだった。
「でも、あの名で娘を包みたくありません」
声は大きくならなかった。
大きくならないまま、机の上の布を押した。
「私を呼ぶための名前ではありませんでした。返事をさせるための名前でした」
私は金糸を見た。
切れにくく、濡れても色が落ちず、魔力をよく通す糸。
実用的な糸。
人を管理するには、実用的な糸が選ばれる。
「消せば、記録も薄れます」
私は言ってから、自分の声が職員のものに寄っていることに気づいた。
ミリヤは怒らなかった。
「記録に残してください」
彼女は言った。
「布の上には、残さないでください」
その区別は、あまりにもはっきりしていた。
私は、残すことばかりを覚えようとしていた。
けれど、残ることで傷になるものもある。
彼女はそれを、布の前で知っていた。
扉の外で、靴音が止まった。
クラウゼン監査官だった。
いつから聞いていたのかは分からない。彼は机の上の布を見て、それからミリヤを見た。
「原形復元の指示が出ています」
ミリヤの顔は変わらなかった。
「知っています」
「名縫い糸を外せば、原形ではなくなります」
「私の原形ではありません」
監査官は返事をしなかった。
私は、その沈黙の中で、布の目を見ていた。
金糸の下にある小さな穴。
元の名前は読めない。
読めないものを、想像で縫ってはいけない。
読めるものだからといって、戻していいとも限らない。
「処置を変更します」
私は言った。
クラウゼン監査官の視線がこちらへ移る。
「焦げと縫い目切れは修復。金糸の名は復元しません。既存分も外します」
「既存分も」
「はい」
「理由は」
今度は、すぐに答えなかった。
答えを急げば、また誰かの言葉をこちらの言葉で覆うことになる。
ミリヤの手首の赤い紐が目に入った。
娘の名前を忘れないための紐。
忘れないために結ぶものと、返事をさせるために縫うものは、同じ糸ではない。
「拘束糸として機能しているためです」
私はゆっくり言葉を選んだ。
「保温の名縫いではなく、旧施療院の所在管理糸です。受領者本人の使用目的に反します」
クラウゼン監査官は私を見ていた。
助け舟はなかった。
否定もなかった。
「外したあとは」
「穴は埋めません」
自分でそう言って、少しだけ驚いた。
でも、それがいちばん近かった。
「糸だけを抜きます。布地は補強します。名の跡は、穴のまま残します」
ミリヤが初めて息を吸った。
「穴は、残るんですか」
「残ります」
「読めますか」
「読めません」
彼女は金糸を見た。
長い沈黙のあと、うなずいた。
「それなら」
その先は言わなかった。
クラウゼン監査官は帳簿を開かなかった。
「では、私は見ていません」
その言い方は見逃しではなかった。
見ていないことにする、という意味でもない。
今はまだ記録へ移す段階ではない、と言われた気がした。
彼はそれだけ残して出ていった。
私は道具箱から、ほどき針を取った。
金糸は硬かった。
細い針を入れても、なかなか浮かない。無理に引けば、布地ごと裂ける。私は糸の下へ針先を通し、一本ずつ、張りを抜いていった。
名をほどく仕事は、縫うより遅い。
縫うときは、先へ進めば形になる。
ほどくときは、先へ進むほど、形が失われていく。
ミリヤは椅子に座り、黙って見ていた。
途中で何度か目を伏せた。けれど席は立たなかった。彼女にとって、それは修復の見学ではなかったのだと思う。
ミ、の縫い目が抜けた。
布に小さな穴が並ぶ。
リ、が消える。
金糸の下から、古い灰色の布目が出てくる。強い糸に押されていたせいで、そこだけ少し窪んでいた。
ヤ、をほどくとき、糸が途中で切れた。
ミリヤの肩がわずかに動いた。
私は切れた端を摘み、残りを抜いた。
金色の名前は、膝の上の皿に落ちた。
名前だったものは、糸になると軽かった。
布の上には、穴だけが残った。
読めない穴。
けれど、もう金色ではなかった。
私は裏から薄い当て布を置き、穴の周囲だけを細かくかがった。穴を塞がないように、布が裂けないように。残すのでも、消すのでもない。これ以上広がらないように、端だけを支える。
それは修復というより、ほどいた場所を見張る仕事だった。
夕方、焦げた隅に取りかかった。
黒く縮んだ部分を切り落とす。灰が指先につく。新しい布を継ぎ、古い縫い目に合わせて糸を通す。布の色は完全には合わない。合わない方がよかった。焼かれかけた隅まで、何もなかった顔に戻してしまう必要はない。
ただ、娘を包めるだけの強さは要る。
夜になって、ようやく布は形を取り戻した。
金糸の名はない。
元の名もない。
その場所だけ、いくつかの穴が静かに並んでいる。
ミリヤは長いあいだ、その穴を見ていた。
「ここ」
彼女は指で触れなかった。
少し上で止める。
「ここに、名前があったんですね」
「はい」
「どちらの名前も、もう読めない」
「はい」
彼女はうなずいた。
息を吐くことはなかった。
ただ、布を押さえていた指だけが、ほんの少し緩んだ。
「これで、包めます」
その言葉は、私に向けられたものではなかった。
たぶん、まだここにいない娘へ向けたものだった。
翌朝、ミリヤは赤ん坊を連れてきた。
小さな子だった。目はまだよく開かず、頬だけが柔らかく動いている。泣く前の顔をしていたが、泣いてはいなかった。
私は布を渡した。
ミリヤは広げ、その場で赤ん坊を包んだ。
布は少し古い匂いがした。洗っても抜けない家の匂い、火の匂い、羊毛の匂い。金糸を抜いた場所が、赤ん坊の背中の少し横に来た。
穴は、外から見えなかった。
けれど中にはあった。
ミリヤは赤ん坊の背を撫でた。穴のある場所を避けるでもなく、なぞるでもなく、ただ普通に撫でた。
その普通さを見たとき、私はようやく少し息ができた。
赤ん坊が口を開けた。
泣くかと思った。
けれど、声は出なかった。代わりに、小さな舌が空気を探すように動いた。ミリヤはその顔を見て、手首の赤い紐をほどいた。
結び目を解き、短い糸を赤ん坊の布の端へ通す。
私は止めなかった。
それは修復ではない。
帝国の処置でもない。
ただ、母親が自分の手から娘の布へ、忘れないための糸を移しただけだった。
赤い糸は、名前の形にはならなかった。
ただの小さな結び目になった。
ミリヤはそれを見て、初めて少し笑った。
笑ったと言うには薄かった。けれど、布の上に戻ってきたものは、金色の名よりずっと軽かった。
彼女が帰ったあと、皿の中に金糸が残っていた。
ほどかれた名前。
私はそれを廃棄箱へ入れようとして、手を止めた。
証拠として残すべきか。
燃やすべきか。
今度は少しだけ、迷う時間が短かった。
私は小さな封筒を取り出し、金糸を入れた。
封筒の表には、旧施療院管理名縫い糸、とだけ書く。ミリヤという名は書かなかった。
彼女の布の上からは消した。
けれど、なかったことにはしない。
私はその違いに名前を付けないまま、封をした。
午後、クラウゼン監査官が来た。
机の上の封筒を見る。
「燃やすと思いました」
「燃やした方がよかったですか」
「あなたが決めたのでしょう」
「布の上からは外しました」
「記録には残した」
「はい」
監査官は封筒に触れなかった。
「残す場所を変えたわけですね」
私は答えなかった。
そう言われると、少し違う気がした。
でも、完全に違うとも言えなかった。
監査官は、そこで話を終えた。
その日の終業後、私は修復室の窓を開けた。
外から、遠い街区の匂いが入ってくる。煮炊きの煙、湿った石、雨になりそこねた風の匂い。
名を抜いた布が、赤ん坊の背にある。
金糸は、封筒の中にある。
穴は、布の中にある。
どれが残ったのか、私はすぐには決められなかった。
ただ、あの子が大きくなったとき、布の端にある赤い結び目を指で触れることがあるかもしれない。
そのとき、穴のことを知るかもしれない。
知らないまま、冬を越すだけかもしれない。
どちらでもいい、とはまだ思えなかった。
けれど、知らされる前から呼ばれる名前を、背中に縫われずに済む。
その冬だけは、穴のまま越せる。
私は窓を閉めた。
修復室には、針でほどいたあとの細かな糸くずが、まだ少しだけ残っていた。




