第3話 綺麗な音では、泣けない
笛は、壊れる前から少し泣いていたのだと思う。
そう気づいたのは、いちど、その声を消してしまってからだった。
帝国修復局の第四棚には、音を持つものが置かれる。
鐘。鈴。弦箱。祈り板。雨を呼ぶ太鼓。名を告げる角笛。
それらは器や灯具より厄介だった。
欠けは見える。
罅も、錆も、歪みも見える。
けれど、音は見えない。
見えないものは、直ったことにされやすい。
その朝、第四棚から私の机へ回されてきたのは、一本の笛だった。
返還街区九番。旧竜番小屋。葬送用。
伝票には、そう記されていた。
破損内容。
歌口欠損。管内亀裂。音割れ。至急修復。
笛は白かった。
木でも陶でもない。竜骨だった。おそらく、若い飛竜の肋骨を磨いて作ったものだろう。細く、軽く、指穴は五つしかない。帝都の楽師が持つ横笛のような華やかさはなかった。白い管のところどころに灰色の筋が沈み、骨の中に残った古い空の跡のように見えた。
私は布の上で笛を転がした。
歌口の端が欠けている。そこから細い亀裂が管の内側へ走っていた。覗き込むと、内壁の一部がささくれている。息を入れれば、そこで音が割れるはずだった。
楽器修復規定では、音割れは欠陥である。
呼気が途中で裂けること。
基音が定まらないこと。
不要な震えが生じること。
そうしたものは、取り除くべき雑音として分類されている。
私は笛を持ち上げた。
驚くほど軽い。
骨でできた道具には、ときどき体温のようなものが残っていることがある。もちろん、実際に温かいわけではない。ただ、手に取った瞬間、こちらの指が勝手に熱を探してしまう。死んだ生き物の一部であることを、指の方が先に思い出すのだ。
管の表面には薄い艶があった。
長く誰かに握られてきた艶だった。飾るための楽器ではない。使われるための笛だった。
葬送用。
その文字をもう一度見る。
修復期限は明日。使用予定は明後日。
死者が待っている道具だった。
昼前、フォルン局長が私の机の前で足を止めた。
「竜骨ですね」
「はい。九番街区の返還品です」
「割れていますか」
「歌口と、管の内側に」
局長は伝票を見た。
いつものように淡々としていたが、葬送用、の欄だけ指先で押さえた。
「遅らせれば、儀式が遅れます」
「間に合わせます」
「急がせたいわけではありません」
局長の視線は笛に落ちていた。
「ただ、遅れても誰も生き返らない道具はあります」
それだけ言って、彼女は去った。
私は笛に向き直った。
歌口を埋める骨粉を選ぶ。色の近いものをさらに細かく擦り、少量の樹脂に混ぜる。竜骨は見た目より繊細だ。硬いようで、熱を入れすぎると内部の細い空洞が潰れる。強い樹脂を使えば音は硬くなる。弱すぎれば、また欠ける。
私は亀裂に樹脂を入れ、歌口を補った。
乾くまで待ち、余分を削る。管内のささくれを細い布で磨く。指穴の縁も整えた。
見た目には、ほとんど分からなくなった。
夕方、試吹き用の台へ移る。
私は楽師ではない。けれど修復師として、鳴るかどうかを確かめるだけの息は持っている。
笛を唇へ当てた。
息を入れる。
音が出た。
細く、澄んだ音だった。
白い骨から出るには、少し透明すぎるほどの音だった。管の中で息が詰まらず、先までまっすぐ抜けていく。音割れはない。揺れも少ない。基音も規定内に収まっている。
私は処置欄へ書いた。
歌口補填。管内亀裂固定。内壁研磨。音割れ除去。
整った記録だった。
整いすぎている気がした。
けれど、そのときの私は、その違和感を作業疲れだと思った。
翌朝、受領人が来た。
九番街区の女だった。
年は四十前後に見えた。黒い髪を後ろで束ね、古い藍色の喪布を肩にかけている。帝国支給の灰色ではない。布の端には、何かを燃やしたあとの匂いが薄く残っていた。
彼女は名を、セナ・ヴァルと書いた。
竜番小屋の最後の笛吹きだと、受付係が小さく補足した。
最後、という言葉が、修復室の机に少し残った。
私は笛を布の上に置いた。
「歌口と亀裂は修復済みです。音も確認しています」
セナはうなずいた。
笛に手を伸ばす前に、喪布の端を整えた。触れる順番を間違えないようにする人の動きだった。
「吹いても」
「どうぞ」
彼女は笛を持った。
その指つきで、私よりずっと長くこの笛を知っていることが分かった。左手の中指が、ひとつの穴の縁を探すようにわずかに回る。穴の縁はもう整えてある。探す必要はない。それでも指は、以前そこにあった小さな欠けを探していた。
セナは笛を唇へ当てた。
息を入れる。
音が鳴った。
昨日、私が聞いたものと同じ音だった。細く、まっすぐで、よく届く。修復室の壁に当たり、天井へ軽く返る。
きれいな音だった。
セナは途中で息を止めた。
音が切れる。
笛から唇を離した彼女は、しばらく手元を見ていた。怒ってはいない。悲しんでいるようにも見えない。ただ、道を間違えた人が、自分の足元を確認するような顔だった。
「よく直っています」
私は返事をしなかった。
その声が、礼ではないことだけは分かった。
「でも、これでは葬れません」
修復室の空気が、少し変わった。
「音に問題が」
「ありません」
セナは笛を布の上へ戻した。
「だから、違います」
私は処置欄を見た。
歌口補填。管内亀裂固定。内壁研磨。音割れ除去。
正しい処置だけが並んでいる。
「伝票には、音割れとあります」
「はい」
「音割れは、破損です」
「帝国では」
棘のない声だった。
棘がないぶん、深かった。
セナは歌口のあたりを指で示した。触れはしない。そこにもうないものの輪郭だけを、空中でなぞる。
「三息目で、音が割れるんです」
「三息目」
「一息目は、死者の名を呼ぶ音です。二息目は、竜の名を呼ぶ音です」
彼女は指を下ろした。
「三息目で、息が割れます。そこで、残った者が泣きます」
私は笛を見た。
白い管は、何も言わずに布の上に置かれている。
昨日まであった亀裂は、もうない。
「割れた音でなければならないのですか」
「割れていなければ、最後まで音が行ってしまう」
セナはゆっくり首を振った。
「最後まで行く音は、強い人の音です。ちゃんと見送れる人の音です。でも、たいていの者は、そんなに強くありません」
喪布の端が、彼女の膝の上で少し沈んだ。
「途中で息が折れるところがあるから、そこに膝をつけるんです」
私は何も書かなかった。
書けば、その瞬間に、私の仕事の間違いが形になってしまう気がした。
「明後日、どなたを」
そこまで口にして、私は止まった。
訊くべきことではなかった。
けれどセナは、笛を見たまま答えた。
「最後の飛竜です」
乾燥棚の小皿が、小さく鳴った。
「人ではないのですか」
「人も死にました」
彼女は顔を上げなかった。
「でも、竜が最後です」
九番街区の竜番小屋は、もう帝国の地図には残っていない。旧竜舎は倉庫に変わり、鞍置き場は税吏の詰所になったと聞いている。竜は軍用にも運搬用にも使われなくなり、空の道は白い灯台で管理されるようになった。
最後の飛竜。
そのための笛。
私はそれを、よく直してしまった。
「もう一度、預からせてください」
セナの目が、そこで初めて私を見た。
「戻せるのですか」
戻せる、とは言えなかった。
壊すことならできる。
けれど、ただ壊せばいいわけではない。昨日まであった割れは、長い時間と息で作られたものだった。私の手で同じ亀裂を作っても、それは似た傷にすぎない。
それでも、何もしなければ、この笛は葬送の道具ではなくなる。
「試します」
セナはしばらく私を見ていた。
礼はなかった。
代わりに、喪布の内側から細い紐を取り出し、笛のあった場所にそっと置いた。古い革紐だった。笛を吊るすためのものだろう。結び目のあたりだけ、指で何度も触れられて黒ずんでいる。
「これも、使います」
それだけ残して、彼女は出ていった。
私は紐を見た。
礼よりも重いものを置いていかれた気がした。
完璧に直った歌口を見る。
なめらかだった。
なめらかすぎた。
処置欄の自分の字は、整っていた。間違った字ではない。間違った処置でもない。
ただ、使えないものを作っていた。
昼過ぎ、クラウゼン監査官が確認室に来た。
呼んだのは私ではない。フォルン局長だった。すでに適合印の出た返還品を再修復するなら、監査記録が要る。
クラウゼン監査官は笛と記録紙を見比べた。
「昨日、適合しています」
「はい」
「不具合が出ましたか」
「出ていません」
彼は目を上げた。
「では、なぜ再修復を」
「直しすぎました」
口にしてから、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
落ち着いているのではない。
逃げ場がなかっただけだ。
「直しすぎた、という項目はありません」
「承知しています」
「なら、どう記録しますか」
以前なら、そこで私は黙ったと思う。
けれど、黙っていれば、次の修復師がまた同じように直す。まっすぐな音に戻し、きれいな笛にして、葬れない道具を作る。
私は笛のそばに置かれた革紐を見た。
結び目の黒ずみ。
そこだけが、何度も指に呼ばれた場所だった。
「旧竜番葬送具における葬送割音」
私は言葉を探しながら続けた。
「三息目で発生する、意図的な呼気分岐音。葬送手順上の合図音として復元」
クラウゼン監査官はしばらく黙っていた。
「あなたの用語ですか」
「はい」
「根拠は」
「使用者確認。および、葬送手順」
「記録できますか」
「します」
彼は筆を取らなかった。
私に書かせるつもりなのだと分かった。
私は記録紙を引き寄せた。
昨日の処置内容に二重線を引く。
音割れ除去。
標準音復元。
その下に、書いた。
旧竜番葬送具における葬送割音。
三息目で発生する意図的な呼気分岐音。
葬送手順上の合図音として復元。
セナの言った「そこで、残った者が泣きます」は、どこにもない。
書かなかったのではない。
書ける場所へ運ぶには、遠い言葉に変えなければならなかった。
私はそれを、ようやく少しだけ分かり始めていた。
「作業を」
クラウゼン監査官が短く促した。
責める声ではない。
赦す声でもない。
ただ、次の手を待つ声だった。
作業は夜までかかった。
昨日埋めた歌口を、もう一度削る。完全に戻すのではない。音が割れる位置を探す。管内に細い逃げ道を作り、息の一部だけがそこで揺れるようにする。
壊すのではなく、折れる場所を作る。
それは想像していたより難しかった。
傷は、ただ入れれば傷になる。
けれど、使うための傷には角度が要る。深さが要る。そこへ何度も息が通ることを想像する必要がある。
私は笛を唇へ当てた。
一息目。
音は細く出た。
二息目。
少し低く、管の底を撫でるように鳴る。
三息目。
音が割れた。
けれど、汚いだけだった。
私はやり直した。
歌口をわずかに削り、逃げ道の角度を変える。骨粉を足し、乾かし、また削る。指先が白くなる。机の上に竜骨の粉が薄く積もる。
一息目。
二息目。
三息目。
今度は、音が途中で折れた。
折れたまま、消えなかった。
まっすぐ進むはずだった音が、喉の奥で引き返すように震え、そこで短く濁る。泣き声に似ていると言えば、安易になる。けれど、泣く前の息には似ていた。
私は笛を下ろした。
正しいかは分からなかった。
ただ、美しくはなかった。
だから少しだけ、近づいた気がした。
翌朝、セナが戻ってきた。
喪布は昨日と同じ藍色だった。けれど、肩にかかる位置が少し違う。眠っていない人の布のずれ方だった。
確認室には、クラウゼン監査官もいた。
セナは何も訊かず、笛を受け取った。
指が歌口の縁を探す。
昨日と違って、そこで止まった。
欠けではない。けれど、なめらかでもない。息が迷うための、小さな段差だった。
彼女は笛を唇へ当てた。
一息目。
音が出た。
二息目。
低い音が続いた。
三息目。
音が割れた。
割れた瞬間、セナの眉間が少しだけ緩んだ。
それは笑みではなかった。
泣き顔でもなかった。
ただ、硬く閉じていた場所に、息が入ったような顔だった。
彼女は最後まで吹かなかった。
笛を下ろし、両手で包んだ。しばらく、白い骨の笛を胸の前に置いていた。
「これです」
それだけだった。
十分だった。
クラウゼン監査官が記録紙を差し出す。
「確認を」
セナは文字を読んだ。
旧竜番葬送具における葬送割音。
三息目で発生する意図的な呼気分岐音。
葬送手順上の合図音として復元。
読み終えたあと、少し首を傾げた。
「難しいですね」
「簡単に書くと、また直されます」
そう答えたのは、私だった。
クラウゼン監査官が、ほんの少しだけこちらを見た。
セナは何も返さなかった。
ただ、笛を喪布の内側へしまった。昨日置いていった革紐で結び、胸の前に留める。結び目を一度だけ押さえる手つきに、迷いはなかった。
確認室の戸口で、彼女は足を止めた。
「きれいな音では、泣けないので」
こちらを見ずに、それだけを置いていった。
戸が閉まる。
私はしばらく、笛の置かれていた布を見ていた。
クラウゼン監査官が印を押した。
乾いた音がした。
それは笛の音ではなかった。
だから、少しだけ安心した。
「オルヴァ修復師」
「はい」
「一度、あなたは葬送具を楽器にしました」
その言い方は厳しかった。
「はい」
「戻せたかどうかは、今日ではなく、明日分かります」
「はい」
彼は帳簿を閉じた。
「確認報告は明後日でいいでしょう」
「私が行くのですか」
「行きたくなければ、記録だけでも足ります」
私は答えなかった。
帳簿だけでは足りないことを、もう知っていた。
翌日の夕方、私は九番街区へ向かった。
修復師が葬送に立ち会う義務はない。だからこれは仕事ではなかった。
仕事ではないものを、どういう顔で見ればいいのか、私はまだ知らなかった。
旧竜番小屋は、街区の端にあった。
小屋と呼ばれているが、屋根の高い石造りの建物だった。竜の首が通るほどの大きな戸は外され、今は板で半分塞がれている。中庭には、黒く焼けた鞍台が並んでいた。人々は多くなかった。喪布の色も形もばらばらだった。
中央に、白い骨が置かれていた。
飛竜のものだった。
大きさは思ったより小さい。翼を失った骨は、鳥にも獣にも見えなかった。ただ、かつて空にいたものの跡として、そこにあった。
私は人の輪の外に立った。
セナが前へ出る。
藍色の喪布の内側から、笛を取り出した。
遠かったので、彼女の表情は見えなかった。
けれど、結び目を解く手だけは分かった。昨日より、少しだけ遅い手だった。
笛が唇に当てられる。
一息目。
音は、私のところまで届かなかった。
人の背と、夕方の風と、旧竜舎の石壁に吸われて消えたのだと思う。
二息目。
それも、よくは聞こえなかった。
けれど、人々の肩が少しだけ動いた。
三息目。
音が折れた。
はっきりとは聞こえなかった。
それでも、折れたことだけは分かった。
空気の中で、何かが最後まで行かずに戻ってきた。戻ってきた場所で、誰かが息を吸った。ひとりではなかった。何人かが、同じところで息を吸った。
それから、泣き声がした。
大きな声ではなかった。
誰のものかも分からなかった。
分からないままでいいと思った。
私はその場を離れた。
最後の音までは、聞かなかった。
帰り道、指先にまだ白い粉が残っていることに気づいた。竜骨の粉ではない。修復室の棚の埃かもしれない。けれど私は、それを払わずに歩いた。
風が吹いた。
遠くで、もう一度だけ笛が鳴った気がした。
今度は、割れたかどうか分からなかった。
聞き取れないまま、私は歩いた。
泣くための場所は、私が聞き取るためにあるわけではない。




