第7話 嘘をついた秤
秤は、嘘をつくには向いていない道具だ。
少なくとも、私はそう思っていた。
皿は重い方へ沈む。針は傾いた方を隠さない。分銅と品物が釣り合えば、中央で止まる。そこに言い訳は入らない。
足りるか、足りないか。
多いか、少ないか。
秤はいつも、誰かの声より先にそれを決めてしまう。
だから人は、秤が正しいものだと思いやすい。
共同焼き場から届いた秤は、修復室の机には乗らなかった。
大きすぎたからではない。
重さのせいでもない。
それが置かれた途端、机の上がどこか配給所のように見えたからだ。木箱の粉、古い麻袋の匂い、乾いた穀粒が床に落ちる小さな音。私は少し考えてから、作業台ではなく、床に低い布を敷いて秤を置いた。
返還街区一番、旧共同焼き場。
用途、穀物配分秤。
損傷、支柱歪み、皿鎖摩耗、指針偏り。
処置、標準校正。
伝票には、そうあった。
秤は古い天秤だった。
中央に木の支柱があり、鉄の梁が左右に伸びている。両端には浅い皿が吊られ、片方に分銅、片方に粉や麦を載せる仕組みだった。皿はどちらも銅でできていたが、右の皿だけ、縁が少し低くなっている。何度も穀物を受け、手で払われ、濡れ布で拭かれてきた皿だった。
支柱は、わずかに傾いていた。
右へ。
皿鎖も右だけ伸びている。指針は中央に戻らず、いつも少し右へ寄る。これでは正しく量れない。標準校正の指示が出るのは当然だった。
標準校正として見れば、難しい仕事ではなかった。
支柱を抜き、根元を削り直す。梁の中心を取り、伸びた皿鎖を替える。指針の軸を磨き、基準分銅で合わせる。そうすれば、左右はまっすぐ釣り合う。
正しい秤になる。
私はまず、皿を外した。
鎖の環には粉が詰まっていた。白い粉ではない。麦の殻、灰、古い油、手垢。共同焼き場の匂いが、細い環の隙間にまで入っている。
右の皿を拭くと、底に細い傷が見えた。
数を数えた跡だった。
十本ごとに、一本だけ少し深い。
同じ場所に、何度も爪か針で刻んだ跡。
配った袋の数だろうか。
それとも、帳面に合わなかった数だろうか。
私は左の皿も見た。
そちらには、ほとんど傷がない。
秤なのに、左右の皿は同じ年月を過ごしていなかった。
午後、修復局から一番街区の共同焼き場へ向かった。
秤は大きく、現地での確認が必要だった。修復室の床は水平でも、焼き場の床は違う。実際に置かれる場所で合わせなければ、意味がない。
共同焼き場は、街区の端にあった。
煙突は低く、壁の石は古い。入口には新しい帝国の看板が掛かっていたが、その下の石には、前の看板の跡がまだ残っている。文字は読めない。けれど何かが掛かっていた四角い白さだけが、壁に浮いていた。
中に入ると、焼く前の生地の匂いがした。
大きな台が二つ。灰を落とす穴。壁際には粉袋が積まれている。奥で、女たちが黙々と生地を捏ねていた。会話は少ない。手だけがよく動く。
そこに、男がひとりいた。
痩せて背が高く、右の眉の上に古い火傷の跡がある。彼は私の持ってきた秤を見て、すぐに手を止めた。
「それを直すんですか」
「その予定です」
「どこまで」
最初にそれを訊いた。
私は伝票を見せた。
「標準校正です。左右の皿を同じ高さに戻します」
男はしばらく伝票を読んでいた。
読める人の沈黙だった。
読めてしまう人の沈黙でもあった。
「それだと、もう使えません」
「正しく量れるようになります」
「だからです」
彼は焼き台の縁に手を置いた。
その手には粉がついていた。五番街区の扉に残っていた粉より、少し黄色い。麦の粉だった。
「正しいと、足りなかったんです」
私は秤を見た。
右へ少し傾く支柱。
伸びた皿鎖。
傷の多い右皿。
「これは、意図的に傾けられたものですか」
男は答えなかった。
代わりに、壁際の古い棚から小さな分銅を持ってきた。帝国規格ではない。丸みがあり、片側だけ擦れている。彼は分銅を左皿へ置き、右皿へ麦をひと掴み載せた。
針は、少し右へ寄った。
「昔は、子どもに配るときだけ、こちらの皿を使いました」
彼は右皿を指した。
「大人には左。子どもには右」
「なぜ」
「右は、少し多く入る」
私は右皿を見る。
確かに、皿は低い。
同じ重さに見せるなら、右にはほんの少し余分に載せなければならない。
「誰が」
「母です」
男は短く言った。
「焼き場の秤番でした」
外で、子どもの声がした。
焼き場の窓は高く、姿は見えない。ただ、誰かが石畳を走る音だけが通り過ぎていく。
「帝国の配給は、正しかったんです。帳面の上では」
男は分銅を指で回した。
「一人分。半人分。労働者分。病人分。何歳から何歳まで。決まっていました。でも、腹は帳面の年齢どおりには減らない」
私は黙っていた。
「母は、右皿を子どもの皿にしました。少しだけ多くなる。誰にも気づかれないくらい。袋に入れれば分からないくらい」
「気づかれなかったのですか」
「気づかれました」
男は笑わなかった。
「帳面が合わなかったから」
右皿の底にある傷を思い出した。
十本ごとに、一本深い傷。
「処罰は」
「秤のせいにしました」
男はそこで初めて、私を見た。
「壊れているから、帳面が合わないんです、と」
その声には、自慢も後悔もなかった。
ただ、古い事実が古い場所に置かれたようだった。
「それで、秤は取り上げられました。母は秤番を外されて、焼き場の灰掃きになった」
彼は焼き場の奥を見た。
灰を落とす穴の近くに、短い箒が立てかけてある。今のものだろう。けれど、そこに別の誰かの手が重なって見えるような場所だった。
「それでも、朝いちばんに火を入れるのは母でした。誰より早く来て、誰より遅く帰る人になっただけです」
焼き場の奥で、生地を捏ねていた女の手が一度だけ止まった。
すぐにまた動いた。
「次の秤番は」
私は訊いた。
「右皿を使いました」
「その次は」
「使いました」
男は、右皿の底の傷を見る。
「みんな、壊れていることにしました」
私は秤の梁を見た。
支柱の傾きは、誰か一人の手ではなかったのかもしれない。
最初に傾けた者がいた。
そのあと、直せる者が直さずにおいた。
帳面を読む者が見逃した。
袋を縛る者が黙っていた。
灰を掃く者が、火を入れ続けた。
嘘をついたのは秤ではない。
秤に嘘をつかせ続けた人たちがいた。
「今も配給に使うのですか」
「いいえ」
男は首を振った。
「今は台秤があります。帝国の新しいものです。正しくて、丈夫で、誰が量っても同じになります」
「では、これは」
「焼き場の入口に戻すだけです」
「入口に」
「母たちが使ったものなので」
彼は右皿の傷を見た。
「直して飾ると言われました。でも、まっすぐになるなら、飾る意味がありません」
私は秤の前にしゃがんだ。
直せる。
支柱も、皿鎖も、指針も。
半日あれば十分だ。
しかし、それは標準校正であって、原形復元ではない。
この秤の原形が、いつの時点を指すのか、伝票には書かれていなかった。
新品だった頃か。
配給所で帳面に合わなかった頃か。
灰掃きになった母親の後ろで、次の秤番が右皿を使った頃か。
「まっすぐにはしません」
私は言った。
男はすぐには頷かなかった。
代わりに、分銅を左皿から外した。
「では、何を直すんですか」
その問いは当然だった。
私も、まだ答えを持っていなかった。
修復しない、と言うのは簡単だ。
何もしないことと、直さないことは違う。
私は右皿を外し、鎖の環を見た。
このままでは、入口に吊ったときに落ちる。誰かが触れば、皿ごと外れるかもしれない。支柱の根元も弱っている。傾きを残すなら、傾いたまま倒れないようにしなければならない。
「壊れている部分は直します」
私はようやく答えた。
「傾きは直しません」
「それは、修復になるんですか」
「分かりません」
男は少しだけ目を細めた。
答えを急がない人の顔だった。
「でも、返せます」
私は続けた。
「使うためではなく、そこにあるために」
その日の作業は、校正ではなく補強になった。
支柱の根元に細い鉄芯を入れる。傾いた角度は変えない。倒れないよう、床板へ差し込む足を新しく作る。皿鎖は、切れかけた環だけを替える。右皿と左皿の高さの差は残す。指針も中央には戻さない。
触れば揺れる。
揺れて、右へ少し沈む。
その沈み方だけは、変えなかった。
作業中、焼き場の女たちは時々こちらを見た。
誰も声をかけなかった。
けれど、右皿を外したときだけ、何人かの手が止まった。
その皿を磨きすぎないようにした。
粉の膜は落とす。油汚れも取る。けれど、底の傷は残す。数えた跡を、光らせない。新しくもしない。読める人だけが、読める程度に置いておく。
夕方、入口の横に秤を据えた。
看板の下ではなく、古い看板跡の少し隣。
帝国の文字の真下では、秤がまた説明になってしまう気がしたからだ。
男は、私が選んだ位置を見て、何も言わなかった。
秤は、少し傾いて立っていた。
右皿が低い。
通りから見れば、古い道具が飾られているだけに見える。
近づけば、皿が正しくないことが分かる。
もっと近づけば、右皿だけに傷が多いことも分かる。
焼き場の女たちが、ひとり、またひとりと作業の手を止めた。
声はなかった。
誰かが泣いたわけでもない。
ただ、ひとりの年嵩の女が、粉のついた指で右皿の縁に触れた。
皿が小さく沈む。
女はすぐに手を離した。
それだけだった。
だが、そのあとで若い女が一人、同じように右皿へ指を置いた。
次に、パンを窯へ入れていた女が、通りすがりに指先で縁を弾いた。
皿は揺れた。
右へ沈み、戻りきらず、また少し低いところで止まる。
その沈み方を、焼き場の人たちは黙って見ていた。
ちょうどその頃、入口の石段に子どもが二人やってきた。
焼き上がりの匂いに引かれたのだろう。ひとりが秤を見上げ、低い方の皿に小石を置いた。
皿が沈んだ。
子どもは笑った。
その笑い声で、奥の女たちの手が一度だけ止まった。
誰も振り返らなかった。
けれど、生地を捏ねる手のうちのひとつが、粉のついた指で目元を押さえた。
それが、右皿を見て笑った子どものためなのか、かつて右皿を使った誰かのためなのかは分からなかった。
男は棚から小さな焼き損じを持ってきて、子どもの手へ渡した。丸く膨らまなかったパンの端だった。
子どもはそれを受け取り、少し迷ってから、右皿ではなく自分の胸に抱えた。
「こっち、重い」
子どもが、皿を指して言った。
「そうだよ」
男が答えた。
「こっちは、少し多い」
私は道具箱を閉じた。
秤の役目は、そこで変わっていた。
修復局へ戻る前に、報告書を書いた。
標準校正。
その欄は、空けたままにはできない。
私は筆を持ち、しばらく考えた。
標準校正、不実施。
計量器としての使用不可。
支柱および皿鎖補強。
旧共同焼き場配分秤として、傾斜状態のまま現地固定。
右皿の低下を歴史的使用痕として残置。
書いてから、少しだけ長いと思った。
けれど、短くすると、この秤はまた直される。
男は報告書を読んだ。
「計量器としての使用不可」
「はい」
「もう量れないんですね」
「正しくは」
男は少し考えた。
「正しく量れないものが、ここにある」
私は頷いた。
「そうです」
「母が聞いたら、笑いますね」
そう言ってから、彼は口を閉じた。
笑う人がもういないことを、言ってから思い出した顔だった。
少し離れたところで、さっき右皿に触れた年嵩の女が、短く言った。
「笑わないよ」
男が顔を上げた。
女は生地を丸めながら、こちらを見なかった。
「あの人は、こういう時、怒った顔をする」
「母がですか」
「そう」
女は粉だらけの手で、生地を叩いた。
「見つかるじゃないかって」
男は何も言えなかった。
私も何も言えなかった。
その一言で、秤の傾きが、美談ではなくなった。
焼き場の人たちは、誰かを救うために嘘をついた。
けれど、見つかれば誰かが罰を受けることも知っていた。
それでも、次の日にはまた右皿を使った。
そういう嘘だった。
焼き場を出るとき、入口の秤はまだ少し揺れていた。
風ではない。
さっき年嵩の女が、通りがかりに皿をもう一度指で押したからだった。
皿は揺れ、少し遅れて、また右へ沈む。
正しくない場所へ戻っていく。
その戻り方が、とても静かだった。
修復局へ戻る道で、私は伝票を折り直した。
標準校正、の文字が表に出ないようにしただけだった。特に意味はない。たぶんない。
けれど、今日はその文字を、何度も見たいとは思わなかった。
夜、作業場で道具を拭いていると、右手の爪の間に麦の粉が残っているのに気づいた。
粉は、扉のときの小麦粉より黄色く、少しざらついていた。
水で洗えば落ちる。
私は手を洗った。
今日は、洗った。
落とすべき粉だったからだ。
けれど、水場から戻っても、指先には右皿の重さが残っていた。
あの秤は、もう誰かの腹を満たすことはない。
明日の朝、古い女たちが、その前を黙って通るかもしれない。
誰かが、母親たちのしたことを、正しかったとも間違っていたとも言わずに思い出すかもしれない。
秤は答えない。
ただ、少し低い皿を持っている。




