天国(4369文字)
ある素晴らしい物理学研究者が、たった今、生涯の幕を閉じた。
家族に見守られながら、病院の清潔なベッドの上で、永遠の眠りについたのである。
享年七十六歳であった。
寿命というには早いが、彼は若い頃から寝食を忘れた、不健康な研究生活を続けてきたから、生き様を知る同僚たちに言わせれば「よくぞここまで長生きした」と褒めるような、大往生であった。
しかし、そんな彼にもひとつの悔いがあった。
それは、生活面の悔いではない。彼には最愛の妻と息子がいて、プライベートの生活は幸福に溢れていた。ふたりに看取られながら逝けたのだから、何一つとして文句がなかった。
悔いがあるのは、生涯没頭した研究の方である。
彼はついぞ、宇宙人を見つけられなかったのだ。
物理学研究者ながら、生物学にも明るかった彼は、宇宙での生命誕生の謎を解き明かすことに研究者人生を捧げていた。
三十代の頃に彼は、非生物しか存在しない原始環境から、単細胞生物が生まれるメカニズムを解明した。それで高名な科学賞も受賞し、一躍時の人となる。そして、彼はそこで満足しなかった。
『つまり、この理論は宇宙環境にも当てはまるから、遠い宇宙にも必ず生物はいるのだ』
彼はそう学会で主張した。主張は理路整然としていたし、情熱にも溢れていた。物理学者によくいる、ニヒリストぶった連中の胸にも響くものがあった。
彼は多くの協力者を得た。彼に憧れて学者を志した、弟子と呼ぶべき新米の科学者たちもたくさん出てきた。研究人生の過程は、順風満帆だった。
しかし、ついぞ彼は見果てたゴールに辿り着けなかった。宇宙人が存在する確証を、生涯のうちに得られなかったのである。宇宙人と出会うには、人間の一生は短すぎた。
彼は無神論者であった。物理学者として当然のことと言える。だから死後の救済に夢を見たことはなかった。死ねば意識は無へと還る。それが厳然とした生命の真理だ。
妻と息子の声が遠のき、意識が薄れゆく中で……彼は人生の短さを儚んでいた。
──ああ、もう少し長く生きていれば、私の後輩たちが、宇宙人の存在を発見したかもしれないのにな……現代の科学の発展は、まことに目覚ましいものがあるから──と。
もっともなことだ。二十一世紀の目覚ましい科学の発展を考えれば、あと十年もすれば、本当に人類は宇宙へ自由に行ったり来たりできていたかもしれない。
しかし、どれほど悔やんでも、死は一様に残酷で平等。
彼は死の瞬間、意識が体から離れ、浮かび上がっていくのを感じた。
**
「……て……おきて……」
──あれ、ここは……。
不思議な声を聞きながら、彼は目を覚ました。気がつくと、白くて大きな綿のようなものに、寝そべっていた。体を起こそうとすると、病に侵されまともに動かなかったはずの手足が、羽のように軽いことに気づく。そして、手足に触れる感触に驚いた。綿だとしてもおかしいくらいに柔らかく、しっとりとしていて、心地よい。よく見れば、地続きにどこまでも続いていて、このあたり一面の大地が、それでできているようだった。
まるで、雲の上のようだ……。
彼がそう思ったとき、後ろから声がかかった。
「やっと、お目覚めになりましたね」
彼はびっくりして振り返った。
そこには羽の生えた、見目うるわしい金髪の女性がいた。頭の上には、光の輪っかが浮かんでいる。
天使だ。天使がいる。
無神論者の彼でさえも、一目見ただけでそう思った。
その天使らしき女性は、白くて長いワンピースを纏っていた。スカートを押さえながら、身をかがめてくれる。
「初めまして。あなたが天国にやってきてからもずっと目を開かないものだから、心配していました」
「は、はぁ」
天使は手を差し伸べてくれた。彼はそれを支えに立ち上がった。
彼は改めて周囲を見渡した。
やはり、雲の上であった。模糊とした白い大地が、地平線の果てまで続いている。
頭上には抜けるような青い空が広がる。それも、彼が知っている青空とはどこか違う。雲ひとつなければ、月もなく、星もない。しまいには、太陽すらない。なのに、なぜだかこの世界はどこもかしこも明るい。夢でも見ているようだ……なんて思うけれど、夢じゃないことを、薄々感じ始めていた。彼と天使は確かに雲の上に立っていた。地球上では存在しえない感触を、裸足の裏が実感として捉えている。
なるほど……と理解したとき、彼の肩から力が抜けた。
ここは、天国なのか。
自分の体を見ると、いつの間にか天使と同じような白いローブを身に着けていた。まさしく絵本の中で天国の死者が着ているような、ひとつの汚れもない服。触ってみれば、生前に触れたどんなシルクよりも滑らか。
彼の胸はチクリと痛んだ。物理学者として小さくない落胆を味わっていた。
なぜって……物理学こそ世界の真理に通じる学問だと、彼は生涯を通して信じてきたからだ。しかし今となっては、生前の信条が、滑稽に思えてくるのも仕方なかった。
彼は、はぁとため息を吐いた。浮かない表情を、天使が気に留めた。
「あら、ため息なんて、いったいどうなされたのですか」
「あぁ、いえ……」
「天国に来れたということは、あなたは生前、とても善い生涯を送ってこられたのでしょう。落ち込むことなんかありません。これからの死後は気ままに、自由に過ごすことができますよ」
優しい言葉だ。慰めようとしてくれている。けれど、胸の奥に抱えた後悔が、むしろぶり返ってきた。
「ありがとうございます。ただ、私は生前、ずっと研究を続けてきたものですから……。ここではもう、仕事の続きもできませんし……研究が実を結ばなかったことを忘れて、のんびりと過ごすなんて、すぐには考えられません……」
ははぁ、と天使が思いやり深く頷いてくれる。
「それはそれは、お辛いですね……。しかし……一生は一生。あなたは立派に天寿をまっとうされたのです。地上のことはもう、生者に委ねるしかないのですから、前向きになってください。そして……」
と言って、天使は白い大地の向こうの方を指さした。
「きっとあなたにも、遺されたご家族や、志を共にした、研究仲間の方々がいらっしゃるのではないですか。いかがでしょう……これからは、その人たちを見守ってあげませんか」
えっ、と彼は顔を上げた。
「見守るって、どうやって」
天使はにこりと笑いかけた。
「実は、向こうの広場には、地上の人々の暮らしを眺められる、素敵な泉があるのです。よければ、ご案内しますよ」
「ほんとうですか」
もし、今の話を生前に聞いたならば、なんて突拍子もない話だと取り合わなかっただろう。けれど、今天国に来たあととなっては別だ。天使の言うこととなれば、素直に信じることができた。
研究の続きを、見られるのか。彼の心に希望が生まれた。
「ぜひ、案内してほしい」
彼は研究者冥利というものをよく理解していた。というのは、自分で宇宙人を見つけるのも、後輩たちが見つけるのも、科学的観点においては等しい価値があるということだ。研究とはリレーのようなものであって、バトンを繋いだ全員の努力が報われるのだ。
後輩たちの研究の行く末を見守れるなら、天国での暮らしにも張り合いが出る。彼の表情が明るさを取り戻したのを見て、天使も嬉しそうにしながら、さっそく案内してくれた。
彼も浮足立つようにあとをついていった。やがて、向こうの方に小さく、いくつもの人影が見えてきた。
「あら、やっぱり先客がたくさんいらっしゃいますね」
ははぁ、やっぱりみんな、地上に遺してきた人たちのことが気になるのだなぁ。彼もそう納得しながら、天使に聞いた。
「ちなみに、特別な泉とはどんな仕組みなのですか」
天使はまた、快く教えてくれた。
「ええ、その名も〝見守りの泉〟と言ってですね、神様が用意した特別な水で満たされている湖なのです。透明な水面はまるで鏡のようになっており、あなたが見たい場所を強く望みながら、覗き込み続けていると、次第に景色が変わってきます。やがて水面に、望む場所の真上からの景色が、浮かび上がるのです。それをあなたは泉のふちに寝そべって、ゆっくり眺めることができる……」
ははぁ、と彼は分かったような、分からないような、相槌を打った。
そのときふと、彼は閃きを得た。
「まさか……その見守りの泉というのは、本当に、どこでも映し出してくれるのですか」
「ええ、そうですよ」
「たとえそれが、どんなに遠い場所であっても……?」
「もちろん。見守りの泉に、見守れない場所なんてありません」
天使はえっへんと誇らしげにそう言った。このとき、彼の研究者魂がざわめいた。
生前、もっとも宇宙人がいる確率が高いと踏んでいた星がある。
それは、M星系第三惑星の、H星。
これを見られるのかもしれないと、気づいたのだ。地球から見た方角と座標、そして三万三千三百三十三光年先という概算距離も、はっきり覚えている。
もしや……ここでなら、その星の様子を、見られるのか?
そう思うと──薄情だとは言うなかれ──遺した家族の顔より、友人の顔より、すぐにその星を見たい気持ちが強くなってきた。これは研究者としての本能だ。
彼は気が気じゃないまま、自ずと早足になった。天使の方も、彼に合わせて小走りにしてくれる。
どんどん泉は近づいてきて、雲の大地にぽっかりと広がった湖面が見えてきた。
その周りにはたくさんの人がいて、湖を覗き込んでいた。
あれ、と男は首を傾げた。
男は湖を覗き込む人々を指さし、少し気味悪がりながら、天使の方を振り返った。
「あの人たちは、なんですか」
泉の周辺にいる人影の正体が、よく見えてきた。
そこにはタコのような頭を持った人に、猫の耳が生えた女に、卵みたいなものが頭についたのっぺらぼうがいた。
皆一様に、泉の底の景色を覗き込むことに夢中だ。
天使は何も動じていない笑顔で、さらりとこたえた。
「もちろん、あなたと同様に、天国に選ばれた死者の方々ですよ」
「なんだって?」
天使は微笑みながら続ける。
「どんな辺境の星が故郷であっても、見守りの泉は映し出してくれますからね。星の出身に関係なく、みんながここにやってくるのですよ……」
男は言葉を失った。
男が愕然としていることに気づかず、天使はああ、思い出した、とでも言わんばかりに、自分の胸に手を置いた。
「そういえば、ここまで一緒に歩いてきたのに、お互いの星の出身について話していませんでしたね。失礼しました。実は私は、M星系第三惑星のヒカリハネ星出身なのです。ヒカリハネ星では百万年前の天国発見以来、天国の研究をなにより重んじています。生前は天国に行くために天国の勉強ばかりしていたものですから、ようやくここに来れた嬉しさに舞い上がってしまって……先ほどからおせっかいにも、いろんなことをお話しさせていただきました。さて、あなたのご出身の星は、いずこで……?」




