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悪魔の魔法瓶(9000字)

 上西氏は飢えていた。

 今日食う飯にも窮していた。財布は既に空。先月喰らったリストラ以来、彼の貧困は真綿で首を絞められるように悪化していた。

 空腹がやかましく、夜もおちおち眠れない。上西氏は深夜の街を徘徊していた。眠る前に流し込んだ安酒はまだ残っており、ふらふらと千鳥足だ。

 街のネオンや喧騒は二十一世紀の飽和社会をつぶさに表しているようだったが、上西氏は自身がそこから取り残されているように感じた。


「もし、そこのお方」

「あん?」


あてもなく彷徨っていた上西氏は、突然後ろからかけられた声に振り返る。

そこには、格調高い燕尾服を纏った、真っ赤な皮膚をした男が立っていた。


「うわあっ! なんだてめぇ!」


 上西氏は、人のものとは思えない肌を持つ、そのへんちきな男に仰天した。

 真っ赤な男の眼は目じりが眉に届きそうなほど吊り上がっており、鼻は猛禽類の嘴を思わせるほど、強烈な鉤鼻だった。


「これは失礼。わたくし、悪魔と申します」

「あ、悪魔ぁ!?」

「はい。あなた、ひどく顔色が悪いですね。どうやら、非常に困窮されている様子。そんなあなたに、わたくし、差し上げたいものがございまして」


 悪魔を名乗った男は、周りの雑踏に聞かせたくないのか、少し身をかがめ、ひそひそ声で上西氏に話しかけた。


「なに!? なんかくれるっていうのか」

「はい。こちらにございます」


 男は胸の前でなにかを抱えるように両手のひらを上に向けた。上西氏はこのとき男が白い手袋をつけていることに気づいた。手袋に気を取られていると、いきなりボンという音と共になにか大きなモノが現れた。

 深夜なので悪魔の手元も暗かったが、現れたなにかは街のネオンをよく反射した。見るに、金属製品のようだ。それも形からして、炊飯器のような。

しかし、それにしてはやや寸胴である……。


「こちら、悪魔の魔法瓶にございます」

「ああ、そうか! 魔法瓶か!」


 上西氏は、中々思い出せないモノを思い出せた快感に酔いしれた。そうだ、実家にもこれと似た形の魔法瓶があった。


「こちら、わたくしどもの商会の売れ残り品でして。廃棄予定でしたので、お困りならぜひ貰っていただきたいのです」

「うーーーん、しかし、ただの魔法瓶だけ貰ってもなぁ。俺はあんたの言う通り文なしだが、茶や水の入れ物を貰ったところで腹の膨れにはならねえよ……」

「いえいえ、それがそうではないのです。そこはわが社の製品。悪魔の魔法で造り上げた魔法瓶にございます」

「魔法……魔法が何だって?ややこしい……」

「ふふ、まあまずお試しあれ。ひとつ、今なにか、飲みたいものはございますか?」

「飲み物かい? ああ、そうだなぁ。安酒は悪酔いするだけだ。大吟醸、大吟醸が飲みたいねぇ」

「承知いたしました。この魔法瓶がその願いをお叶えいたします。さあ、これをお持ちになって」


 赤い男がにこりと笑いながら、上西氏に魔法瓶を手渡した。中には何も入っていないようで、片手で持てそうなくらいの重さだったが、上西氏がそれを腹に抱えたとたん、ズシリと重くなった。


「うおっ!?」


 上西氏が少しよろけると、中からタプタプと音がする。


「開けてみてください。きっとお喜びになられる」


 上西氏はわずかに酒の臭いを嗅いだ気がした。おもむろに魔法瓶のふたを開けると、そこから芳醇な香りがあふれだした。中にはなみなみと透明な液体が溜まっている。

 上西氏は魔法瓶を片手で覆うように抱え、開いた方の手でそれを掬って口に含んだ。

 旨い。久しく飲んでいない、まさしく大吟醸の酒だ。


「おいあんた! なんなんだこれは!」

「それこそ我が商会の、〝飲みたいものがいつでも飲める〟魔法瓶。酒、スープ、ワイン、もちろん真水でも構いません。あなたが飲みたいと願ったものを、いつでも、好きな温度で、魔法瓶いっぱい三リットルを瞬くままに出現させるのでございます。ただしご使用の際にはひとつ条件がありまして。新しくなにかを飲もうとする場合は、魔法瓶の中のものをすべてあなたが飲み干さなければなりません。これがたったひとつの注意点にございます」


 赤い男はうやうやしくのたまったが、上西氏は目の前の不思議な品にしか興味がなく、話しどころではなかった。


「こりゃすごい、酒が飲み放題じゃないか。おい、だけどこの中身はタダじゃないなんてことはないだろうな」

「ええ、もちろん。といっても、中身はひとりでに現れるわけではなく、世界のどこかから、あなたが望む飲み物をテレポートさせる仕組みになっております。そのつど適当な場所から持ってきますので、バレる心配も、お金を取られる心配もないでしょう」

「そうか、そいつは都合がいい。はは、とんでもない儲けものだ。あんた、悪魔なんて名のっていたが、いい悪魔だ」

「ふふ、お喜びいただけてなによりです。それでは、夜も更けてきましたので、私はこれで失礼」

「おお、ありがとうな! 悪魔!」


 赤ら顔の上西氏は、うやうやしく会釈したのち去っていった悪魔を手を振りながら見送った。その後、上西氏はボロアパートに戻って大吟醸三リットルを一晩で飲み干し、幸福感に包まれながら大いびきをかいて眠った。

 自称悪魔と会った翌日、上西氏は昨晩の奇天烈な出会いと出来事は夢だと思えてならなかったが、変わらず部屋の中心で酒の匂いを漂わせる魔法瓶を見つけ、あれはやはり現実だったらしいと悟った。

 派手に酒盛りをした手前頭がガンガンと痛み、そうだ水が欲しい水を飲みたいと魔法瓶を目の前にしながら思ったところ、タプンという音と共に綺麗な水が三リットル魔法瓶に入っていた。上西氏はしまったと思った。つまり、どうやら三リットルの水を飲まなければ、魔法瓶の魔法は使えないことに気づいたからだ。一日をかけて、三リットルの水を飲み干して以来、上西氏は魔法瓶を慎重に使うことを学んだ。

 とはいえ、魔法瓶は充分上西氏の生活に役立った。最初の内は夜のたび、日本酒、ワイン、ビールを呼び出したが、しかし一週間もしないうちに三リットルも同じ酒を飲まなければならないことの苦痛を知った。酒に飽きたある夜、上西氏は余った酒を捨ててしまえと思い立った。

 とりあえず、洗い物のたまった流しの上で、魔法瓶をひっくり返した。中に入っていた酒は、びしゃびしゃと音を立てて排水溝に流れていく。なあんだ、ちゃんと捨てられるじゃないか。安堵したところ、いつの間にか魔法瓶の中に捨てたはずの酒が戻っていた。そしてその酒は、どこか薄汚れていて、異臭を放っていた。上西氏はぞっとした。その翌日、上西氏は苦悶の果てに人生で一番まずい酒を飲み、二日後に腹を壊した。

 むやみに酒を呼び出すことに懲りてからは、食の繋ぎにもっぱらスープを呼び出すようになった。コンソメ、味噌汁、クラムチャウダー。この魔法瓶のルールらしく、具材はどうしても入っていなかったが、食事が一品増えるだけ万々歳だ。なによりも発見だったのは、この魔法瓶が認める〝飲み物〟にはカレーとシチューが含まれていたことだ。

 上西氏は、しゃれた専門店で出されるような、具材がドロドロに溶けきったカレーやシチューを呼び出すようになった。これによって、食卓の総合栄養評価は跳ね上がった。粗食続きで優れていなかった体調も、カレーとシチューのおかげでずいぶん胃腸の調子が良くなり、快便が続いた。

 カレーとシチューは様々な店を調べ、味に飽きが来るごとに種類を取り替えた。Aカレー、Bカレー、Cシチュー、Dシチュー。高級店製のカレーにシチューに、来る日も来る日も舌鼓を打つ。さすがに店の違い以前の飽きも来ていたが、食費を抑える対価と思えば安いもの。そう思いこみ耐えることで、上西氏は魔法瓶を使いこなしていた。代わりに、咀嚼を体が求めているのかフーセンガムをよく買うようになった。


 **


 魔法瓶を貰い受けてから三か月後。

上西氏は依然困窮にあえいでいた。

 魔法瓶のおかげで食い扶持にはまだ困らなかったが、とはいえ金は飲み物でないため勝手に湧いてくることもない。なにより、有職以前からある借金が彼を金銭的にも精神的にも苦しめていた。上西氏には賭博癖があった。それもただの賭博癖ではない。彼は宝くじ狂いだった。自由に使える金ができたとたん、彼は衝動でそれを宝くじに替えてしまう。最高当選額は十万円。社会に出てすぐ、職場近くの宝くじ売り場の娘に一目ぼれし、通いつめるうちに、ついてしまった悪癖である。

 職を失ってなお、悪癖は彼をむしばんでいた。使ってはいけないと分かりつつも、なけなしの貯金や日雇いの金は夢をうたう紙きれへと変わり、また一週間後には紙くずへと変わっていった。借金はフーセンガムのように膨れていったけれど、ぱちんと消えることはない。ついには借金取りまで押し寄せてくるようになった。

 ガンガンガン、ガンガンガン。

 上西氏は粗暴極まりない音で目を覚ます。ああ、まただ。あいつがきたのだろう。上西氏の取り立てによくやってくる男、荒田だ。この男は、大柄小太りスキンヘッド、眉はなく一重の眼は吊りあがって二重顎、太いボンタンにガラのどぎついシャツと、そんな見た目から受ける印象に対し、実際の性格を見比べたとき、何ひとつギャップがないというむしろ稀有な男だった。

 荒田はオラア! とかボケエ! とか叫びながら、ボロアパートの木造ドアをしきりに殴りつけている。この男の存在は上西氏にとって大変ストレスだった。というのも荒田は、なにかにつけて上西氏をまるで人じゃない生き物のように扱った。立場の差をこれでもかと威に借り、ボケエ! とか、ゴミイ! とか叫びながら上西氏をいびるのだった。さらにこの行為を楽しんでいるようで、ときに一日何度もやってくることがある。最近では、おちおち外出もできない。外には荒田、内には貧しさ、上西氏は気が狂いかけていた。先週買った宝くじも、昨日すべて紙くずに変わった。頼りになるのは魔法瓶だけだ。魔法瓶さえあれば、たとえ籠城しようと、水道が止まろうと、死にはしない。俺には尽きないカレーとシチューと水があるのだと、上西氏は自分で自分を鼓舞した。ちなみに上西氏が知るところではないが、愛用していたドロドロカレーのBカレー店は、摩訶不思議なカレールー消失事件によって秘伝のルーを失い閉店した。

 ガンガンガンガン。ガンガンガンガン。

 外ではまるでドアをサンドバッグに見間違えているかのように、荒田が楽しそうにシャドーボクシングをしている。くそお、くそお。あんな人間はもはやきちがいだ。荒田のような人間さえいなければ、俺は安心して外に出ることができ、真っ当な働き口を見つけて、こんな生活から抜け出せるのに……。上西氏は臭い立つ布団の中で、親指の爪をガリガリ噛みながら恨みを募らせた。くそお、あんな人間、あんな人間、消えてしまえばいいのに……。ガリガリと親指を噛み続け、ガチっと上西氏の歯が爪と肉の間に食い込んだ。


「いてえ!」


 思わず上西氏は叫んでしまった。

 外から、いるんじゃねえか! とか、ボケエ! とか、荒田が叫ぶ声が聞こえてくる。

 噛み切った爪と肉の間から、血がぷくっとふくらんで出てきた。

 上西氏は何故か、その血から目を離すことができなかった。


「あっ」


 上西氏は天啓を得た。

 その夜、荒田は失血死した。


 **


「すいませーん」


 翌日正午。上西氏のもとへ、ふたりの警察官が訪れた。


「はあ、なんでしょう」

「ああ、どうも。警察です。いやですね、お宅をよく訪れてらっしゃった荒田さんって方が昨晩亡くなられまして」

「はあ、ほんとですか」

「ええ、これがどうにも奇妙でして。外傷は一切なく、体から血がたっぷり抜けてまして、干からびてるみたいに死んでたんです。こちらとしてもなんでもよいので手がかりが欲しくてですね、上西さん……でよろしかったですよね。なにか、ささいな異変でもいいので、ご存知ありませんか」

「はあ、不気味ですね……うぷ。私は何も」

「あれ、なにか体調でも悪いんですか。ずいぶん顔色が悪いですが……」

「いえ、ただ、昨日飲み過ぎただけです……うぷ」


 上西氏はげっぷと共に口元を手で押さえた。警察はいぶかしんだが、上西氏の立つ玄関の奥から本当にむせるほど酒の香りが漂ってきたので、なるほどと納得した。

「そうですか、失礼しました。ところで、重ねて失礼を申し上げますが、荒田さんはあなたの取り立て人でらっしゃったそうですね。彼に対する、個人的な恨みなどはありませんでしたか」

「そんな! 粗暴な人でしたが、だからって殺したいなんて思うわけないじゃないですか……うぷ」

「そうですよね。失礼しました。監視カメラの映像もまさしく突然死でしたし……」


 ご協力ありがとうございましたと言って、ふたりの警察官は去っていった。上西氏はすぐ家の中に戻った。上西氏の口元を抑えた方の手の甲には、べったりと血がついていた。

 それからずいぶんと月日が経った。


 **


 ロシア大統領官邸。大国ロシアの長たる大統領は、頭を抱え込み、額に汗を浮かべ、机の上にうずくまり、極度になにかに怯えていた。普段衆目の前で見せる威風堂々の態度からは想像もつかない。彼は対面に座する美人秘書とふたりのエージェントを怒鳴りつけた。


「ドラキュラは……ドラキュラはまだ見つからんのか!」

「申し訳ありません、部隊の総力を挙げて捜査しているのですが、未だ見つかりません……何しろ奴は、何ひとつ痕跡を残しません……」

「そんなこと、言われんでもわかっておる! それを見つけるのが君らの仕事だろう!」


 激昂する大統領に対し、すいませんすいません、とふたりのうち片方、ひかえめそうな女性エージェントがぺこぺこと頭を下げる。


「くそっ! くそ! なぜこの私が……この私がだぞ! 姿もない化け物などに怯えなければならんのだ……!」


 女性エージェントは、気まずそうに大統領の見事な荒れっぷりを眺めている。対して、もう一方の男性エージェントは、そんな大統領を前に、いたって落ち着いていた。


──『ドラキュラ』。十年前から有名になり、それ以降世界を震撼させ続ける正体不明の殺人鬼。彼、もしくは彼女を直接見た者はどこにもおらず、彼もしくは彼女に殺されたものが、みんな外傷もなく失血死していることから、いつしかドラキュラと呼ばれるようになった。そしてここ五年、ドラキュラに殺される被害者が中国・ロシア等の政府要人、つまるところアメリカの政敵ばかりになっていた。このことから、アメリカはドラキュラを確保したのではないかという噂がまことしやかにささやかれ、世界各国総出を挙げたドラキュラ探しが行われ続けている。奇妙なことに、アメリカは乗り気じゃなかったが。

 当然、もっともドラキュラを恐れなければならないロシアはドラキュラ専門の機密捜査部隊を組織し、捜索にあたらせている。

 現在の大統領が就任してから今年まで、大統領側近で五人、ロシア政府関係者では十五人が傷ひとつない、美しい失血死を遂げていた。大統領の焦燥と恐怖も、もはや限界だ。大衆が想像もしないような取り乱し方も、何ひとつ不思議なものではないのだ。

 大統領は、機密捜査部隊の幹部であるふたりのエージェントを前に、ドラキュラを一分一秒一コンマ秒でも早く見つけろと怒鳴り散らかし、わめき散らかし、泣き散らかし、すがり散らかしたのち、散らかし疲れて、でてけ! とふたりを官邸から追い返した。美人秘書はその後静かに、おごそかに、憔悴した大統領をふたりきりの空間で慰めた。

 官邸からの帰り道。ひかえめな女性エージェントは車の中でため息を吐いた。


「はぁまったく。姿形もない奴をどうやって見つければいいんでしょう。アメリカ政府が機密で使ってる施設、全部ローラー捜査するしかないんじゃないですかね。できたらの話ですけど。って、聞いてますか先輩」

「ん? あぁ、聞いてるよ」


 軍部入隊当初からの付き合いである、助手席に座るけだるげな先輩に対し、女性エージェントはまたため息を吐いた。


「はぁ。大統領があれだけご乱心されてるのに、ずっと能面なのもどうかと思いましたよ。少しはおろおろした方がよかったですって」


 男性エージェントはそうか? と呟く。


「いや、今朝の報告を受けて以来、少し考え事をしていてな。お前も知っている通り、ここ数カ月はドラキュラの被害者がパタリと出なくなっただろう?」

「ああ、そうですね。アメリカ側もドラキュラに頼りすぎるのをやめたのかも?」

「そう思うなら五年もこんな惨状続かんさ。いやな、想像でしかないんだが、ドラキュラはもう既に限界なのかもしれん」

「限界? 老衰ですか?」

「いや、違う。カギは、今朝の報告で掴んだ、おそらく本物の、最初の被害者だ」


 女性エージェントは、今朝配られた報告書を、あぁと思い出した。


「日本から見つかったっていう、あの。確か、コウダさんですよね。ですからコウダさんの関係人物を隈なく探っていけば、何か手がかりが見つかるかもしれませんね。まあ、日本のヤクザさんと関わりがあったらしいので、めんどそうではありますけど」

「違う。そうじゃない。俺が気になったのは、そのコウダという男が、どうやらHIVに感染していたらしいということだ」


 はたと、車を運転していた女性エージェントが表情を固める。


「え、えぇ~~?」


 これ見よがしに、女性エージェントは怪訝に眉をひそめている。


「本気でドラキュラが被害者の血を飲んでるっていうんですかぁ?」

「まぁ、半分本気だな。そもそもだ、失血死するにしても失われた血はどこへいく? 捨てられるか、保管されて隠されるか、科学の力で分解するか。いずれにしても、コストはかかるし、なにかしらで人の目につくと思わないか?」

「いや~~、殺してる最中が誰の目にもつかないから、こうやって私たちが苦労してるんじゃないですかぁ」

「その通り。だから半分冗談だよ。それでも、飲みほすっていうのは、血を無くす手段として一番目立たない気がしてな。それに、ドラキュラの殺しはいつだって十分期間をあけて一人ずつだ。失わせた血を一瞬で消し去る魔法があるなら、やつはもっと大胆な事件を起こせるはずなんだが」


 女性エージェントは、それでもやはり疑わし気に、伏し目で先輩を見つめている。


「もー、どうせ魔法みたいなことしてるんだから、どこからが魔法でどこからが魔法じゃないとか、考えても分かりませんよ。まーでも、ほんとに飲んできた血のせいでドラキュラが病床に倒れてるなら、嬉しいことこの上ないですけどね」

「そうだな。そう祈りたい」


 ふたりを乗せた車は、夜道を快速で走っていく。

 それから一年。ぱたりとドラキュラ殺人は起こらなくなった。『ドラキュラは死んだ』。そんな見出しが世界中に溢れた。その年の世界終末時計は、史上もっとも破滅から遠い時刻を指し示した。


 **


 上西氏は、黒くて狭い空間に、自身が閉じ込められていることがわかった。


──ここはどこだ……? 確か、俺は病室で、一人眠っていたはずだ……。


 身動きを取ろうとするが、あるはずの四肢の感覚……いやそれどころか、全身の筋肉から神経が抜き取られたかのように、体をびくとも動かせない。逃れようのない閉塞感と窮屈さに思わず悲鳴を上げようとしたが、しかし声帯もどうやらどこかに消え去ったようで、背筋が凍り付くような静寂のみがそこにあった。もっとも、凍り付く背筋の在り処すら今の上西氏には分からなかったが。

 突然、黒い空間に光が差した。

 上からだ。

 上西氏にはその様子がよく見て取れた。どうやら彼は上を向いているらしかった。なぜか目線を動かすことは叶わず、ただ上方を凝視するだけだったが、まだ自身に視力が残されていることを知り安堵した。

 日食の終わり際のように、光の弧は大きさを増していく。そして天井は円形に開いた。

もしや、自分は井戸のような場所に沈んでいるのだろうか。だが、僥倖だ。天井が開いたということは、この場所から救い上げられるかもしれない。

 円形の天井からぬっと現れたのは、巨大な、真っ赤な皮膚をした男の顔だった。


──いや違う、顔が巨大なのではない。俺が小さいのだ。


「どうも。お久しぶりです」


──あ! お前は!


 上西氏は声を上げようとしたが、しかしそれは叶わない。ぞくぞくと、嫌な予感が頭の中に駆け上がってくる。赤い男の末恐ろしさが、魔法瓶を使いこなしたうえで往生した上西氏には身をもって分かっていた。

「いやはや、あなたにあれをお譲りしてよかった。おかげさまで、わたくしどもの商会も予想外に儲けさせていただきました」


──助けてくれ! 助けてくれ!


 上西氏は悲嘆に、悲痛に、必死に声を上げようとしたが、されどそれは叶わない。


「さて、人間の皆様はご存知ないようですが、実は魂というものの正体は液体なんです」


 上西氏が収められた空間が急に持ちあがり、斜めに傾いていく。タプタプと奇妙に自分の全身が揺れるのを上西氏は感じた。


「そして、極上のソースとなるんです」


──やめろ! やめてくれ!


 上西氏は、自身が変形し、変形した先端が井戸だと思っていた空間からこぼれ落ち、線状に収縮したかと思うと分離し、無数の流滴になっていくさまを自覚し、意識がミンチ状になり、視界が散乱し、自身が何者か、どこにいるか、何をしているかすべてが前後不覚になり、ただなにか赤い水面へ落下し、着水し、それと同化していくさまを、まさしく全身全霊を持って体感した。一連の動作は約一秒間の内に完了した。

 赤い液体と上西氏は交じり合った。意識がみじんとなって消える間際、上西氏はもとから自身が、その赤いなにかと非常に親和していることに気づいた。

 格調高い燕尾服を纏った赤い男が、趣味の悪い、壁、棚、ドアのすべてが赤い部屋で、塵ひとつない赤いテーブルを前に、年季の入った赤い椅子に座し、光沢ある赤い深皿の、中に満たされた赤いスープを見つめている。赤いスープは、上澄みに赤黒い脂のようななにかが浮かんでいた。

 唯一、赤いテーブル上に置かれた大きめの魔法瓶だけは本来なんの変哲もない、清潔感ある鈍色をしていた。だけれど、この空間においてはその魔法瓶がもっとも異質で、不穏なものに見えた。

 燕尾服の赤い男は、ゆっくりと深皿を持ち上げ、口元に近づける。そして一気に、ズズズと汚らしくスープを飲み干した。

 飲み干したあと、男は満足げに一息を吐いた。


「ごちそうさま」


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