悪夢(2793文字)
「先生、最近私は、悪夢ばかり見てうなされているんです」
あるやつれた顔の男が、有名な睡眠外来を訪れた。
経験豊富な医者は、まず穏やかに語りかけた。
「それはそれは、今日までお辛かったでしょう。しかしもう大丈夫。ここへ来たからには、あなたの心が抱える小さなひずみを見つけて、すぐ治してさしあげます」
やつれ顔の男にも、笑顔が戻った。
「なんて、心強いお言葉でしょう。いやぁ、近くの医者なんかで済まさず、日本で一番という先生のもとへ、足を運んでよかった」
「ははは、恐れ多い評判ですよ」
医者は手を振って謙遜してから、カルテを構える。
「では、まずあなたが悩まされている悪夢の内容を、お聞かせください。おぼろげでも、とぎれとぎれでも、構いませんので……」
医者のゆっくりとした口調のおかげで、男も気負わず、話し始めることができた……。
「では何から話そう……。そうだあれがいい……。つい昨日に見た悪夢です……。あれはリゾート地の海で、砂浜でくつろぎながら一人、波を眺めているような夢でした。ざぁざぁと響き続ける波、照りつける夏の陽射し……。私がぼぉっとしていると、どこからか五つくらい年下の女が水着姿で現れます。それからまぁなんというか、艶っぽい雰囲気となり……」
男は、そんなことを苦しそうに話すから、医者もふむ、と訝しんだ。
つまり、男は実直な愛妻家ということらしい。普通の男ならむしろ喜びそうな艶っぽい夢だ。それをこれほど苦々しそうに話すということは、よほど不倫の空気に流されるのが嫌だったのだろう。夢の中で嫌悪感をもよおす行動を取ってしまうのは、自律神経が不調なときの症状だ。医者は丹念にメモを取る。
「承知しました。他の夢はありますか? 続けてください」
「他ですか? ならば……」
男は顎に指を置いて、またとつとつと語り始めた。よほど、悪夢に悩まされているらしい。
「三日くらい前に見た夢です……。あれは、私がまだ社内でも課長くらいの地位にいたころの夢だ……。社外秘のこともあるし詳細は語れませんが……思い出したくもないあのプロジェクト……。私は現実と違って、あの憎たらしい上司の、忠実な手足のように働いていたのです。そして夢の中でも私は必死に働き、私のおかげでプロジェクトは軌道に乗ったのです。ところが、手柄は上司にかすめ取られ、私はまったく正当な評価を受けなかった、なんてのがあの夢の顛末でした。私は辛酸と苦汁を混ぜたのを飲むような気分で、目覚め……」
まるで反吐を吐くのを堪えるかのように語るから、医者もその様子を事細かにメモした。
これはだいぶ、分かりやすいパターンだ。夢の中に嫌いな人物が現れて、嫌なことをさせられる。解消できないストレスがあるとき特有の夢だ。語り口調から伺うと、幸い現実では、夢と違った顛末になっているらしい。蛇蝎の如く嫌う上司とも現在、もう深く関わっていないのだろう。
そのうえでこんな嫌い方をするのだ、まだよほど根深い恨みが残っている。まずはそこを解消せねば……と医者は方針を立てた。
「ありがとうございます。よろしければ、もうひとつくらいお聞かせ願えますか。サンプルは、多い方がよいので……」
「えっ、もうひとつですか。困ったな、たくさん夢は見るが、夢日記のようなものも取っていなくてね……。あ、そうだ。あれがありました。五日前くらいに見た悪夢です……」
男はそれから前かがみになって、また忌々しそうに語りだした。医者もメモを構えた。
「あれはほんとうに嫌な夢でした……。私には妻と息子と娘がおるのですが、なんでもない休日に、私たちは回転寿司に出かけていたのです。混んだ店内の活気に釣られて、はしゃぐ息子と娘。ふたりをたしなめながらも、どこか楽しそうな妻。それで私は、まぐろやサーモン、定番のネタを取っては、家族に配り、そして自分でも美味そうに、ほおばっていた……」
医者のメモを取る手が、ピタリと止まった。
さすがに意味が分からない。
「それのどこが……悪夢なのでしょう?」
医者のきょとんとした表情を見て、よほど気に食わなかったのか、男はキッと眉を吊り上げた。
「ええ、あなたのような先生が、わかってくれませんか! この私が、休日に回転寿司なんかで飯を食っていたのですよ、みじめったらありゃしない!」
医者は男の剣幕にぎょっとした。男はなおも怒鳴るようにしゃべる。
「それも、手塩にかけて育てた息子や娘が、庶民の空気に当てられてはしたなくはしゃぎ、挙句には妻まで釣られてしまって……。さらにはなんということか、夢の中の私までも、そまつな回転寿司なんかを食っていた。まったく、悪夢以外の何物でもありませんよ!」
「はぁ……」
医者は、とっさに間に合わせの返事をした。
それから、ああ、そういうことかと冷静に察する。
さらに言葉を引き出すため、適当な相槌を打った。
「失礼しました。それはまさしく悪夢でしたね。ならば、最初に伺った砂浜の夢も、心苦しかったでしょう……」
ようやくわかってくれたか、という風に男は前のめりになった。
「ほんとうに、そのとおりです。ま、口外だけはせんでもらいたいですが、私ほどになると、リゾート地で遊ぶならあんな夢の中の年増の女より、もっと若くて器量のいい女を用意できるのです。二十代くらいの、ピチピチのをね。行きずりの関係なんて、薄汚いったらありゃしない。それに海で遊ぶなら、暢気に砂浜で肌なんか焼かず、クルーザーで優雅に潮風を浴びますからね……。なんて退屈で、下品な、悪夢だったでしょう……」
「なるほど……」
医者は適当に頷きながら、どうもこれは重症だぞ、と辟易する。
睡眠外来の医者の領分では、悪夢の原因を取り除く手段がなさそうだ。
もっとも、この男の性根を変えるのは、誰であっても難しいだろうけれど……。
そんなとき、男のポケットから電話が鳴った。
着信は切れと院内のポスターにも書いているのに、ひどい話である。
さらに男は恥ずかしげもなく、その場で出た。
「おう、おう……。な、なんだって! す、すぐ行こう……」
そしてひどく焦った様子になり、別れの言葉も告げず、診察室から飛び出していった。
医者は呆気に取られるしかなかったが、男が消え去ってからふと気になって、机のパソコンで検索した。あんまりよくないけれど、カルテ記載の男の名前を調べてみれば……。
「ははぁ、これは」
医者はひとつのネット記事の見出しを見つけた。
『エックス社社長、エヌ氏、過去のプロジェクトでの汚職が発覚。データの隠ぺいに改ざん、挙句の果てにはその罪を、元上司になすりつけたか』
エヌという名前は、さっきの男のもので間違いない。
「ははは……」
医者は乾いた苦笑いを浮かべた。
「どうやら私が手を打つ前に、膿が出てきたようだな。傲慢さという膿が出切ってしまえば、悪夢も少しは減るだろう。もっとも、しばらくは現実が悪夢のようになるのだろうけど……」




