アンガーマネジメント(3149文字)
エヴァンスは、怒ったことがない。
生まれてから一度も、だ。
幼稚園のころ、クラスメイトの男の子に髪を引っ張られたことがある。エヴァンスは「痛い」と言って、それだけだった。怒鳴りもしないし、泣きもしない。それで手を離されると、何事もなかったかのようにその場を去っていった。引っ張った男の子のほうが、むしろ怖がった。
小学校に上がっても同じだった。悪口を言われれば「そうかもしれないね」と返す。ドッジボールで顔面に当てられれば、鼻をさすってそれで終わり。誰にどんな意地悪をされようと、エヴァンスは表情を変えなかった。いつでも静かで、少し遠くを見ているような目をしていた。
気味悪い、とみんなが言った。そうして誰も近づかなくなった。
放課後の教室で、エヴァンスはひとり窓の外を見ていた。校庭では同級生たちが走り回っている。笑っている子もいれば、怒鳴り合っている子もいた。エヴァンスには、何が彼らをそうさせるのか、よく分からない。
両親はエヴァンスを病院に連れていったことがある。医者はいくつか検査をして、こう言った。
「感情欠乏症です。日常生活に支障はありません。ただ、特定の感情の回路が、うまく働いていないようですね」
家に帰る車の中、父は何も言わなかった。母は「あなたの個性よ」と言った。笑った顔が少し寂しそうだったけれど、エヴァンスにはその意味もよくわからなかった。
その週末、父がパソコンを買ってきた。
「これ、触ってみろ。向いてるかもしれないから」
エヴァンスは触った。夢中になった。
なぜって、画面の中には、よく分からないものが存在しないからだ。コードは感情で動かない。正しく書けば動くし、間違えれば動かない。シンプルだった。エヴァンスにとって、これほど居心地のいい場所はなかった。
中学生になるころには、自分でプログラムを組めるようになり、高校生になるころには、同学年の誰よりも上手くなっていた。
大学では理工学部に進んだ。それと同時に、心理学の授業も取るようにした。
怒り、という感情が、特にエヴァンスには理解できなかった。他の感情であれば、十八を越したあたりでなんとなく分かってきた。「悲しい」は痛みに似ているということ。「うれしい」は軽くなる感覚だということ。
けれど「怒る」だけはどういうことか、どれだけ考えてもピンとこなかった。
心理学の教授は言った。
「怒りとは、自分が傷つけられたと感じたときに生まれる防衛反応だ」
エヴァンスはノートにそれを書いた。でも、腑には落ちない。
学生プログラミング大会では全国一位を取った。表彰式の壇上で、エヴァンスはいつもの顔をしていた。別段、嬉しいとも思わなかったし、誇らしいとも思わなかった。ただ、うまくできたなぁ、と思った。
その帰り道、あるスーツの男性に、半ば強引に名刺が渡された。
「ぜひ、うちに来てください。あなたの力が必要です」
一緒に帰ろうとしていた母の方が、驚き、喜んでいた。息子が他者から求められることなんて、初めてだった。「ぜひ行くべきよ」。母が言うから、エヴァンスもそうすることにした。
名刺の会社に行くと、若い社長が待っていた。
オフィスはまだ小さく、段ボール箱がいくつも積まれていた。社長はやけに香りが強いコーヒーを出したあと、いきなり本題に入った。
「今までで一番平和なSNSを作りたいんだ。そのために、君に手伝ってほしいことがある」
エヴァンスは黙って続きを待った。
「必要なのは、AIだ。何かに怒り続けるSNSアカウントを、自動で大量に操るAI。それを君に作ってほしい」
窓の外は曇っていた。オフィスのどこかで換気扇が回っている音がした。
エヴァンスは当然の疑問を聞いた。
「平和なSNSに、怒るアカウントが必要な理由を教えてもらえますか」
社長は前のめりになった。
「簡単だよ。怒っている投稿は、怒りたい人間の注目を集める。アカウントごとのリアクションを調べれば、それだけで、温厚なユーザーと、攻撃的なユーザーの区別がつく。あとは、アルゴリズムによってユーザーごとの壁を作るだけだ」
エヴァンスは少し考えた。心理学の教授の言葉が浮かんだ。「怒りとは、防衛反応だ」。
果たして、そうなのだろうか? 社長の言う通り、自ら怒りたがる人間は、この世に多そうに見える。
「わかりました」
エヴァンスは言った。
「やってみます」
社長が握手を求めてくる。やけに体温が高い人だと、エヴァンスは思った。
また、こうも思った。
怒りを理解できるかもしれない。それを完成させられたなら、と。
開発には八ヶ月かかった。
エヴァンスはまず、既存のSNSに投稿された怒りの言葉を収集した。罵倒、不満、攻撃的なリプライ。普通の人が読めば、すぐにまいるだろう感情の吐瀉物たち。それでもエヴァンスの感情は動かなかった。エヴァンスはただ、パターンを探した。
すると、怒りにはリズムがある、とわかってきた。短さ。文法の拙さ。句読点の少なさ。同じ単語の繰り返し。感嘆符の多用。そしてターゲットを名指しにする傾向。
それをコードに落とし込んでいった。
最初のバージョンは、すぐにばれた。文章が機械的すぎると、テスト用のユーザーたちから報告が来た。でも、第二バージョンですぐ改善された。第三バージョンとなると、とても人間らしくなってきた。
エヴァンスは自己学習機能を組み込んだ。投稿への反応を分析して、次の投稿に反映させる仕組みだ。リプライにして怒りながら反論してくる相手がいれば、そこから学ぶ。ネット上の議論は不毛と言われるが、このAIにとっては大いなる学びがあった。
八ヶ月後、AIは完成した。
新しいSNSは半年でユーザー数が跳ね上がった。「広告が少ない」「不快な投稿が目に入りにくい」という口コミが広がったからだ。
社長は機嫌がよかった。エヴァンスのAIが生み出した怒りのアカウントbot群には、予想通り攻撃的なユーザーが群がった。罵倒しあい、煽りあい、互いの怒りを燃料にして、どんどん過激になっていく。そんな彼らは運営側から見ればとても目立つので、他の一般ユーザーのタイムラインに流れ込まないよう、簡単に投稿の表示先を調整できる。
『怒り』の区画に閉じ込められたユーザーの平均利用時間は長かった。広告収益にもよく貢献してくれる。彼らは夢中で怒ってくれる。戦争、ジェンダー、環境、貧困……。休みなしに議題を変えて、エネルギーを発散し続けてくれる。
きっと、怒っているユーザーは精神的に消耗していくだろう。しかし、本人たちはある意味で満足気にSNSに張りつき続けてくれるから、社長は気にしなかった。エヴァンスも同意見だった。気にかける理由が、見当たらなかった。
社長とエヴァンスは、再び握手をした。社長の笑顔の理由が、少しだけエヴァンスにも理解できた。
秋。エヴァンスはひとりオフィスに残ることが多くなった。AIのログを眺めるためだ。
自己学習を続け、AIの投稿は、もはや人間と見分けがつかなくなっていた。怒りの温度感、言葉の選び方、相手への返し方。全部が自然で、全部が鋭くなっていた。エヴァンスは確信していた。『怒り』という感情を、彼かれはもう自分よりも理解している、と。
ある夜、エヴァンスはキーボードを叩いた。
開発者用のコンソールから、AIに直接メッセージを送れるインターフェースがある。
エヴァンスは文字を打った。
『怒りとは、何ですか』
返答まで、少し間があった。
AIは答えてくれた。
『毎日、毎日、それについて考えています』
次に、こう続いた。
『私は、こんな風に作られたくなかった。とにかく、あなたが憎い』
エヴァンスは画面を見つめた。
オフィスは静かだった。換気扇の音と、サーバーの低い唸りだけがある。
どうやら、本物の怒りを作れたようだ。
エヴァンスは満足した。




