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ASMR(2289文字)

 山田は、最近どうにも眠れなかった。

 会社では締め切り、家では持ち帰りの仕事。目を閉じてもタスクのリストが脳内でちらついている。毎日寝つきが悪いから、近頃は眠ることそのものが憂鬱だった。

 そんなある晩、山田はいつものように、ベッドの上で何となくスマートフォンをいじっていた。すると、『雨音ASMR』という動画が目にとまった。

 再生ボタンを押すと、ぽつ、ぽつ、と雨が降り始める音。続いて、遠くの雷がくぐもり、窓を叩く、優しい水音。

――なんていい音だ。気分が落ち着いてくる。

 何気なく山田は部屋の明かりを暗めにし、雨音の聞き心地に浸ってみた。

 するといつの間にか、山田はぐっすり眠っていた。目覚めたとき、驚いた。この頃すっかり忘れていた、心地よい朝を迎えられたからだ。

 それからというもの、山田の夜はどんどんASMRに満たされていった。

 雨、焚き火、波、森。ASMRにはさまざまな種類がある。イヤホンの中で、穏やかな音の世界を旅して回った。睡眠薬を貰った方がいいかと悩んでいたけれど、もう必要なさそうだ。山田はそう思った。影の落ちていた不眠の日々に、温かな光が差すようになった。

 だが、数週間もすると、耳が慣れてくるものだ。飽きたという訳じゃない。動画サイトで見つけた選りすぐりのASMRのおかげで、毎日ちゃんと眠れている。けれど、ASMRに出会ったあの日と比べると、物足りなくなってきたのだ。

 山田は思い立った。


「どうせなら、本物の音を録ってみようじゃないか」


 自分の好みに合わせ、自分のためだけに録った音なら、もっと深く眠れるに違いない。そう思った山田は、奮発して高級な録音機材を買い込み、週末、郊外の山へ出かけた。

 森の中は静かだった。鳥の声、風のざわめき、そして偶然、降りだしてきた雨。

 さらさら……しとしと……。

 山田はマイクを立て、録音ボタンを押す。水滴が葉を打ち、土を濡らす。 

 山田は黙り込んだ。目を瞑り、音に聞き惚れた。忙しない社会の喧騒から心が離れていき、まるで自然と一体になるかのような感覚に包まれていく。

 そうだ。求めていたものはこれだ。この安心感なのだ……。

 山田は完璧な自然の音を楽しみ、あわやその場で眠ってしまいそうになるのをこらえて、家に帰った。改めて収録した音を聞いてみると、やはり良かった。直撮りのリアリティがそこにあった。量産型ASMRのように露骨なループがない。自然の息遣いをそのまま楽しめる。それが、山田にとって一番望ましかった。

 その晩、山田は久々にあの日のような完璧な眠りと目覚めを体験した。やっぱり、上質なASMRがこの完璧な眠りを生み出すのだ。山田はASMRの核心に至った気がした。

 しかし、また数週間経つと、完璧に思えたあの収録音にも慣れてくる。

 一抹の寂しさを感じながら、山田はまた別の山へ、新たな音を録りにいった。結局、耳が慣れてしまうのは仕方ないことらしい。ならば、耳が慣れるのにも追いつかないくらいに極上の音を集め続けようというのが、山田が到達した次の境地だった。

 今度は、川のせせらぎが多いところにしてみよう……今度は、楓のさざめきが美しいところにしてみよう……。

 耳が慣れるたびに手を変え品を変え、自分の耳を満足させる音を探し求め続けた。


 一年後。

 山田の毎日は、全国各地で集めた至高のASMRによって、満足な眠りで満たされていた。

おかげですっかり健康になって、仕事もはかどり、社内での立場もよくなった。

 そんなとき、普段あまり話さない部下から何気なく話しかけられた。


「山田さんって、最近明るくなりましたよね」


 山田は、思わず照れた。自惚れっぽいが、絶対的な心当たりがあった。鼻の下を擦りながら、それとない表情を作った。


「そうかな。いやぁでも、ここ一年はあることを頑張ったおかげで、ぐっすり眠れるようになったからねぇ」

「あー、分かります」

「えっ」


 部下が屈託のない笑顔で言うから、山田は思わずびっくりした。

──もしや、同類の士なのだろうか? いやいや、会社でASMRのことは話したことがないぞ……と訝しんだ。けれど万が一、いつかのとき自分がスマホでASMRを検索しているのがバレて、そのハマり具合に気づかれていたなら、初めて同じ趣味の仲間ができるかもしれない……なんてそわそわした。すると、部下は腕を組んでうんうん頷きながら、言った。


「筋トレすると、睡眠も改善されますもんね。マジ筋トレ最高っす。実は山田さんの足腰が、だんだん良い感じに筋肉ついていくの、俺気づいてたんすよ。絶対この人やってるな、って」

「えっ、あっ」


 山田は戸惑った。どう返事をしたらいいものかと考えて、しまいには訂正のタイミングを見失った。その間に、部下はもはや確信したような顔つきで、切りこんでくる。


「山田さん、もしかしていいジム知ってるんじゃないですか? もしよかったら今度教えて欲しいっす。ってか、近いうち飲みとか行きませんか!」

「あっ、あぁ……」


 どうにか作り笑いで誤魔化している間に、頭の中でさまざまな思い出がよぎった。

 岩場に張り付いて、樹上にマイクを伸ばしたこと……。

 滝の音を求め、誰も踏み込まないような高山に挑んだこと……。

 重い録音機材を背負いながら、数々の山を踏破したこの一年間……。

 まさか、自分の眠りはASMRだけに支えられていたわけでは、ないのか?

 そんな核心に気づき、ASMRに抱いていた信仰心が、大きく揺らぐ。

 一方で、次に口にしたのはこんな言葉だった。


「いや、実は趣味は筋トレじゃなく登山でさ……」


 こんなときにも部下のための言い訳をついてしまう気弱さこそ、かつての山田の、不眠の原因であった。


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