妻の味(2974文字)
私には悩みがある。
贅沢ではあるが、切実な悩みだ。
夜勤を終えた。私が家に帰るころには、もう空が明るくなり始めていた。休憩中は軽いものしか食べなかったので、空腹は極まっていた。
私は音を立てないように鍵を開けた。妻はこの時間、まだ寝ている。
そして、とても献身的な私の妻は、私が帰ってきたら「すぐ起こしてね」とも言ってくれている。起こしたならば、「おかえり」と温かく迎えてくれ、文句ひとつ言わず、食事を用意してくれる。食事はいつも美味しく、健康的で、口にするだけで心が落ち着く。私はなんて幸せな夫だろうか。
しかし……今日、私は妻を起こさなかった。
たったひとつだけ、妻には言えぬ悩みがあり、それを内緒で解決しようとしていたからだ。
その悩みとは……毎日の食事の味が、まったく同じであることだ。
これは、妻が用意してくれる以上、どうしようもないことであった。
毎日、毎日、同じ味だ。
いくら美味しくても、いくら妻が献身的であっても、いつしか、味に慣れもくるし、飽きもくるというものだった。
しかし私は、面と向かって妻に文句を言えない。ここまでしてもらっておいて、言う資格もなければ、言いたくもないのだ。妻が私の食事に注いできた努力をずっと見てきたから、これ以上を求めるのは気が引ける。
なので今日、秘密裏に作戦を実行することにした。
私はすり足で寝室の前を通り過ぎた。
それからリビングに辿り着き、服も着替えず、静かに電気のスイッチをつけて、おそるおそる、冷蔵庫へと向かう。
そう。冷凍庫の中には、非常食用の、冷凍の食事が眠っている。
私は今日、抗いようもなく本能的に、妻以外の味が食べたくなった。仕事中もずっとそのことを考えて、あえて休憩中も食事を抜き、この作戦の実行を決意した。
今日、この衝動を満たさなければ、あんなに美味しい妻の味を、いよいよ不味く感じてしまいそうだったからだ。そんな不義理、なんとしても避けなければならなかった。
算段はこうだ。
一、冷凍の食事を、密かに食す。
二、バレないように後片付けをする。
三、それから、ちょっと帰りが遅れたようなフリをして、妻を起こす。
四、妻は気づかず、食事を用意してくれるだろう。
これで、誰も不幸になることなく、目的は果たされる。今の空腹なら、冷凍食を食べたあとでも、無理なく妻の料理も食べられる。一度味の変化を楽しめれば、私はかならず文句なく、美味しく妻の食事を頂いてみせる。減った分の冷凍食は、ひっそり買い直せばいい。
まったく、完璧な算段だ。私はそそくさと、行動を開始した。
まずは、無音で冷凍庫を開くことに成功した。そこにはバリエーション豊富に、type-Aとか、type-Bとか、味の違う冷凍が常備されている。美味そうだ。
私は、なんだか背徳的なスリルを感じ始めていた。小心者の私が妻に黙ってなにかをすることなど、結婚記念日のサプライズ以外にないからだ。
そうだな……今日のところは、Bの方にしておこう。健康的であっさりしている妻の味と、こってり系のBの味は対極にある。
私はBの方を冷凍庫から取り出した。
さて、ここからが難関だ。冷凍されている以上、解凍しなければならない。
もちろん、加熱するときの音が大きいから電子レンジは使えない。そこで湯せんを使うことにした。忍び足で台所に向かって、ゆっくり蛇口をひねり、電気ポットへ静かに水を入れ、加熱台座にセットする。それから、沸騰の直前まで静かに見守る。沸騰を知らせるカチッという音や、蒸発する泡の音さえ、寝室に届かせてはならない。
リビングは静寂に包まれていて、私はそのすべてに耳を澄ましていた。
シンとした時間の中で黙っていると、自分の徹底ぶりが過剰ではないかと恥ずかしくなる瞬間もある。けれど、必要なことだと、そのたび自分へ言い聞かせた。
なんでここまで妻にバレることを嫌うのか。それは、妻の機嫌を損なうからに他ならない。
妻は、毎日食べることを加味した、完璧な栄養バランスで食事を用意してくれている。
だから、冷凍なんかでそのバランスが崩れることを、ひどく嫌う。
激怒するわけじゃないけど、目に見えてむすっとする。そして二日くらい、態度がそっけなくなる。私は居た堪れなくなる。
私は妻を愛している。
そして、彼女も私を愛してくれる。不機嫌にさせたくなどない。
だから、どうしてもバレてはいけないのだ──。
お湯が沸く直前、私はポットを台座から持ち上げ、音を立てずにお湯をゲットした。
よし。あと一歩だ。
用意していた、底が深い皿に冷凍の袋を乗せ、お湯を注ぎ始める。
お湯が跳ねないよう、垂らすように。そのときばかりは、手元に集中してしまった。
だから……油断した。
「ねぇ、何してるの」
後ろから声がかかった。心臓が止まりそうになった。
ゼンマイ仕掛けのように、ぎくしゃくと後ろを振り返る。そこには、パジャマ姿の妻。
なんてことだ。閉めるときの音を嫌って、リビングの扉を閉めなかったのがよくなかった。
妻は腕を組んで、ジトっとした目で私を睨んでいた。
「こ、これは……」
誤魔化しようはなかった。右手には電気ポット。前には冷凍のやつと、中途半端にお湯の入った皿……。冷や汗が頬を伝う。
「冷凍、食べようとしたんだ、隠れて」
「は、はい……」
詰め寄ってくる妻は、私より背が小さいはずなのに、圧倒的なプレッシャーを放っていた。
「ご飯、言ってくれたら用意したのに。もう、私の味は嫌いになっちゃったの?」
「ま、まったくそんなことはなく……ただ、今日は、そういう気分というか、好奇心というか、で……」
「ふうん。あなたのことを思って、毎日私は気を遣ってるのに……飽きちゃったんだ。たまには、冷凍で、全然栄養のない食事で済ませても、いいんだ」
「いやいや、それは本当に、このあと、君のも頂くつもりだったさ! 空腹だったんだ!」
そこは信じてくれと、私の方も彼女に歩み寄って、肩を掴んだ。妻も、私の必死な様子に少しだけ機嫌を直してくれたのか、「ふうん」と呟いた。
「でも、お腹が空いてるっていうのなら、私のをいつもの倍、食べたってよかったのよ……?」
「いやいや、さすがにそれは君が貧血になるだろう……。ただでさえ、私のために早起きまでしてくれているのに……」
「大丈夫よ、あなたのためにレバーも野菜も、毎日たくさん食べてるんだから」
あっけらかんと言う妻を、今度は私の方が「おいおい、無理だけはしてくれるなよ……」と、肩を抱き寄せながらたしなめる。
自分で言うのもはばかられるが、私の妻の愛情は、少々……いや結構、重い。
「はぁ」と私は諦めのため息を吐いた。
ここまできたら、もう降参だ。今こうして妻の肩を掴んでいると、やっぱり、この小さな体で重い愛を注いでくれることに、報いるべきだと思ってしまう。
「申し訳ない。やはり今日も、君のを頂く。冷凍の方は──まだ開けてもないし、再冷凍できるだろう」
「うん」
折れた私を見て、妻が満足そうに微笑んだ。
それから私は妻の体を胸の中に抱き寄せて、その細い首もとに、牙を突き立てた。
妻は優しく、私の背に手を回してくれる。
いつものように私の口へ流れてくる彼女の血は、なんとも健康的なO型の味で──しかし後味には、彼女独特の、どろっとした深みがある。
──私は幸せ者だ。
夜勤勤めの凡庸な吸血鬼が、これほど健気な妻と暮らせているのだから。




