第三の人生(10607文字)
大学三年生の春。三郎君の財布の中身は軽かった。
入っているのは、しわくちゃの千円札一枚だけ。コンビニでパンを買うか、安い学食で昼食を済ますかが、今一番の悩みの種だ。
最近、親の仕送りがまた減った。奨学金だって学費に消えていく。
アルバイトを掛け持ちしても、全然稼ぎが足らない。そしてバイトのせいで、課題に取り組む時間も足りなくなってくる。
──はぁ……友達と遊ぶ時間を、減らすしかないんだろうか……。
ため息をつきながら、桜散る並木道をとぼとぼ歩く。
そこへ、声をかけてくる男がいた。
「失礼。少々お時間を頂けますか?」
黒いスーツを着た、四十代くらいの男性だった。髪はきちんと分けられ、靴もピカピカに光っている。いかにもデキる営業マンといった風貌だ。
普段ならティッシュ配りなんかを素通りする三郎君であったけど、この男が放つ風格に、思わず足を止めてしまった。男は感じよく、三郎君へ歩み寄った。
「ありがとうございます。私、この地域の学生さん向けにアルバイトをご紹介させて頂いています、灰谷と申します」
灰谷は、名刺を渡してきた。受け取ると、《株式会社ワイズ》と書かれていた。
驚いた。CMでも見るような、有名な会社だ。
「えっと……バイトなら探してますけれど、いったいどんな仕事ですか?」
問い返すと、笑みがさらに深まった。
「本当ですか。ありがとうございます。簡単にお伝えしますと、弊社が開発した新型ウェアラブル端末の、テスター募集をしております。身につけて普段通りの生活を送って頂くだけの内容でございます。肉体的にも時間的にも拘束が少ないため、ご多忙な学生さんにおすすめさせて頂いております……」
「えっ。それだけでいいんですか」
「はい。ただし……」
灰谷はさらに一歩近づき、手を口元に当てて声をひそめた。
「こちらは、一般販売の予定がない製品でして……。商品情報が外部に漏れないよう開発を進めております。ですから、ここではさらに詳しくはお話しできません。もしご興味がありましたら、弊社までご案内しますが……いかがでしょう」
三郎君はドキリとした。渡りに船、と言うやつだ。
ちょうどこの後予定があった午後の講義が、教授都合で休講になったところだった。運命的だとしか思えない。ちょっと話が美味しすぎる気もしたけれど、有名企業の名を騙ってまで悪質なことをするだろうか。少し考えてから、三郎君は頷いた。
「行きます」
そして、灰谷の三段階目の笑顔を見ることになった。まるで営業教本に載っていそうな、完璧な笑みだった。
株式会社ワイズの支社は、徒歩圏内にあった。銀色の壁が光るビルに入り、ビジネスマンたちが行き交うエントランスを通り抜ける。
案内されたのは、十三階の会議室。部屋には既に、資料と透明なケースが用意されていた。
ケースの中には、コンタクトレンズが入っていた。
「三郎さんには、これを装着していつも通りの生活を送って頂きたいのです」
灰谷は穏やかに説明を始めた。道すがらの談笑で、三郎君は名前を既に教えていた。
「こちらの製品名は《サードライフアイ》。ええ、〝第三の人生の目〟という意味です」
三郎君は首を傾げた。第三の目なら言葉として聞いたことがあるが、第三の人生というのは妙な言葉だ。〝第二の人生〟なら分かるけれど。
だが、説明を遮るのも悪いと思い、黙っておいた。
「実はこのレンズには、超小型カメラと小型マイクが内蔵されております」
「えっ、この中に?」
三郎君がレンズを見つめてみると、確かに、外周に黒い粒のようなものが並んでいた。カメラやマイクの小型化が進んでいるとはニュースでよく聞くが、まさかここまでとは。
「このカメラとマイクによって、装着した方の見る景色が、別の場所の別の人でも全く同じように体験できるのです」
ははぁ、と三郎君も驚いた。流石は株式会社ワイズの技術力。SFのような話だ。世界でも有名なその名は、伊達じゃない。
それから灰谷は、後ろの壁にかかったモニターを点けた。すると、モニターには灰谷の視点から見た三郎君の姿が映し出された。三郎君の驚く声と、灰谷の驚く声が二重になって聞こえてきた。
「ええ……実は今、私もつけていまして。このレンズの性能については、お分かりになりましたか」
現実とモニター、二人の三郎君が同時に頷く。灰谷はよかったと言いながら後ろのモニターを切った。
「このままつけっぱなしと言うのも、気が散りますからね」。
しかし、ここでひとつ、三郎君の中に疑問が浮かんだ。
「で……これを僕が装着していつも通り生活して、何になるんですか」
別に学生じゃなかろうと、ワイズ社員でもテスターはできるじゃないか。最初、学生向けという触れ込みをしていたのが、気になった。
灰谷は、嬉しそうに手を打った。
「なんと、話が早い。私も今からその理由を、お伝えしようとしていたところです。実はこの製品、とある高齢な資産家の方々向けに開発されたものなんです」
「高齢な……資産家?」
「ええ。……と言いますのも、こちらの商品に出資頂いた方の多くは、寝たきりなど、様々な外出できない事情をお持ちなのです。そうした方々にとっては、若者の目を通じて、外での日常を追体験することが、何よりの心の慰めになるのです。どんな映像作品よりもね……」
灰谷は同情を誘うようにしんみりと語った。三郎君は眉をひそめながらも、はぁ……と頷いた。つまり、金持ち老人の道楽ということらしい。その感覚に共感はできずとも、理屈は理解できた。
「三郎さんの目から見る景色が、セカンドライフも満足に楽しめなくなった方々にとっての、第三の人生となる……という訳です」
「なるほど。だからサードライフアイ……」
満足そうに灰谷は頷いたのち、さっと表情を真面目な色に切り替えて、用意した資料を開いて見せた。
「そして報酬についてですが、おおよそ一日につき五千円ほどお渡しできる計算です」
「ご、五千円?」
三郎君は目を丸くした。いつものコンビニバイトの一日分を軽く超える。拘束時間も、まるでないのに?
その反応は、灰谷にとってもやりやすいものだったようだ。
「ええ……。そして、おおよそと申し上げたのは報酬が歩合制だからです。例えば、一日中視聴者がいなかった場合、装着時間に対する手当だけお支払いして、報酬はおよそ千円程度。逆にたくさんの視聴者を獲得した、いわゆる人気者なテスター様の報酬は、一日で一万円から二万円。最大で、一日三万円稼がれたケースもございます……」
三郎君の胸が高鳴った。人気者のなりかたは分からないが、上振れた金額に夢があるし、誰にも見られなくとも千円が貰えるというのもよかった。
一通りの説明を聞いた後、三郎君は自分でも書類をぱらぱらめくり、気になったことは灰谷に聞くようにした。灰谷もその都度、よどみなく欲しい情報を与えてくれた。
──着用可能なのは週五日最大八時間。夜十時以降の着用は不可。映像の放送は、専用のアプリでいつでもオンオフ可能。ワイズの方でも常駐の放送管理人がいるので、意図せず法律的にまずいモノが映ったら放送を停止してくれるらしい。レンズの充電器も洗浄液も、無償で提供してくれるそうだ──。
三郎君の警戒が、ひとつひとつ解かれていった。どうにも、詐欺の色はなかった。
そして……。
「よし。やります」
三郎君はその日のうちに契約書に署名した。
灰谷は固い握手を交わした。その眼には確かな熱意が宿っていた。
「ありがとうございます。ぜひ、視聴者の方々に、よき第三の人生をお見せしてあげてください」
そう言われるとなんだか三郎君の方も大きな責務を背負ったように思えてきた。
ワイズのビルを出るときなんて、自分が一介のビジネスマンになったような気分だった。
さて、翌朝から三郎君はレンズを装着し始めた。
つけ心地に違和感はない。少し光が柔らかく見えるくらいだ。
三郎君は初日の過ごし方を決めていた。特別なことはせず、いつも通りを過ごして、報酬の感覚を掴もうという計画だ。
まず大学へ行き、講義を受け、学食で一杯二百円の掛けうどんを食べる。
帰りに本屋へ寄って講義に必要な本を買い、ついでに漫画を少し立ち読みする。
家に帰ったら、友達とオンラインゲームをする。
そして寝る。
何の変哲もない、つまらない日常だ。そんな生活の節目節目で、適当にサードライフアイを点けたり切ったりした。放送は、合計で七時間となった。
そして夜寝る前の午前零時。アプリを開いて、三郎君は驚いた。
《報酬金額:5,126円》。
金欠学生にとって、これは大金だ。
「ほ、ほんとに、これだけで……?」
六畳半の下宿で、思わず声を上げた。今まで、コンビニであくせく品出しをしていたあの時間は、何だったのか。
アプリでは報酬金額の他に、今日の視聴データについても確認できた。
さっそく三郎君は確認した。
総視聴者数は──二十一人。視聴時間合計は──七時間。思っていたより多くの人に見られていた。まずい行動はしていないつもりだけど、なんだか恥ずかしさが込み上げてきた。
次に時間帯ごとの視聴者数推移も確認。
すると……ある傾向が見えた。
講義を受けたり友達と話したりした時間では増えて、立ち読みやオンラインゲームをした時間では減る。それに、一番増えたのはかけうどんを食べていた時間だった。灰谷の言っていた通り、寝たきりの金持ちは本当に、刺激の多いエンタメより生活そのものの質感を好むらしい。
まるで共感はできないが、でもそれでよかった。
これを週五日繰り返すだけで……月十万円が入ってくるのだから。
十分すぎる。そんなに稼げるなら、下手に無理をして、老人好みの生活を送る必要もない。
一日一万円を狙って努力するより、自分の学生生活を大事にしたい。三郎君は、現代っ子らしいQOL主義者だった。どうかこの夢の仕事が明日には夢になっていませんように……と願いながら、その日は幸福な眠りについた。
翌日以降も、三郎君はレンズをつけ続けた。
結局、三郎君がこのバイトのために生活パターンを変えることはなかった。いや、変えられなかったという方が正しい。講義を休むわけにも行かないし、課題もやらなきゃいけない。委員会の仕事もあれば、友達との予定もある。老人好みの生活をするのは、時間的にも厳しい。せめて少しはサービスしようと思って、夕食を和食中心に変えたり、朝早起きして体操してみたりだけしてみたけど、それ以上のことはしなかった。
一方で、毎晩の視聴データ確認は怠らなかった。効率的なノウハウを掴めるなら、掴みたい気持ちはあったのだ。視聴者数は、初日の二十一人に対して今は平均十人前後。初日は真新しさだけで人が来たということだろう。しかし、総視聴時間数は変わっていなくて、つまり、ファンになってくれたご老人が、何人かはいるらしい。
生まれてこの方誰かのお気に入りになった経験のない三郎君は、少しくすぐったい気分になった。
視聴傾向も追うと、やはり学生的な時間が好評であることが分かった。今週だと委員会活動が特に評判だ。十人程のご老人が、二時間ずっと見てくれたらしい。
逆に、無為にスマホを見るような時間はひどく不評だった。ちらっとSNSを見るだけで、視聴者グラフががくっと傾く。理由は単純、寝たきりのベッドの上でも見れるものをわざわざ、レンズ越しに見る必要がないのだろう。
また、老人のウケがいいかと思ってやってみた和食志向や朝の体操は、効果があんまりなかった。なんなら、視聴者数がちょっと減っていた。
──媚びた感じがして面白くないだろうか? ……なんて三郎君は考えてみるけれど、グラフはそこまで教えてくれない。
実はこのサービス、出資者であるご老人たちの匿名性を徹底していて、アカウント表示もコメントも一切ない。だから答えを得るには地道に放送を重ねて、傾向と対策を練るしかなかった。
真面目な三郎君は、そこに小さな楽しみを見出し始めていた。
さらに何か月かが経った。生活は見るからに潤っていた。
放送の稼ぎで生活費や学費の支払いも間に合うようになった。最近とうとう、掛け持ちバイトも両方辞めた。すると時間に余裕ができるから、学業成績も、友達付き合いも良くなる。三郎君は大学に入って初めて、充実感を覚えた。
そして何より嬉しかったのは、ときどきある、灰谷からの定期メールにて、伝えてもらったニュースだ。そのとき、三郎君にとっての今一番の悩みが解消された。
「ええ。開発は皆様のおかげで順調で、来年には製品化する予定です。しかしご安心を。ご希望であれば、現在のテスター様にはこのアルバイトスタッフを続けて頂けます。最大で満二十二歳かつ、大学在学中の間まで」
三郎君は有頂天になった。普段は飲まないのに、ウィスキーボトルを一瓶買って、空けたほどだ。在学中このバイトを続けられるなら、就活や卒業論文がどれほどやりやすいか分からない。つくづく、人生で大事なのは時間と金銭の余裕なのだと噛みしめた。
四年生になるころには、サードライフアイはもう生活の一部であった。地道な放送で少しずつファンも増えて、稼ぎはまた増えていた。面接用のちょっと良いスーツだって、自腹で購入できた。
さて──ここ一年弱も視界を提供し、毎日データを追ったことで、三郎君はご老人たちの傾向についてひとつの結論を掴んだ。
それは、ご老人たちは『意外とちゃんと見ている』ということだ。
バイトを始めた当初は、老人の嗜好に合わせたわざとらしい生活を送れば、もっと稼げるものだと思っていた。だが、今は違うと確信できた。
今年の秋、三郎君は実験的なひと月を送った。平日はできるだけネットをやらず、早寝早起きして朝には散歩、夜には和食を自炊した。休日には紅葉狩りに出かけたり、京都の町を散策したりしてみたのだ。夏になにかと出費が多く、稼いで埋め合わせられたらいいなという魂胆だった。
すると、視聴者数は伸びるどころか減った。
最初こそ放送の雰囲気が変わった新鮮味でいくらか増えたが、すぐに逆V字を描いた。やはり資産家、人生の成功者というだけあってか、浅はかな魂胆が見抜かれるらしい。
その反面、就活に励む時間が想定外に人気だった。三郎君としては学生から抜け出すための時間を見て楽しいわけがない、収入は減るだろうと考え、最初はアプリを切って企業研究をしていた。しかし、ある日の合同説明会に、アプリをつけながら出てみると、評判は上々。
視聴者数は三十人来て、その日の報酬は一万円。仕事を探してお金が貰えるとはこれ如何に……と身が震えた。
この経験から、どうやら金持ち老人たちは『よい若者』を見たいのだと気づいた。
それは、祖父母に媚びて金をねだるような若者ではない。自立心があってよく遊びよく学ぶ、将来が楽しみな若者だ。
そう言った若者に、老人たちは自らの青く遠い日々を投影するのじゃなかろうか。
もちろん、答えは得られない。灰谷に聞いたって教えてはくれない。
とはいえ、真実がどうであろうと、三郎君にとってはありがたいことこの上なかった。
三郎君にとっては、今こそが第一の人生。もし、このバイトが老人に媚びなきゃ稼げなかったならば、毎日千円だけ受け取りつつ、コンビニバイトを続けていただろう。真面目に学生生活を送るだけでお金が貰えるこの現状は、夢のように都合がいい。
ただ……それでも思うところがないわけではない。
どうしても、老人たちの目に影響されることはあるからだ。
例えば、友達と飲み会に行く回数は一年前より減った。学生だからこそできる荒れた飲み方を、このレンズの奥の老人たちは毛嫌いする。その気配が、たとえ放送をせずとも、脳裏に残り続けるのだ。だから、飲みを楽しむ気が無くなる。
他にも、大学で教授や用務員さんに会えば、必ず挨拶をするようになった。良いことではあるが、それも老人たちに見られているという意識に背中を押されての行動だ。
──実は無意識下で既に、老人たちの第三の人生が、自分の〝第一の人生〟を侵蝕しているのではないか……?
そんな考えが、何度か頭をよぎったこともある。結局、自分もまた老人に搾取される若者の一人では……なんて、陰謀めいたことも思った。
しかし……サードライフアイによって学生生活が好転したことは紛れもない事実だ。
やはり真相は、視聴データも、灰谷も、教えてくれない。
だから、三郎君はこの学生生活の果てに、あることを志したのだ。
**
五年後。
三郎君は、今やある有名企業のエリート社員だった。
その企業とは、株式会社ワイズである。
サードライフアイはもう外した。学生期間が終わる前、ワイズから内定を貰った際に、自分から打ち切りを申し出たのだ。灰谷はまだ続けても良いと言ってくれたが、気持ちに区切りをつけたかった。
三郎君の学業成績は、実のところ、きわめて優秀だった。奨学金も、返済不要のものを貰っていて、それを学費に当てながら大学に通っていた。
そんな彼は入社当初から評価が高く、おまけにある強い目的を持って入社したわけだから、五年目の今、配属第一希望が同期の誰より優先された。
そして今日。
初出勤となる配属先こそ、サードライフアイを開発する部署だった。
「まさか、君が部下になるとは思っていませんでした」
初対面のときと同じ笑顔で、灰谷が上司として出迎えた。
サードライフアイは製品化し、現在もサービス運営を続けていた。
けれど相変わらずの秘匿主義で、一般にはまだ全然名前を知られていない。今も全国で数十人程の若者が視界を提供しており、優秀なことに、誰一人社外秘を漏らしていないという。
開発室は本社第三棟の奥の奥。正確な場所も秘匿されてるから、上司自ら、第三棟玄関まで出迎えてくれたという訳だ。
資産家の個人情報を扱う以上理解はできるが、そこまでやるかと三郎君は思いつつ、灰谷の一歩斜め後ろを歩き続けた。すると灰谷が話しかけてきた。
「三郎君は、どうしてここまで?」
三郎君は少し考えてから、打ち明けることにした。
この秘匿主義の部署の中で、さらに腹の探り合いをしてもきりがない。
「サードライフアイの功罪を知りたいんです。僕のような苦学生にとって大きな助けになりましたが、無意識下で与える影響は大きいはずだ。もし可能なら、開発に携わりたいと思いました」
「そうですか」
帰ってきた灰谷の微笑みは、どこか寒々しかった。あの日の教本的笑顔とはまるで違った。
知らない階段を何度か降り、立入禁止の扉を何枚か開けた後、ようやく辿り着いたのは、重厚な白い扉の前。上部には『開発室』のプレート。
灰谷がカードキーを通すと、扉が自動で開いていく。心構えをする時間はなかった。
だから、余計に驚いた。
開発室の内部は──SF映画に出てくる、管制室のようだった。壁一面を無数のモニターが埋めていて、その下に操作盤が整然と並ぶ。全てのモニターには、全国各地の誰かの一人称視点と思われる映像が流れていて、全て稼働中であることが分かった。部屋の照明はやけに薄暗くて、モニターのある壁面だけ、青白く目立って光る。
そして……部屋の中には、二人以外に、誰もいなかった。
「これが……」
「〝第三の人生〟です」
扉を閉めるのと同時に、灰谷があっさり言った。三郎君にもすぐ理解できた。モニターに映るのは、今まさに、レンズをつけている者たちの視界だ。
しかし、三郎君はすぐに眉をひそめた。違和感を覚えたのだ。
モニターに、視界以外の情報が、ないことに。
どのモニターにも、視聴者数や、視聴時間の表示がない。この部屋になら、何かあってしかるべきだろう。三郎君はモニターの真下まで歩み寄って、ぐるりと部屋の全体を見渡した。やはり、ない。放送者ではなく、視聴者を管理している画面やデータが。
「まさか……」
「ええ、ご想像の通りです。このサービスに視聴者は一人も存在しません」
息が止まった。
一方で、思考が駆け巡った。
いや……確かに考えたことはあった。こんなサービスを見る視聴者が、本当に存在しているのか……ということは。しかしそんな初歩の疑問、資産家の寝たきり老人という言葉と、実際に振り込まれてくる大金を並べられたら、納得するしかなかった。
「じゃあ、なんのために……?」
そんな、安易な言葉だけが出た。けれど、三郎君の思考過程は、灰谷にもよく分かったらしい。
「ある方の、〝第三の人生〟を実行するためにですよ。ときに三郎君、改めて第三の人生とは、何だと思います?」
戸惑いながらも、三郎君はあの日灰谷から聞いた言葉を繰り返した。
「第二の人生を楽しめなくなった老人たちの、代替行為……」
灰谷は乾いた笑みを浮かべ、首を振った。
「それもまた、第二の人生の一部でしょう。第二の人生は、終わっていないじゃないですか。生きている。ただの、悲しい人生の末期です」
それから、灰谷は人差し指で上を指さした。三郎君は素直に天井を見上げた。
「……あぁ」と、間の抜けた声を上げた。
「そう……死後です。勿論天国があるという話じゃありません。死者が遺した何かが、当人に代わって生き続けるという話です。それはときに遺言であり、墓であり、本であり……この場においては、その機械だ」
指先が、モニター群に向けられる。
それは沈黙であり、問いであった。三郎君は試されたのだ。灰谷から、お前が答えを言ってみろ、と。
無茶な話じゃなかった、頭の中にも、推理材料は揃っている気がした。
あの学生時代の終わりの、日々の中に……。
そして長い静寂の後──ひらめきを得た。
「まさか……僕らのために?」
灰谷は、満足そうに手を打った。最初に出会ったときと、同じ笑顔で。
「流石。話が早い。採用担当はいい仕事をしましたね」
三郎君はごくりと唾を飲んだ。
「これは……誰が作ったんですか」
「わが社の創業者、松井先生です」
三郎君が目を見開いた。もちろん、名前は知っていた。松井大我。一般家庭の出でありながら、一代でこの企業を築いた業界の偉人で、企業研究で何度も目にした名前。
灰谷が背に手を組み、懐かしむように語り出す。灰谷の年代であれば、松井の存命中に関わりがあってもおかしくない。
「先生が晩年、何より憂いていたことがあります。それは、これから世に出る若者のこと。──経済は停滞し、社会は多様化して、ネットでは責任のない情報が蔓延する時代……。そんな時代では、若者の拘束が進むことを予見していたのです。経済的にも、時間的にも、精神的にも……」
それを聞いて、三郎君の思い出の中に、一本の筋が通ったような気がした。
「だから……見ていたということですか。あのレンズの奥で、松井先生が」
満足げな頷きが返ってくる。
三郎君の中で、学生時代の経験が、連鎖反応のように蘇る。口が勝手に動いていた。
「そうか……『無為に時間は過ごさないべきだ』『良く学び、よく遊ぶべきだ』『酒に吞まれないようにすべきだ』『媚びへつらいは見透かされると知るべきだ』『自立心をもって生活すべきだ』……それらのメッセージが、あの『報酬』と『資産家たる人間たちの評価』によってコーティングされていたんだ。それを、放送者は自分の力で獲得したものとして、より深く受け取る」
口走った自分の言葉を、もう一度反芻して、三郎君は結論を得る。
「より強く、松井先生の意思の影響を受ける……」
──まるで……洗脳じゃないか?
その言葉を、三郎君は口に出さなかった。灰谷の存在があったからじゃない。
それは違うと、拒絶感が胸を打ったのだ。
灰谷は全て見透かしたかのように、続けた。
「もうお察しでしょうが……視聴者数表示などは全て、松井先生の意思を体系化してからプロンプト化し、AIに読み込ませ、映像の状況に応じて生成するようにした、架空の数値です。そして、テスターもまた、この部署で選抜的に選びました。全国各地の、『学力的に見込みのある苦学生』をね」
三郎君は、ドキリとした。
「例えば……親御様との折り合いが悪く、ほとんど援助なしに、自力でK大学に入学された……三郎君のようなね。水を与えれば芽吹くだろう彼らが、このシステムを通じてどのような道を歩むのかというデータを、私たちは集めているのです。あなたは、その成功例のひとつと言える」
三郎君は少し目を伏せた。その予想も、心の奥にあった。他のテスターに会ったことはない。けれどこれだけうまい話が外に洩れていない時点で、声をかける学生にも目星をつけていたんじゃないか……と。学力と経済状況という基準も、想像の範疇だった。
一方の灰谷は、悪びれるそぶりひとつなかった。
「打ち明けましょう。このサードライフアイプロジェクトの実質は、松井先生の個人的慈善事業かつ、わが社のテクノロジーを活かした教育システム投資です。プロジェクトのデータは、いずれ教育界に提供されます。どんな学校より、塾より、『有意義な主張を持った生活態度評価を受けて、自発的に報酬を獲得する』このシステムこそ──最も教育効果が高い。私はそう考えています」
三郎君も、それを黙って聞いていた。無思考に肯定できはしないが、かといって、自分の体験から否定もできなかった。
もし、松井先生の自伝を何冊か読んだとしても、三郎君はワイズに就職できるようになるまでの影響は、受けなかっただろう。例えお金を貰って本を読んでも、それは同じだ。振り返れば第三の人生が与え続けた評価が、社会人としての三郎君の中に、今も深く根付いていた。
娯楽や情報や経済事情……様々な角度から自立心をブラされる時代の中で、それはどれだけ得難いものだろう……。
それでも……三郎君は聞いた。
「だから……松井先生の意思は正しい、となるのですか。全ての学生にとって、先生の言葉は良く作用しますか」
その問いに、灰谷の目から温度が消えた。三郎君の息が詰まる。
次の瞬間、冗談だと言う様に、口角の端が持ち上がった。
「私はね。……けれど、君の結論と一致するかは分かりません。この部署に来た以上、三郎君もまた、それを探し求めてください。自分の人生のために、どんな人生の影響を受けるべきか……。だって、誰からの影響も受けない人生なんて、存在しないでしょう?」
三郎君は息を呑んだ。
「共に、この第一の人生を励みましょう」
灰谷の言葉が静かに開発室に満ちた。
三郎君は、モニターを見上げ直す。
何十人もの、変わりゆく人生が映っている。
第13回星新一賞の落選作です(投稿時から改稿しています)。




