矛盾(4221文字)
むかしむかし、中国のとある岩山の、険しき道にて。
轟々と風が吹きすさぶ中、ふたりの男がすれ違おうとした。
「「!」」
ひとたび目が合った、その瞬間であった。
ふたりは互いに共鳴というか、閃光が走るような衝撃を受け合った。
それもそのはず、ふたりは同業の士であった。互いに鍛冶職を生業としていた。
その証に、それぞれ背負いたるは、片や大矛、片や大盾。共に一番の傑作を携え、流浪の旅をしていたのだった。その最中、巡り合ったわけだ。
ふたりは一目、背中越しの傑作を垣間見るだけで、これはと足を止めたのである。
いてもたってもいられず、互いに口を開いた。
「もし。そこのお方。その背に担ぎなさる、玄武の甲をも凌ぐような盾は、貴公が造ったものでお間違いないか」
「ああ、某もまったく、同じことを伺おうとしていた次第でございます。その背に負いたる、白虎の牙より鋭かろう矛は、貴公が造ったものでしょうな」
両氏は、我先に傑作の製作者を確かめ合おうとしあったわけだが、すぐに、共に、先に名乗ることもしなかった不義を恥じ合い、笑い合った。
「失敬。つい、傑作を前に気がはやってしまいました。某、江縫と申す者でございまする」
「こちらも失敬。同様に、心奪われた次第でした。某は画福と申しまする」
名乗ったあと、これも互いに示し合わせたように見えるほど、手早く背負っていた傑作を降ろし、手の内に携え合った。
ここでまず、画福氏から江縫氏に尋ねた。
「改めて、立派な矛だ。某は主に防具の鍛冶を得意とするが、ここまでの威容を放つ矛は見たことがない。もし名があるなら、教えていただきたい」
江縫氏は礼儀を失わないよう丁重な言葉遣いのまま、しかし目にだけは挑むような光を燃やし、その矛を見せつける。
「では、畏れ多くも、この矛について語らせていただきます。いやまさにこれこそが、某の鍛冶師としてのすべてを注ぎ造り上げた、至極の一振り。この世のすべての矛に勝ると信じるがこそ、名はつけず、ただ〝矛〟と呼んでおりまする」
江縫氏は仁王立ちのまま、掲げた矛をぐるんと頭上で回した。
まるで、空が揺れるような風切り音が鳴った。馬身ひとつも離れていない距離ゆえ、矛先が画福氏の目の前を掠めるのだったが、彼は微動だにせず、ただじっと切っ先が風を切るさまを眺めていた。
それから、画福氏もようやくにやりと笑った。
「これは御見それしました。この矛ならば、牛体も骨ごと真っ二つに断てるどころか、龍の首すら落としてしまいそうな……」
賛辞を送りつつ、しかし目の中には滾るように炎が燃えていた。矜持の炎である。
「であればこそ、我が盾の威容も示させていただきたい。そして貴公の矛こそ、我が盾が全霊を示す、恰好の相手と言わざるを得ますまい」
「ははあ、その心は」
「この盾もまた、猛将たちのあらゆる渾身の一撃どころか、千の投石と、万の矢を受けても、傷ひとつつかなかった、某の生涯をかけた一作にございます。そしてこれこそ奇遇。名は貴公と同じ理由にて、〝盾〟とした」
画福氏は口元の笑みを湛えたまま、静かに腰を落とし、盾を構えた。
「我が盾ならば、全力を受け止められまする。どうぞ一思いに、殺す気で」
「言いましたな」
この一瞬、ふたりは互いに礼節と敬意を保ちながら、それ以上に一介の漢として、殺意に似た情熱を燃やし合った。
「しかし、理解はできる。同じ生業ゆえに。故、加減はできませぬ」
「当然のこと」
江縫氏もまた、鬼の気迫を湛えた微笑を浮かべながら、矛を天へと掲げた。
丘に吹いていた強い風が止み、一瞬、天啓のような静寂が訪れた。
刹那。
「覇っ」
雷鳴より早く、振り下ろされた矛。
千里に響き渡るような、鋼鉄音がけたたましく轟いたのち。
また柔く風は吹き始め、衝撃に舞い上がった砂塵が、流れ消えていった。
「はは」
「そうか、そうか」
ふたりの、かすかに震えた笑い声が重なった。
画福氏の体に傷がつくことはなかった。盾は矛を防いだのである。
しかしそれは、画福氏の勝利を意味しなかった。
両雄、それぞれの武器を引き離す。
鍛冶師として研ぎ澄まされた感覚が、激突のあとに、冷たい汗を流させていた。
ぶつかり合った矛と盾の一点に、それぞれ、小さな亀裂が刻まれていた。
ふたりが地面に落とした、汗一滴ずつ。
その後、茫然と高揚が入り混じった呟きが、また重なる。
「我が矛が、砕けぬものとは」
「我が盾が、防げぬものとは」
共に上げた視線が、言葉よりも早く心の内を明かしていた。
ふたりはこのたった一合の撃ちあいで、互いが同格の求道者であることを理解した。
無二の盟友とも並ぶような間柄に、この一瞬でなり果てたのである。
「問う。江縫氏はどこの国から参られたのか。これほどの矛造りの腕、いずこかの王室ですか、あるいは、勇将のお抱えか」
それはあまりにも唐突で、互いを知るために必要な語らいを、二、三刻ほど飛ばしたかのような質問であったが、無論、江縫氏の方は単純明快で好ましいと思いこそすれ、無礼だとは考えなかった。
ふたりに友情を育む時間はもう不要だった。江縫氏は首を振った。
「いえ、ついぞ先日まで、東国の王室にて、傘下の将に武器を授ける職を賜っていましたが、どうにも、蛮勇を誇る王との折り合いが悪く。武器とは、国防のために備えるべきものと考えるのが、某の信条にございます。それを人殺しの道具としか捉えぬ王と、少しばかり、口論になった結果、命を狙われ追われる身となりました。幸運にも、良き友人であった智将に逃亡の手筈を整えていただき、今こうして、流浪の身であります」
憂いを帯びて目を伏せる江縫氏に、画福氏もまた、深く感じ入った。運命の数奇さに、目を細める。
「これはなんという巡り合いか。某も似たような境遇にございまする。防具とは、尊きものを守るためにあるべきというのが、我が信条にございます。それは命であり、家族であり、国であるはずだ。しかし、某の仕えていた王は徒に防具を求め、これ備えは万端と、隣国、あるいは遠方の異郷の民のもとへと、攻め込むばかり。仕えた縁も、暮らした恩もあれど、もはや道は違えました。江縫氏と同様、馴染の兵卒達に協力を貰い、こうして落ち延びたわけでございます。しばし小村等に身を隠しつつ、遠方遠国をあてもなく尋ねてみようと思っておりました中で、こんな場所で、江縫氏のような御仁と巡り合いましたのは、もはや天運としか言い様がありますまい」
そこでふたりは一度黙り合った。
その静寂は、予感を呼び起こすものであった。まるで、大波が立つ前の一瞬の凪のような。
ふたりは互いの存在に目を向け続けていた。
共に、同じ言葉を胸に抱えていたことが、語らずとも共感し合えた。
その言葉は互いを知って半刻も経たないうちに、交わされるような言葉では本来ない。けれど、先ほど打ちあったあのたった一合が、ふたりに足りない時間と語らいの、すべてを埋め合わせて、余りあった。
口火を切ったのは、江縫氏だった。
「まさに。某も同様、我らの出会いは、天の思し召しとしか思えませぬ。──いかがでしょう、我らこれより旅路を共にし、どこでもいい、鍛冶を行うに十分な場所が見つかれば、そこで互いの技巧を教え交わし合うというのは」
画福氏はカッと目を見開いて、ぐっと鼻から息を吸い、その胸を張った。
そして、静かに息を吐いたのち、画福氏は続ける。
「まさしく、同じ思いでした。常に考えていたのです。武器の本懐とは、強者を暴君に仕立てあげることではなく、仁者を英雄に仕立てあげることにあると。大きな武力を正しく扱える者こそが一番強ければこそ、太平は成し遂げられるのではないかと。天下一品、唯一無二、完全無欠の武器を造り上げ、仁者に手渡すことができたなら、某のような一介の鍛冶打ちでも、天下泰平の一助となりうるのではないかと」
江縫氏はにっと笑って、その語りに割り込んだ。
「まったくその通りだ。そして、先ほど我らは打ちあい、ひとつの事実を知った。まだどちらの武器も、完全ではなかった」
画福氏もまた呵々と笑う。
「ええ。考えることは、同じですな。我らに足りないものこそ、互いの技巧だ。対極にある、ふたつの究極。それらを重ね合わせればこそ、無欠となるのでしょう。つい今しがた、厭に息巻いた大言壮語を吐いたが、飾らず言えば単純なことです。いい武器を造り、よい人間に託す。その究極を成し遂げたいだけだ」
うむ、と江縫氏も頷く。
「さて、まだ見ぬ天下の傑物は、この世のどこにおりますかな」
「なに。我ら巡り合わされた者同士。天の思し召しもまだ途上のはずだ。抜かりはなく、いずれ巡り合わせてくれることでしょう」
「確かに。おっしゃる通りですな。ならば我ら、来たるときまでに、できることといえば天下の一品を造ることだけだ」
「腕が鳴りますなぁ」
「これからの長き旅のことを思えば、腹も鳴ります」
「ハハ」
江縫氏と画福氏は互いにはもはや、出会って間もなくの礼節の振る舞いをやめ、ただふたりの野心家となり果てていた。
そして江縫氏がふと風の吹く空を見上げれば、まだ日の暮れぬうちから、北極星がよく輝いて見えていた。
「ならばひとまずは、北へ向かいましょう」
画福氏も釣られて空を見上げ、北極星の輝きに見惚れた。
「して、その心は。もしや、あれが天そのものでしょうか」
「いや、大昔、ある仁者も北へ向かったといいます。北の過酷な世界にこそ、熱のある傑物が暮らすはずだ」
「なるほど。異存はない。鉄火場に籠るにも、ちょうどいい気候です」
ふたりはそれだけ言葉を交わし、肩を並べ、迷いなく、一路北へと歩き出した。
そのとき、北極星を射貫くような彗星が空に尾を引いたのであるが、ふたりはもうどちらも前を向いており、気づかなかった。
そして彗星が消えたと同時に、ある一人の快男児が産声を上げたことを知るのは、少し先の話となる。
それから時は流れに、流れに、流れた。
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二千年近い未来のことである。
同じ中国の地にて、ある一人の選手が偉業を成し遂げた。
五つの輪が重なる、平和の祭典でのことだった。
『この決勝戦にて、打っては四安打、投げては完封! 彼は今、世界の頂点にて〝矛盾〟してみせたっ!』
突き上げられるグラブ。駆け寄る仲間。英雄は、奇跡を示して見せた。
〝対極にあるふたつのものを掛け合わせ、完全無欠のひとつを示すこと〟。
それを、太古の中国、天下を太平せし英雄が振るった、天下一品の武器の名に倣った故事成語として、矛盾と呼ぶ。




