依存症外来(2569文字)
ある依存症外来に、一人の中年男が訪れた。
「さて、今日はタバコ依存症の治療に来られたということで、聞いております」
「はい、先生。というのも、会社の健康診断を久々に真面目に受けてみたら、肺が黒すぎる、まるで炭のようだ! と、担当の医者にカンカンに怒られまして。タバコをやめなければ余命十年だぞと脅されるもんですから、怖くなったんです。といっても一日一箱の生活は簡単にやめられず、プロの手を借りるしかあるまいと思って、ここに来た次第です」
はにかんだ男の歯は、ヤニで真っ黒。医者は肺を見ずとも重症具合がよく分かった。しかし、この医者は依存症治療の名医として有名であった。臆せず、男に力強い笑みを向けた。
「よくぞ勇気を持って来てくださいました。ここに来て、私が担当することになったのだから、もう安心です。一緒に禁煙生活を成功させましょう!」
「なんて心強い言葉だ、先生。僕も全力でついていきます。よろしくお願いしますよ!」
男は感銘を受けて、立ち上がって先生の手を握る。医者も立ち上がってそれに応えた。
さっそく治療が始まった。詳しく問診を受けたあと、医者から渡されたものを手にして、男は眉をひそめた。
「先生、ほんとに吸いたくなったとき、このチョコを食べるだけでいいんですか」
「はい、本当にいいんです」
医者が力強く言うものだから、男はしげしげと手の中のチョコを見つめた。男が治療と称して渡されたのは、チョコの入った透明なケースであった。
「それはただのチョコではありません。ほんの少しだけ依存性のある、ニコチンよりはるかに毒性の少ない薬剤を混ぜているのです。シガレットの香りも不味くない程度につけているから、どうです、一粒食べてごらんなさい。タバコを吸いたい気が紛れるはずです」
男はまだ半信半疑であったが、とりあえずと一つ食べてみれば、なるほど、疑問は払しょくされた。そして、先生の薦める意味が分かった。
「確かに味はチョコだが、タバコを吸ったあとのような気分になるぞ。これはいい代替品になるかもしれない」
「そうでしょう、そうでしょう」
医者は満足げだった。
「そのチョコの開発には、製薬会社だけでなく一流ショコラティエも携わりました。依存症の治療において、代替治療は一般的な方法ですが、肝心の味をおろそかにしがちでした。なにぶん、医療・製薬業界だけでは発想がおカタくなって、患者さんの気持ちに寄り添わないからいけない。大事なのは味と、毎日の食べやすさです」
「こりゃ素晴らしい。なんだか私もほんとに禁煙ができる気がしてきました」
男の表情も、うきうきしてきた。
さらには、男には一つの逃げ道も用意された。もしどうしてもタバコを吸いたくなったら、医者に電話してからなら、一本だけ吸ってもいいという。
こういうものは、逃げ道をバッサリ断ってしまうのもよくないと医者は言った。
そして、ひと月後。
「お疲れ様でした。無事、約束どおりひと月経ちましたね。肺の検査の数値もよくなっております」
「ありがとうございます先生。しかし、完全な禁煙とはならなかったな……」
「いえいえ、きっちり約束は守ってくれたではないですか。一本だけ吸いたいなら、電話をする。実際に吸った本数は減ったでしょう。私はそれが嬉しいのです。確実に効果は出ています。では、次のひと月、食べていただくのはこのガムです」
「ガムですか、こいつぁ……」
「ええ、基本はグレープ味のガムなんですが、その成分ではさらに依存性物質を減らし、香りと味には、わずかなタバコのテイストに加え、チョコの風味も混ぜています」
「ほぉ……」
男はそう言われて、もらったガムを食べてみれば、確かにチョコと同様、素晴らしい出来だった。
とびきり美味しいとまではいかないが、毎日食べるのに苦がなくて、気持ちが紛れる味だ。
先生は続ける。
「次はこいつをひと月、吸いたい気持ちの代わりに食べていただきたいんですが、今度どうしてもタバコを吸いたくなったときは、一度チョコを食ってから、私に電話してください。そしたら一本なら吸って構いません」
「ははぁ、なるほど。分かりましたよ先生」
ここまで来たら男にも合点がいったらしい。先生は嬉しそうに頷いた。
仕組みは単純で、どうしてもというときにタバコへの道は残しておくが、どんどん依存先を変えつつ、そこに辿り着くまでの手数を増やしていくのである。
そのうちタバコまで辿り着くのが面倒くさくなって、吸うのを諦めるという寸法だ。
「ひと月前まで信じ切れていなかったけど、今となってはほんとにいける気がしてきました」
「そうでしょうそうでしょう」
そうして、治療は続いた。
このひと月後は、グレープガムから、マスカット味の飴へ。
そのひと月後は、マスカット味の飴から、レモネードへ。
そのまた、ひと月後は……。
「また、ひと月経ちましたね」
「はい、先生」
もう何度も通った診療室では、ともに晴れやかな顔で二人が向かい合っていた。
特に男の顔色などは半年前から見違えるほどよくなって、健康的である。
医者は、感慨深そうに、膝に手をついた。
「ここまでよく頑張ってくれました。さて、次のステップは、もう予想がついていると思いますが……」
そして、医者はおもむろに、机の上に置いてあったペットボトルを一本、男に渡した。
それはスーパーで大量に並べられている、大手企業のミネラルウォーターだった。
「これです。とにかく気持ちが落ち着かなくなったら、水を飲むんです。もちろん、水道水でも、何ら問題ありません。どうしてもというときこそ、またレモネード、飴、ガム、チョコ……と手を出してくれて構いませんが、その手順を踏むうちにもう、きっと気が紛れているはずだ」
男も男で、しんみりと浸るような表情で、水を受け取った。
「ええ、先生。私ももう、毎日の暮らしの中で、タバコについて考えることなんか、本当になくなってしまった。あるのは確かな自信だけですよ。依存症を抜け出したっていうね。ここまで本当に、ありがとうございました」
そう言ってボトルの蓋を開け、美味そうに一口水を飲んでから、ぷはぁと息を吐いた。
そして、きゅっとボトルの蓋を閉めた。
「それで、最後に一つ聞かせてください。ひと月後は、次に何が代わりになるんでしょう。ころころ口にするものが変わるのが、今では楽しみで仕方なくって……」




