フィッシュハンターvsバショウカジキ(4201文字)
魚太郎はフィッシュハンターである。全国各地の珍しい魚を釣り上げることを、生業としている。
今日探しているのは、幻の巨大バショウカジキ。全長六メートルを越そうかという巨体が、この海域で見つかったというのだ。
魚太郎は、自前の小型ボートで、波しぶきを上げながら海面を見渡す。この海域は、知る人ぞ知る〝バショウカジキの楽園〟。回遊魚であるはずの彼らが、やけに好んで姿を現すことで有名だ。だから幻の巨大個体のみならず、二体三体と釣り上げてやろうとしていた。
そんなときであった。
「まっ、まさか!」
魚太郎は目を疑った。コバルトブルーの海面に、悠々と浮かび上がる黒い影。その大きさは魚太郎のボートと遜色ないくらいだ。影はボートも追いつけないような速度で進みながら、だんだんと浮かび上がってくる。ついには巨大な背びれが姿を現した。
「間違いない、やつだ」
魚太郎はその存在感に圧倒されながら、表情に歓喜をにじませた。
「なんてことだ、七メートル、いや、八メートルはあるじゃないか……!」
海水混じりの潮風を全身に浴びるのと同時に、魚太郎の額には汗が浮かび上がる。なんという幸運だろう。こんなにすぐ、やつと出会うとは。しかし、喜ぶばかりでいられないぞ……と緊張感が張り詰める。釣り上げられるだろうか……このボートであの巨体と渡り合えるだろうか……。頭の中の慎重な部分が、不安を叫ぶのだ。それでも、彼のハートは高鳴って止まらなかった。
「絶対に釣り上げてみせるぞ……!」
船のエンジンレバーを慎重に倒し、魚太郎は背びれを追う。バショウカジキを下手に煽らないよう、つかず離れずの距離を保ち続けるのだ。
ここからは長丁場になる。あの巨体が踵を返すタイミング、動きを止めるタイミングを見計らって、釣り糸を投げ込まなければならない。そのためにはずっとやつの泳ぎを観察し、やつ自身の呼吸を掴む必要がある。たとえいくら時間がかかっても、追い続けてみせよう。タイムリミットは船の残り燃料以外にない。
まずはあの巨体の斜め後方、絶妙な位置に船をつけることができた……。
そのときだった。
「む!?」
フィッシュハンターとして研ぎ澄まされた魚太郎の眼が、見逃さなかった。
船の左舷側、あの巨大カジキを追うのと反対側に、浮かび上がる影を見つけたのだ。
それはやはり、バショウカジキ。サイズは二メートル弱で、やや小柄。今日二匹目の出会いだ。
しかし、それだけのことで眼を尖らせる魚太郎ではない。ここにバショウカジキがたくさんいることは、重々承知しているのだ。つまり、あのカジキにもまた特別ななにかを見つけたのだ。
魚太郎は凝視することで、改めて確信した。
新たに現れたカジキは、海面に顔面を出した。
そしてその口元は間違いなく──微笑むように、口角を上げていた。
「び、微笑している。なんだあのカジキは!?」
ビショウするカジキ、ビショウカジキ。そんな個体、聞いたことがない。
いやしかし、ありえないわけではない。海はどこまでも広い。先天的変異で、人間から見て特別な特徴をもつ個体というものは、往々にして生まれる。アルビノや、人面魚なんてのがそうだ。
そしてそういう魚は、得てしてマニアの心を惹きつける。
フィッシュハンターの血が騒いだ。
「あの個体も、ぜひ釣り上げたい。そして隣で寝そべって、満面の笑みで写真を撮りたいぞ」
魚太郎に貧相な考えはなかった。二魚を追って二魚とも得てこそ、優れたフィッシュハンターだ。ひとまずはあの巨大カジキの方を船で追うにしても、次のビショウカジキの方も眼で追って、あとで釣ってやろうという算段をつけた。幸い、ビショウカジキの方も船の進路からそう離れたところに行かなかった。
幸運の潮風は、こちらに吹いている……。あのカジキのように、魚太郎もニヤリと口角を上げた……。
そのときだった。
バシャバシャと、船の後方からあわただしい音が聞こえてくる。左斜め後方からだ。振り返ればなんと、バショウカジキの群れが水面に浮かび上がってきているではないか。
「なっ、なんだあれは!?」
異様な光景だった。まるでトビウオの群れのように、水面を駆けるように、カジキたちが跳ねている。その一体一体を見てみると、非常に小柄だ。どれも体長一メートルくらい。しかし、やけに統率が取れている。まるで、有能なリーダーがいるかのような……。
「む!」
魚太郎の直感は、鋭く、正しかった。魚群の中央に浮かび上がってくるその特徴的な背びれが、眼を惹きつける。
その体長、およそ四メートル。あの巨大カジキに及ばずとも、十分に大きな個体だ。けれどそれより目立つのが、その発達した背びれの付け根。
カジキの背びれは後頭部ぐらいから生えているものだが、どう見ても発達しすぎている。隆々と突き出たこぶのような後頭部から、二股に割れた背びれが伸びる。これもまた先天的変異らしいが……その見た目はまるで、兜だった。
兜を被ったカジキが、大勢の手下を連れて、猛進しているではないか。
「まるで、武将だ……」
魚太郎は感嘆した。その猛々しい泳ぎっぷりは、長いフィッシュハンター人生の中でも見たことがなかった。
まさしく、ブショウカジキ。魚太郎の野心がさらに燃え上がる。あいつもまた、見逃すわけにはならない、魚太郎は決意した。あの雄々しいカジキとも渡り合ってこそ、立派なフィッシュハンターである。
しかし、一方でこうも思い始める。なんなのだこの海域は、と。これほど珍しいカジキばかりが生息しているなんて、どんな仕組みがあるというのか。さしもの魚太郎にも困惑の心が浮かび始めてきていた。しかし、猛る情熱は止められない。常に首を動かし、三体の魚影を眼で追いながら、慎重に船を操る。
そのときだった。
右斜め後方から視線を感じた。それは気配なんかじゃあない。明確に意思を持った、魚太郎という一個人を見つめる視線だ。
ここは沖合。周りには他のボートの姿もない。では誰が……。
寒気を覚えながら振り返れば……いた。そして、やはりというべきか正体はカジキだった。
体長二メートルほど、サイズとしては普通。だが例に漏れず、そいつもまた目を見張るべき奴だった。
いやに下瞼が持ち上がった瞳。ビショウカジキと似ているようで、決定的に違う、わざと引きつらせたように上がった口角。
蔑笑。
そのカジキは、間違いなく魚太郎のことを蔑み、笑っていた。
「なっ……」
──本当に、あの三体を釣り上げられると思っているのか。
──なにがフィッシュハンターだ。野心にばかり煽られ、釣り上げる算段なんて本当はついていないくせに。
──お前は口先だけだ。どのカジキも得られることはない……。
まるで、そんな風な言葉が聞こえてくるようだった。魚太郎を見つめる意地悪な視線が、ありありとそう語っていた。
「カジキ……風情が……!」
魚太郎のプライドに火がついた。俺こそはフィッシュハンター。海と魚へのリスペクトはあれど、決して対等だとは思っていない。俺は捕らえる方で、お前たちは捕らえられる方なのだ。
カジキが俺を蔑むなど、許すまじ。絶対にお前も釣り上げてみせるぞ。そしてお前だけは、捌いて刺身にし、美味しくいただいてみせるのだ。
そう決意して、魚太郎は脳内釣り上げリストの四体目に、ベッショウカジキを加えた。
バショウカジキ、ビショウカジキ、ブショウカジキ、ベッショウカジキ……。
「はっ!」
ここで魚太郎、閃きを得る。そして確信した。
もう一体いるはずだ。狙うべきカジキが、この海域に。
「ボショウカジキがいるはずだ……! しかし、ボショウカジキとはなんだ……?」
魚太郎の胸中で、確信と困惑が交じり合う。
芭蕉、微笑、武将、蔑笑……。どうやらこの海域にはば行の中で一字ずつずれながら、実際にある単語を冠するカジキが存在している。ここまでは間違いない。
けれど、ぼしょうという単語が思いつかない。そんな単語があっただろうか? そして、その単語が思いつけない限りは、どいつがボショウカジキなのかも見分けられない。
「くそっ、ボショウカジキはどこだ……!?」
海面を見渡す。まだあの四体は視界の中にいる。
もしや、あの四体で終わりなのか? いいや、絶対にもう一体いるのだ……。実物としての証拠はなくても、長年のフィッシュハンターとしての勘が、ボショウカジキの存在を確信していた。
岩陰、潮目、船の下……しかし、ありとあらゆる場所を見渡しても、見つからない。
焦るほどに、後方からのベッショウカジキの蔑んだ笑みが、魚太郎を苛ませる。
「くそっ……くそっ……!」
もう、あの巨大カジキだけに専念すべきか。いいや、フィッシュハンターとして、絶対に存在する珍しい魚を、一目見ずに帰るわけにはいかない……!
だが、刻々と船の残り燃料は減っていく。
現実とプライド、噛み合わない二つの中で、魚太郎は必死にもがき続けた。
**
そして、日が暮れた。
「くそっ!」
魚太郎は船の床に拳を叩きつけて、打ちひしがれた。
あれからボショウカジキを探し続けながら、他の四体も常に視界に収めようと奮闘した。けれど、無理な話だったのだ。次第に一体、また一体と姿を見失い始め、ついさっき、最後まで船の近くに留まり続けたベッショウカジキも、姿を消した。
最後の瞬間、奴は一段と下瞼を持ち上げ、鼻で笑うような飛び切りの蔑笑を浮かべた。
フィッシュハンターは……負けたのだ。
「くそぅっ……」
四魚どころか、見えない魚を追い続けたせいで──。
船の残り燃料も残りわずか。魚太郎は港の方へと船を戻していた。
ごぉん……。ごぉん……。
港町の方から、暮れどきを告げる鐘の音が聞こえてくる……。
そのときだった。
ぽちゃんと、船の後方で水音が聞こえた。
魚太郎ははっとして振り返った。
そこには、背びれ。バショウカジキのもので間違いなかった。
しかし、何の変哲もない。サイズも普通、二メートル未満。ただのカジキ……らしかった。
「まさか……な」
最後に、ボショウカジキが現れてくれたのかと思ったのだ。だが、違うようだ。
魚太郎は前に向き直って、エンジンレバーを前に倒した。
あの四体をみすみす逃がしたのだ。もはや、ただのカジキだけでも釣り上げて帰ろうというケチな考えはなかった。潔く敗北は受け入れるべきだと思った。
ごぉん……。ごぉん……。
暮れ行く海に、鐘の音が染み入る。
港へ向かって小さくなっていくボートを、ボショウカジキが静かに見つめていた。




