第8章 スタジアム襲撃 ~その5~
がら空きとなったスタンドの観客席を、王慧琳は何食わぬ顔で闊歩していた。
グラウンドに視線を下ろすと、遠目に紅悠斗の姿を認め気がはやる。
あのような目立つ場所に腰を据えて、何かに集中しており移動する意思は微塵も無さそうだ。
つまり逃げられる心配はない。
これは好機と言えた。
逃げ惑う一般客を装い、歩みを早めようとしたそのとき、
「そこのお嬢さん、おひとりですか?」
忽然と背後から全くの不意打ちで声をかけられたのだ。
まるでネイティブが発したような綺麗な中国語で。
びくっと小さく震えてしまい、王慧琳は青ざめる。
こうも容易く背後を取られ、さして大きくない声が届いてしまう距離まで接近を許してしまったからだ。
香港四天王に気配を感じさせず背中に回り込むとは、一体何者なのだろうか?
「あなたは私のタイプじゃないわ」
少しでも動揺を押さえるため、軽口を叩きながら王慧琳はゆっくりと身を翻す。
そこに立っていたのは、自信に満ちた顔付きをしている少年だった。
「ほう。この旋風の貴公子こと、翠家次期当主である翠瞬では役不足とでも?」
心外そうな面持ちで、瞬は王慧琳を値踏みするような目で見回す。
周囲の取り巻きでは持ちえない大人の雰囲気が瞬は気に入った。
虹七家の次期当主クラスの人間であれば、そのほとんどが語学堪能である。
いつも海外へ出張(という名の戦闘)をしている悠斗はもとより、織姫や茉夏でも複数の言語を操ることが出来た。
例外は、ゆりあくらいのものである。
「あまり趣味ではないが、強引にでも付き合ってもらおうか?」
いつも翠家の次期当主という肩書き目当てで擦り寄ってくる女子に、瞬は飽き飽きしていたところだ。
「強引な男は、嫌われるわよ?」
林徳華のように乱暴な男は、王慧琳の趣味ではないのである。
「常に紳士的に振舞うのも、それはそれで大変なのでね」
口の端を綻ばせながら、瞬は嘯いた。
たまには力づくで女をものにするのも悪くないと考えたのだ。
周朝偉は今回の作戦に甚だ懐疑的だ。
精霊争覇戦を観覧して、ますますその気持ちは強くなっていった。
なぜ林徳華が楽観的でいられるのか、周朝偉はまるで理解できない。
この大会に参加している精霊使い達は、まだ少年少女とはいえ本当に質が高かった。
香港四天王と今回動員した兵力では目的を達成するのは、まず不可能だと周朝偉は勘付いてしまったのである。
もちろん命令とあれば最善を尽くすが、その困難さを思うと頭痛がした。
一歩でも紅悠斗に近付くべく、周囲に誰もいない事を確認しながら慎重に進路を選び、周朝偉は足を進める。
いくつかの通路が合流した広い空間も、人気が皆無なのを確かめたのち、重い足取りながらも歩を進めた。
そう、周りには誰もいないはずだ。
「香港四天王の1人、周朝偉ね?」
それなのに中国語で話しかけられたとき、周朝偉は心臓が口から飛び出るかと思ったほど驚いた。
声は自分の名を告げている。
間違いなく周朝偉を呼び止めたのだ。
「日本語で大丈夫ですよ、蒼茉夏さん」
陸遜からもたらされた防犯カメラの映像で、周朝偉は茉夏のことを知っていた。
その精霊使いとしての実力も。
なるべくなら出会いたくない人物の1人だ。
「そう? じゃあ、お言葉に甘えさせていただくわ」
わざわざ蒼家の情報網を利用するまでもなく、茉夏は香港四天王や東方不敗のことは熟知していた。
それだけ著名な存在という証である。
「東方不敗は、一体何が目的なのかしら?」
ただ何が目的でこのような大規模な襲撃を企てたのか、そこまでは茉夏であっても知る由はない。
「凡庸なるこの身に、偉大なる東方不敗様の英知に及ぶはずがない」
「本当にそう思っているの? 貴重な戦力である香港四天王を敵地に送り込むくりだから、相当な理由があるはずなんだけど?」
周朝偉を見る茉夏の視線が険を帯びた。
香港四天王は使い捨てにできるほど、軽視していい戦力ではない。
ならばそれに見合った目的があって然るべきだと、茉夏は睨んでいた。
「……『王』の力が、よほど恐ろしいとみえる。嘆かわしいことだ」
周朝偉の顔がやや寂寥を帯びたものへと変わる。そこには自嘲の念も籠っていた。
ありていに言ってしまえば、東方不敗は焦っているのだ。
日本という極東の、しかし繁栄している国に火の王と契約を交わした強力な精霊使いが出現したという事実に、東方不敗は猛烈な危機感を抱いた。
実のところ東方不敗本人にとって紅悠斗が危険かというと、必ずしもそうではない。
問題の本質はそこではないのだ。
根本的な原因は、香港四天王を含めた香港の精霊使い達にあった。
それを十分に痛感しているため、周朝偉は自嘲しているのである。
例えば目の前の蒼茉夏などが香港に生まれ出でていたら、この問題はすでに解決していただろう。
「精霊使いの強さは、契約精霊で決まるものではないわ」
香港にとって幸運なことに、茉夏は東方不敗の真の目的に到達しなかった。
あくまで紅悠斗打倒に終始しているように、映ったようだ。
だからといって周朝偉は茉夏を考えの足りない少女とは思わない。
あまりに情報が少な過ぎるため、当然である。
「ええ、全くもって同感ですよ」
周朝偉は茉夏に調子を合わせることにした。
余計な情報をくれてやる必要はないし、茉夏の言うことが身に沁みたせいもある。
己が不甲斐ないばかりに、東方不敗は香港の先行きを案じ余計な犠牲を出す羽目になったのだ。
周朝偉は無性に情けなくなった。




