第18章 満州の地で ~その1~
中華人民共和国、北京市にある紫禁城。
その最深部で玉座についている愛新覚羅劉煌は、やや小太り気味の50代の男から報告を受けていた。
「クリミア半島のロシア編入は時間の問題かと思われます」
男はかいてもいない汗を、ひたすらぬぐう仕草をする。
劉煌を前に、緊張を隠しきれないのだ。
「西方が安定すれば、次にロシアが狙うのは我が国の東北部。ですが……」
「貴公の手に余る事態だと?」
「は。情けない事ですが、非才なる身ではどうして良いかわからず、こうして劉煌様のお力にすがりにきた所存です」
無我夢中で男は平伏し、情けを乞う。
それほどまでに大清帝国の正当後継者を名乗り、かつ漢民族の血を引く劉煌が恐ろしかった。
現在の精霊とは全く別体系の、はるか昔に滅んだと言われる古代精霊を蘇らせ、強大な力を駆使し、中華人民共和国の歴史を裏から操ってきた人物、それが愛新覚羅劉煌だ。
見た目は20代に見えるが、実際の年齢も不明だった。
劉煌は甦らせた複数の古代精霊を配下にくれてやり、一大勢力を築いていたのである。
いつしか、それは影の政府と呼ばれ、時の中華人民共和国の権力者に多大な影響を与えてきた。
それでも文化大革命の時代までは、あくまで対等の立場だったはずである。
偉大なる毛主席は影の政府を時に懐柔し、時に協力を要請するといった立場を貫いた。
その彼が権力の座から退いた時、後継者争いに影の政府の力を借りたのが今日の事態を招いたと言えよう。
あまりにも貸しを多くつくり、あまりにも弱みを握られ、そして古代精霊の力をまざまざと見せつけられた。
軍閥によってバラバラになっている中国軍では、影の政府にとても太刀打ちできない。
いや、例え束になったとしても……。
だから現在の人民の頂点に立つ国家主席である江石平は、無様にも額を床にこすりつけていたのだ。
劉煌の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
いつ、自分の首が挿げ替えられるかもしれない。
せっかく手に入れた権力を、江石平は失いたくないのだ。
それ故、恥ずかしげもなく媚態行動をする。
この国で一度手に入れた権力を失ったら、反対勢力から粛清されるのが通例だった。
江石平自身、幾度も政敵を粛清してきたのだから。
「朕の手の者を差し向けよう」
さほど興味のなさそうな声音で、劉煌は伝える。
無能者と叱責したりはしなかった。
「は、はは! ありがとうございます」
てっきり責任を問われるものとばかり思っていた江石平は、瞬間的に目を丸くするものの、安心して体の力が抜けてしまい、その場に尻もちをついてしまった。
「こ、これは失礼を……」
慌てて江石平は謝罪し、さらに深く頭を垂れる。
自分の部下がこのような醜態を晒したら、決して許さない。
必死で慈悲を乞う。
「うむ。そなたは全人民の頂点たる存在だ。無様な姿を晒さないようにな」
「そのお言葉、胸に刻んでおきます」
「今後も、励むように」
劉煌は江石平を咎めるようなことをせず、紫禁城から送り出した。
別に寛容なわけではない。
これには理由があるからだ。
「あのような男に任せておいて、よろしいのですか?」
今まで脇に無言で控えていた人物が、始めて口を開いた。
あまりに劉煌が手ぬるい応対をしていたことに、疑問が生じたからだ。
「あのような男だからこそ、安心して任せられるのだ、李鴻章よ」
小心者で疑り深く臆病だからこそ、こちらの意のままに操れる。
劉煌は江石平のことを、そのように断じた。
下手に有能な人物が国家主席の座についたら、反旗を翻す恐れがある。
負けるとは思わないが、影の政府はあくまで裏から中華人民共和国を支配するのであって、表舞台に出るのは、あまり好ましくない。
あくまでも現状では、だが。
そのため野心家よりも、権力の維持それ自体が目的となっている江石平のような人物が国家主席の方が、都合が良かった。
「それに、あの程度の男なら、代わりはいくらでもいる」
いつでも首を過ぎ替えられる。
その恐怖が後押しして、さらに江石平に面従腹背を誓わせるだろう。
「そこまで、お考えでしたか」
別段、反駁したりせず素直に李鴻章は引いた。
誰でも務まるのなら、都合の良い人物を据えればいいというのは、非常に納得のできる話だからだ。
「それより、ロシアも懲りないものだな」
「はい、陛下」
中国東北部の遼寧省、吉林省、黒竜江省は1689年のネルチンスク条約以降、常にロシアの標的となっていた。
ロシア唯一の不凍港ウラジオストックがすぐ傍にあるからである。
まだロシアがソ連だった時代に、中ソ国境紛争が起きたのもこの地域だ。
歴史上重要な場所であり、さらに大清帝国に大変縁のある土地だった。
大清帝国の末裔である劉煌としては、決して見過ごせる案件ではない。
「それで、誰を向かわせるのです?」
自分を選んで欲しいという期待を込めて、李鴻章は主に問うた。
「王成徳に行ってもらう」
だが劉煌の答えは、李鴻章の望みを叶えるものではなかった。
配下の都合などを考えて、判断を誤るわけにはいかない。
「義和団に動いてもらうのですか?」
「そうだ。そなたや満州八旗軍を、この程度で動かすわけにはいかん」
結局は国境紛争に過ぎない戦いで、片腕である李鴻章や影の政府の主力たる満州八旗軍を出動するのは、さすがに大袈裟に過ぎる。
李鴻章も劉煌のこの案に、自尊心を満たすことができた。
自分が重要な存在であると、改めて確認したからだ。
「氷の王が相手なら、そなたを遣わしたがな」
劉煌は李鴻章の目を覗き込み、口元を綻ばせた。
だが言われた当人は泡を食う。
「それは、過大評価というものでしょう」
いくら古代精霊の『鳳凰』を授かったとはいえ、楽に勝てる相手ではないのだ。
氷の王の契約者がクリミア半島に差し向けられていて、李鴻章は内心ほっとする。
もちろん命令とあらば、臆することなく立ち向かうし、負けるなどと微塵も考えてはいない。
影の政府は一騎当千の将が集っている中で、李鴻章は劉煌の側近なのだから。
「ロシア軍の将は、確かゴリツィンといったな?」
「はい陛下。ロシア軍極東軍管区の責任者でもあります」
「ならば、その者を亡き者とすれば……」
「我が国の領土に対する圧力は減るでしょう」
李鴻章は冷徹な笑みを浮かべた。
扶清滅洋のスローガンを掲げる義和団なら、影の政府の熱烈なシンパの王成徳ならば期待に応えてくれるはずだ。
王成徳は劉煌に『獬豸』を与えられるほどの実力者である。
氷の王のいないロシア軍に、万が一にも不覚を取るとは考えづらい。
「太平洋に進出するというのは、朕の宿願でもある」
この劉煌の執念が、中国に海洋国家として歩ませているのだ。
すでに東南アジアでは進出が始まっていた。
現在は米軍が撤退したフィリピンに圧力をかけている。
だが、それではあの広大な太平洋まで遠回りだ。
手っ取り早いのは、極東と呼ばれる弓状の列島を手に入れることだった。
籠絡しやすいのは、反日運動の盛んな沖縄と呼ばれている島々である。
かつて琉球王朝として独立しており、貿易の要衝として栄えていた。
そこを手に入れられれば、一気に海洋進出を成し遂げられるのだ。
これまでも江石平に命じて、米軍基地に反対している組織に資金援助させていた。
基地移転に反対の市長が誕生したのも、その資金が大きな役割を果たしている。
着々と、影の政府による工作は進行しているのだ。
「そして世界をアメリカと分け、時間をかけることでやがて追い抜くのですね?」
「その通りだ、李鴻章」
経済成長の著しい中国は、いずれ軍事力でアメリカを追い抜くと予想されていた。
その軍事力を賄うためには、太平洋の豊富な海洋資源が必要となる。
だから海洋国家を目指し、外へ出る政策を打ち出しているのだ。
まずはG2(2つの超大国)として中国とアメリカで世界を分割。
その後、国力で追い抜き覇権を手中に収める。
このような壮大な計画を影の政府は練っていた。
かつて自分達に屈辱を与えた欧米列強を跪かせる日も、そう遠い日のことではない。
そのためにも、ロシアに大人しくしてもらう必要がある。
ロシアと事を構えながらの海洋進出は不可能だ。
今度の国境紛争は、ちょうど良い機会といえよう。
今後、容易く手を出して来れないよう、中国の力を見せつけロシアには大人しくしてもらう。
「ロシアを封じた次は……」
もちろん日本である。
劉煌の瞳に不敵な色が滲んだ。
とりあえず、書けたぶんだけ投稿します。




