外伝 アナスタシア事件 ~その18~
「すまないが精霊レンジャー課の方は、少し考えさせて欲しい。精霊学園の方は、このままだ。杏華もいるし、元の学校に戻っても……」
阿弥も、優も慎二もいない。
その言葉を彰はぐっと飲み込んだ。
「わかりました。色よい返事を、期待して待ちますよ」
「悪いな」
「いえいえ。ところで藍英明は、このままにしておいて良いんですか?」
痛いところを突かれ、というより日南に内心を見透かされ、彰の胸中は穏やかではない。
ホント食えないし、鋭いおっさんだ。
彰は正直に、思う所を述べた。
「いいわけないな」
「では、どうするんです?」
「引きずり出して、阿弥の墓前で土下座させる。別に殺したりはしないさ」
「そうですか」
「なるべく穏便に済ませるよ」
もっとも相手に出方次第では、その限りではない。
藍家が彰の要求に応じる必要など、一片もないのだ。
間違いなく門前払いを喰らうはずだ。
そうなったら、もちろん彰は強硬策を採用するつもりだった。
「そうそう。アナスタシアというのは、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世の娘の名前です。何となく、阿弥さんと重なって見えますね」
いつもの不気味な笑みを浮かべておらず、日南は神妙な面持ちだった。
しかし、彰にとっては最早どうでもいいことだ。
「俺はもう少し、残っていくから」
2度と会えなくなってしまった親友たちのことを偲んで、彰は感傷に浸りたかったのだ。
すっかり夜の帳が下りた浜辺を、とぼとぼ歩く。
「待って、彰」
ナターシャから背中に声を投げられるも、彰は振り返らず足も止めなかった。
完全に腑抜けており、何を言われても耳を素通りしてしまう。
やむなくナターシャは彰の正面に回り込む。
「ごめんなさい。私、あんな事になるなんて……」
唇が震えてしまい、ナターシャは口が上手く回らない。
彰は目を閉じて次の言葉を絞り出した。
「父親の仇がとれて、良かったな」
抑揚のない口調で、異様に冷徹な台詞を言い放った。
瞬時にナターシャの表情がひび割れる。
「阿弥は仇を討てなかった。代わりに俺が、阿弥の無念を晴らす」
彰が憎むべきはナターシャではなく、他にいた。
無論、ナターシャに憤りを感じていたものの、事態の本質を見失ってはいない。
全ての元凶は、阿弥が復讐に走ったのは、藍英明のせいである。
たった1人で藍家に挑む決意を固め、それを察したナターシャは弾かれたように顔を上げた。
「あなた1人で、藍家に勝てると思っているの?」
「思っていない」
素っ気なく、彰は答えた。
数多くのマトリョーシカが攻め込んでも、藍英明まで届かなかったのだ。
藍家は手強い。
特に当主の藍彩花は……。
藍英明を引きずり出せる可能性は、極めて低いだろう。
だが彰は精霊使いとしての力を持っている。
逆転のトライを決めるチャンスはあるはずだ。
ならば勝負すべきだし、しなければならない。
彰は1歩も引く気はなかった。
遡ること数年前に起きた、ロシア国境警備隊の暴走――。
その情報がロシア政府から日本政府に対し、ご丁寧にも渡河地点と予告時間まで添えられて打電があった際、
「何の冗談だ?」
時の日本の内閣の閣僚は誰もがそう思い、一笑に付した。
それでも内閣総理大臣は決断を下さなければならない。
万が一という可能性を考慮したのだ。
できれば冗談で済んで欲しい話だった。
「自衛隊に出動要請を。それと、この情報が確かなら、恐らく北海道での戦いとなる。虹七家にも出てもらう」
総理が決断を下すと、周囲は水を打ったように静まり返った。
「虹七家に、ですか?」
恐る恐る、かつ忌々しげに側近の大臣が伺いを立てる。
自衛隊に要請するのはいい。
しかし虹七家の力は、できるだけ借りたくなかった。
「そうだ。こういった事態に対処させるために、虹七家には特権を与えているのだからな」
政治にまで介入しておきながら、まさか嫌とは言うまい。
総理は断固たる覚悟で、虹七家との交渉にあたる腹積もりだった。
しかし、この出動命令自体がなかなか実行に移されなかった。
日本が攻め込まれるなど、誰もが半信半疑だったのだ。
そのため自衛隊の出動要請に必要な手続きが、大幅にもたついてしまう。
このことが悲劇を生むことになるのだが、平和ボケした国の役人というのは、こんなものだ。
自分がしたことに責任を取らなくていいのだし、国民がどうなろうが知ったことではないのだから。
なかなか命令が行き届かない。
結果として、日本は戦後初めて凄惨な市街戦を経験する破目となったのだ。
自己の保身と目先の利益に終始するしか脳のない、公務員のために。
北方四島を橋頭堡に、ロシア国境警備隊は納沙布岬に上陸した。
上陸中の敵を狙い防衛するのが定石であるのに、銃弾が1発も飛んでこないことに対して、ロシア国境警備隊の兵士たちは拍子抜けしてしまう。
この迎撃の絶好の機会を失したのは、自衛隊への要請に手間取ったせいなのだが、この事件のあと役人は自己弁護に走るのみだった。
「せいぜい派手に暴れてやるさ」
セルゲイ・アレニチェフ准将は精霊使いを軍隊に組み込むことを良しとしない、古いタイプの軍人だった。
それ故、提督の地位にありながら極東軍管区のさらに外れ、モスクワからすれば未開の地と見做されている、北方四島の国境警備隊の統括者などという閑職に追いやられてしまったのだ。
まさに最果ての任地といえた。
左遷などという、生易しいものではない。
「よろしいのですか?」
不安を隠し切れない様子の部下が、翻意するよう促しているのだ。
何の意味も無い戦闘を仕掛けようとしているのだから、止めようとするのは当たり前だった。
「まあ、いいわけないわな」
大胆にセルゲイは破顔し、吐き棄てた。
「な! それはどういう……」
「こんな僻地に飛ばされた時点で、わしらは終わってるんだよ」
ソ連崩壊時における内戦で華々しい戦果をあげ、『ロシアの白鯨』などと持ち上げられた自分が、文字通り島流しの憂き目にあったのだ。
文化の中心地であるヨーロッパから遠く離れた、こんなうらぶれた島に。
惨めさを通り越して、滑稽だった。
「上陸は終わったな?」
「はっ!」
「よし、全軍進め!」
迷うことなくセルゲイは兵を進める。
その進撃が止まったのは、自衛隊と遭遇した根室の市街地だった。
「さて、日本のSelf Defense Forceとやらは、わしの最後の相手として相応しいかの」
もとより生きて帰る気は毛頭ない。
命が惜しければ、このような暴挙をセルゲイは起こさなかった。
――自分を虚仮にしてくれた政府と軍を少しでも苦しませる。
巻き込んでしまった兵士たちには気の毒だが、セルゲイはたったそれだけのために、国境警備隊を動かしたのだった。
砲弾が着弾し、家屋が一瞬で吹き飛ばされる。
つい先ほどまで屋根の下で平和に暮らしていた家族は、全員予想だにしえなかった死を迎えた。
人の死というものは、かくも呆気ないものだ。
根室市民に対しての通達が遅れ、すでに戦場と化してから、異変に気付いた者から自発的に非難を始める有様だった。
逃げ惑う根室市民を、ロシア兵たちは容赦なく射殺していく。
例え女、子供であっても躊躇はない。
戦場において味方以外は敵なのである。
「なぜ、助けにいかないのです!?」
切歯扼腕している藍英明は、自衛隊の指揮官に喰ってかかった。
すぐ目の前で、幼い子供たちが次々に命を落としているのだ。
「出たら死ぬぞ。民間人を助けながら戦闘ができると思うのか?」
英明に言われるまでもなく、本当は指揮官自身が飛び出したかった。
突撃命令を出したかった。
一番憤りを感じているのである。
だが自衛隊の撃った弾で市民を死なせてしまったら、どうなるか?
戦場を、現場を知らない政治家やマスコミが大騒ぎするのが、火を見るより明らかだった。
自衛隊の敵は、目の前の相手だけではなく、背後にもいるのだ。
隊員を様々な敵から守るために、判断ミスは絶対に許されない。
それでも少しずつ陣地を前進させ、自衛隊はロシア軍を押し返そうとしている。
誰もが歯を食い縛りながらの戦いなのだった。
「やめろ!」
しかし堪えきれなくなった英明は、喉が張り裂けんばかりの大音声で怒鳴り、陣地から飛び出してしまう。
「あの馬鹿!」
指揮官は反射的に全軍突撃の命令を出すのを、懸命に自制した。
1人を助けるために、多くの隊員を死なせては指揮官失格だ。
別働隊を迂回させ、敵本体とはすでに交戦中である。
そちらにロシア国境警備隊が兵を集中してくれることを、期待するしかなかった。
戦場に躍り出た英明は、精霊魔法を行使し、水の壁を顕現させる。
雨あられと降りそそぐ銃弾を撥ね退けた。
「自衛隊の陣地はこの先にある。走って!」
小さな少女が自衛隊の陣地に駆けこむまで、英明は防御魔法を展開し続け、その場で盾となる。
この少女は無事に自衛隊に保護され、親戚に引き取られて精霊学園第三分校に通い、太陽の精霊と契約を交わすことになるのだが、それは別の話だった。




