外伝 アナスタシア事件 ~その15~
たかが1人を守るために、次々と人が死んでいく。
なんと滑稽な話だろうか。
それでも5年前に、藍英明が殺した人数には遠く及ばない。
ずいぶんと自分もお人好しだなと、阿弥は思わないでもなかった。
おまけに藍英明は無抵抗の人々を殺戮したのだ。
少なくとも阿弥は攻撃する機会を与えている。
これは大きな違いだ。
それなのに藍英明は処分されない。
これでは、あまりに不公平ではないか!
今、阿弥は復讐を欲しいままにしていた。
この瞬間のために、これまで生きてきたのだ。
現在のところ、阿弥の思惑通りに事態は推移していた。
藍家の人間が1人になったところを、暗殺していった甲斐があったといえるだろう。
もちろん、阿弥の魔手から逃れた者もいた。
その最たる例が藍涼一である。
……いや、最大の誤算は高城彰の精霊使いとしての覚醒だ。
予想の出来ない、いわば不測の事態といえた。
この場に一番現れて欲しくない存在である。
次々に行く手を阻む敵を打倒していき、阿弥はいよいよ藍家の屋敷に侵入しようかという位置までやってきた。
そこへ、一陣の突風が巻き起こる。
「――――っ!」
阿弥の全身が凍りついた。
ゆうに人間の倍は自重のあるマトリョーシカが3体、枯葉のごとく宙を舞っているのだ。
そして、カマイタチでバラバラにされてしまう。
藍家の当主、藍彩花が館の玄関から姿を見せたのだ。
一発の精霊魔法の威力が凄まじく、あっという間に戦いの流れを変えてみせる。
彰も杏華も涼一も、そしてロシア軍人であるナターシャも一般の精霊使いの実力に照らし合わせれば、かなり強い範疇に含まれるだろう。
だが、藍家の当主は次元が違った。
精霊使いではない阿弥の目で見ても、それは明白だ。
「あいつを殺せ!」
それでも、それだからこそ阿弥は命令を下す。
藍家の当主が前線に出張ってくるということは、裏を返せば藍家も後がないということである。
ここを突破すれば、悲願成就にかなり近づくはずだ。
故に残された戦力を惜しみなく彩花にぶつける。
阿弥も銃口を向け、引き金を何度も何度も絞った。
あと1歩なのだ。
ここで絶対に退いてはいけない。
信念では勝てないが、信念を曲げてもいけない。
「くっ……」
阿弥は焦燥が募った。
――倒せない。
マトリョーシカが何体束になろうが、阿弥が何度引き金を絞ろうが、彩花は微塵も揺るがない。
「これが藍家の、虹七家の当主の力なの……?」
自らの無力さを思い知り、阿弥は下唇をキツク噛み締めた。
「もう、おやめなさい」
まるで憐れむような眼差しを、藍家の当主は阿弥に注いだ。
「私も血のつながった者を殺された。冬月阿弥さん、もう十分でしょう?」
「嫌よ! まだ、あなたの息子は罰を受けていないわ」
「あれ以来、英明を敷地の外へは1歩も出していないのよ?」
5年もの間、彩花はずっと英明を藍家の住居に閉じ込めているのだった。
身を切るような思いである。
「それでも、何不自由なく生活しているじゃない! どうして精神病院に収監しないの? どうしてあれだけの人を殺しておいて、罪に問われないのよ!?」
泣きじゃくりながら、阿弥は溜めこんだ思いをぶちまける。
「藍家が、つまりあなたが、精神科医の戸狩や弁護士の若林に圧力をかけたんでしょ! そんなことをしておいて、敷地から1歩も出ていないからって、それがなんだって言うのよ!」
虹七家による日本国政府に対して持っている、隠然たる影響力の弊害は、こんなところにも及んでいた。
今まで藍家の人間を容赦なく殺戮してきた理由が、ここにある。
何も阿弥は藍英明に復讐を果たす障害を取り除くためだけに、藍家の人間を悉く殺してきたのではない。
叶うならば、藍家を根絶やしにしたかったのである。
「……ごめんなさい」
阿弥の悲痛な叫びが、彩花の胸を鷲掴みにした。
それに阿弥の言ったことは事実なのだ。
我が子を思わない親がどこにいる?
彩花も例外ではなかった。
自分の子供を守るためには、どんな事だってする。
それが親というものだろう。
「いまさら……、今さら謝るなあっ!」
だが彩花の謝罪は火に油を注ぐ結果となった。
むしろ阿弥は逆上してしまう。
「今、謝るのなら、どうして、どうして裁判のときにそうしなかったのよ!」
無駄と知りつつも、怒りに任せて阿弥は引き金を絞る。
そうせずにはいられなかった。
母だけの仇ではない。
あの夥しい死者達の仇なのだ。
「うっ……」
彩花は防御魔法を展開せず、銃弾を右肩に受け吹き飛ばされ倒れてしまう。
「あの子は、英明は、もう何年も前から心が壊れているの。どこにいても、一緒なのよ……」
「知らないわよ、そんなこと!」
知ってはいたが、とてもではないが阿弥は同意できない。
死んだ人間は、決して生き返らないからだ。
「お願いします、もう、これ以上、あの子の心を傷付けるのはやめて」
「だから、そんなことは知らないって言ってるでしょ!」
「私を殺しなさい。代わりに英明は見逃して。あの子は、ただ呼吸しているだけの存在なのよ」
膝をついて、彩花は必死に懇願する。
「あなたたち親子は、もともと殺すつもりよ」
阿弥に彩花の言い分を聞き入れるつもりは、毛頭なかった。
ゆっくりと銃口を彩花の頭部に押し付ける。
あとは引き金を絞るだけ……。
だが右手は硬直してしまい、阿弥は苦悶の表情を浮かべる。
すぐ目の前で頭を下げているのは、藍家の当主ではなく我が子を思うただの母親だった。
その姿が、阿弥には自分のことを身を挺して守った母親と、重なって見えてしまう。
「そんな、そんな……」
はらはらと阿弥のつぶらな瞳から、涙がこぼれ落ちる。
何のために自分はこの手を汚したのだ。
あまつさえ大事な親友を巻き込んで死なせてしまった。
ここまで来て決意が鈍ってしまうなど、許される事ではない。
それなのに、どうしても阿弥の右手はいう事を聞いてくれなかった。
ここで仇を討てないと、2度とこんな機会は巡ってこない。
今回が最大にして、最後のチャンスだというのに……。
ただ、無為に時間だけが過ぎていく。
そして、阿弥は復讐を遂げる機会を永遠に失ってしまう。
「母さん、どこだ!?」
彩花のもう1人の息子と、
「涼一、1人で行くな」
「私がサポートするわ」
阿弥の大事な親友2人が駆け付けたのだ。
これにより、さらに戦局が悪くなる。
全てが終わったと悟り、急に阿弥の体から力が抜けた。
じきに3人はここへやってくるだろう。
そして阿弥は正体を知られ、何もかも失うのだ。
かけがえのない、友情でさえも……。
「逃げなさい」
阿弥が予想だにしなかった言葉が、彩花の口から発せられた。
「何を言っているの?」
「高城彰と奥村杏華の2人に、正体を知られたくないのでしょう?」
「でも、もう……」
「早く行きなさい」
藍家の当主は動かせる左手で瞬時に印を結び、精霊魔法で巨大な竜巻を起こす。
辺り一面に砂埃が舞い、阿弥の姿を彰達から覆い隠した。
「今のうちに」
彩花の勧めに無言で頷き、阿弥はマトリョーシカに抱きかかえられながら、戦場となった藍家の邸宅を離脱する。
「どうして邪魔するの? 私の事が好きなら邪魔しないでよ、彰……」
支離滅裂な言い分だとわかっていたが、阿弥は彰のことを恨まずにはいられない。
マトリョーシカのスピードに身を委ねる。
何も考えられない。
阿弥の将来は暗い物と化したのだ。
彰達3人がタクシーで藍家の屋敷に到着したとき、すでにそこは戦場だった。
「体力を温存しておいて正解だったな」
それで彰はタクシーという贅沢をしたのだ。
「先に行く!」
涼一が果敢に戦いの渦中へを身を投じた。
1人では危険と、彰と杏華も追いかける。
マトリョーシカは手強い。
人が何人も横たわっていたが一瞥もせず、彰達は藍家の屋敷を目指した。
そちらから圧倒的な精霊力が感じられ、その人物が1人で戦線を支えている。
恐らく藍家の当主、つまり涼一の母である藍彩花だろう。
涼一の気持ちを思えば、何はさておいても合流すべきだろうと考えた。
だが唐突に、彰達の進路を遮るように竜巻が出現したのだ。
「母さん!」
涼一はこの竜巻の向こうに母がいると直感した。
「これが藍家の、虹七家の当主の力なのか」
一瞬、彰は呼吸するのを忘れてしまった。
数体のマトリョーシカが宙に舞い上げられ、バラバラに切り刻まれる。
――戦って、勝てるだろうか?
何故か、彰はそんな仮定をしてしまう。
考え込んでいるうちに竜巻は勢いを失い、3人は彩花のもとへ急ぐ。
残存しているマトリョーシカは少ない。
殲滅するのも時間の問題だった。
「妙だな」
「どうしたの、彰?」
「これだけの数を繰り出しているなら、命令を出す人間がいるはずだ」
「そういえば、そうね……」
彰の疑惑に、杏華も同調する。
しかし、それらしき人物は見当たらない。
「逃げられたわ」
「母さんが、逃がした……?」
「当主といえど、万能じゃないの!」
烈しい口調で、彩花は涼一を窘める。
「少し疲れたわ。涼一、後をお願い」
英明に対する態度とは違い、突き放すような素っ気のなさだ。
そして彩花はさっさと屋敷に引きこもってしまう。
涼一は硬い表情で、その場に立ち尽くすしかなかった。
「落ち込んでいる場合じゃないぞ、涼一。虹七家御用達の病院とかあるのか?」
まるで気持ちを斟酌せずに、彰は涼一の背中に声を投げた。
「放っておいたら死人が増える。後を任されたのだろう? なら、しっかり自分の役目を果たせ!」
ぼんやりしている暇はないのである。
彰の叱咤激励がきいたのか、涼一は我を取り戻す。
「そうだな、藍家の次期当主としての使命があるな!」
それでなくても、惚れた女が見ているのだ。
いつまでも涼一は凹んではいられなかった。
見違えるようにテキパキと動く。
救急車を手配し、さらに動けるものには負傷者についているように指示を出す。
彰と杏華も倒れている者に声をかけて回った。
すでに息をしていない者もいたが……。
さすが虹七家というべきか、特権階級だからなのかは知らないが、予想以上のスピードで救急車が何台もやってきた。
これで救われる命があるから文句は言えないが、彰はあまりいい気分ではない。
「終わったか」
一段落し、彰は一抹の不安がよぎる。
本当にこれを阿弥が計画したのだろうか?
多くの死体が転がり、よく目を凝らすと銃で撃たれたことが死因となっているものもある。
誰がマトリョーシカを率いていたか、藍家の現当主に確認をとりたかったが、もはや不可能だった。
散々迷った末に彰は携帯を取り出し、阿弥の番号にかけた。
「繋がらないか」
たまたまだ。
たまたま何かの用事で出ることが出来ないのだ。
彰はそう思うことにした。
そして黙って藍家の屋敷を抜け出し、走り出す。
彰は自分の足で阿弥が見つかるまで探すつもりでいた。




