外伝 アナスタシア事件 ~その13~
昼の放課は、学食で昼食を取る。
杏華は言うまでもなく、彰と一緒に学食へ赴く。
すると決まって涼一が尻尾を振ってついてくるのだが……、
「涼一君と、何かあったの?」
今日はいないのだ。
彰と2人きりは嬉しいが、これはこれで杏華は気になってしまう。
「どう説明すればいいかな」
ふうっと、彰は大きな溜め息を吐く。
「もしかして、何かわかったの? 2人して授業をサボっていたし」
「……ああ。どうしてアナスタシアが藍家をねらうのかがな」
意図的に彰は冬月一家のことを伏せた。
杏華に教えて良いものか、迷っているのである。
「それで、どうして彰と涼一君が気まずくなるの?」
そんなに深い意味で杏華は聞いてのではなかった。
どちらかといえば、冗談めかした口調だ。
それなのに、彰には虚無感が漂っている。
「杏華、屋上に行こうか」
彰の誘いに杏華はどきりと胸が跳ねるが、もちろんそんな色気のある話ではないことは理解していた。
屋上に着くまで、いや、着いてからも彰の表情は晴れない。
誰もいないのに用心して屋上の隅まで彰は誘導する。
それだけで杏華は嫌な話が出ると直感した。
「杏華には、全てを聞く権利がある」
これ以上ないくらい真剣な顔で、彰は杏華を見据えた。
「若林弁護士と戸狩精神科医を覚えているか?」
「ええ、あの殺人現場が確か若林弁護士の事務所だったはず」
「そうだ。まずはその若林弁護士と戸狩精神科医の2人が関係している事件から、俺は洗い始めた……」
そして自分が図書室で調べて明らかになった事実を、彰は詳細に語った。
日南はとうの昔に辿り着いていたのだろう。
「…………」
驚きのあまり、杏華は胸が詰まってしまい声が出ない。
しばらく2人の間に沈黙が流れた。
「つ、つまり涼一君のお兄さんのせいで、阿弥のお母さんは亡くなったということ?」
静寂を破ったのは杏華だった。
彰は無言で頷く。
「それで阿弥が……」
「まだそうと決まったわけじゃない!」
半ば以上、自分に言い聞かせるかのように、彰は声を荒げて杏華の言葉を遮った。
信じたくないのだ。
「他の遺族の犯行かもしれない」
むなしい願望だと彰自身、十分に理解していた。
しかし、今はそれにしがみつくしかない。
「彰は……」
とめどなく溢れてくる感情を、杏華は抑えることが出来なかった。
こんなときに不謹慎な、否、こんなときだからこそ、聞かずにはいられない。
「彰は、阿弥のことが好きなの?」
あるいは決定的な別離を、杏華は予感していたのかもしれない。
「ああ。始めて会ったときからだから、いわゆる一目惚れだな」
即答だった。
特に照れたり誤魔化したりせず、彰は淡々と本音を口にする。
「わかってはいたけど、こうもハッキリ言うとはね」
杏華はむっと口をへの字にする。
「あ~あ。フラれちゃったか」
「ん? ……すまん」
「仕方ないわよ。阿弥は可愛いし」
そうは言うものの、杏華の胸はぎゅっと締めつけられる。
こんなにも失恋が辛いとは思わなかった。
「彰! 私たちは、何があっても友達よね?」
「当たり前だ。杏華や阿弥だけじゃなく、優も慎二もな」
彰は頬を綻ばせた。
残念ながら、そこに涼一の席はない。
「ならいいわ。ちゃんと阿弥に告白しなさいよ!」
その結果が芳しいものではないということを杏華は知っていたが、告白しなければ絶対に彰は後悔するはずだ。
「余計なお世話だ」
彰は自嘲気味な笑みを浮かべた。
彰も杏華も5人で過ごした日々がとても遠く、懐かしく感じられた。
アナスタシアによる、いや、阿弥による本格的にして最後の藍家に対する攻勢が行われようとしていた。
目的はもちろん、藍英明の殺害である。
温存していたマトリョーシカを全て投入する予定だ。
藍家の邸宅で手厚く保護されている、藍英明に母親を奪われた復讐を果たす。
阿弥の決意は固かった。
「あれだけ人を殺しておいて罪にも問われず、精神病院にも収監されず、家族に守られているなんて、絶対に許せない!」
なるべくなら、自らの手で鉄槌を下したい。
カバンの中に隠してあったサイレンサー付きの拳銃を取り出し、阿弥は慣れた手つきでセーフティを解除した。
毎日の手入れを欠かしたことは1度もない。
アナスタシアという組織がまだ健在だったときに、構成員に扱いを習ったのだ。
どうも阿弥は筋が良いらしい。
アナスタシアの構成員と一緒にロシアの精霊使いと戦い、死に追い込んだこともある。
出来れば今回もそうなってもらいたいものだ。
ウラジオストックでの日々を、阿弥は回想する……。
ウラジオストックでアナスタシアに、再び精霊使いを消す依頼が舞い込んだ。
その標的となっている精霊使いに、阿弥は拳銃を乱射し追い込んでいく。
この程度の相手なら、わざわざマトリョーシカを使う必要はない。
精霊使いが防御魔法を展開し銃弾を防いでいる隙に、阿弥は引き金を絞りながら肉迫する。
慌てて精霊使いは精霊魔法を行使しようと試みるが、
「遅いわよ」
するりと背後に回り込み、阿弥はナイフを一閃し喉を掻き切った。
鮮血が迸り、精霊使いの体は地面にどさりと倒れる。
「防御魔法の効果を確認してから印を結び始めるなんて、2流のやることよ」
防御魔法を展開したら、すぐさま次の精霊魔法を用意するのがセオリーだ。
そうしないと防御一辺倒となってしまう。
「見事な手際だな、阿弥」
物陰から現れたのは、ヴィクトルだった。
阿弥の暗殺の師匠でもある。
「3年で、ここまで成長するとは」
まだ15歳になったばかりだがヴィクトルの目には暗殺者として、そして女としても阿弥は花開いているように映った。
「すぐに引き上げるわ」
「わかった。車を回す」
「珍しいわね、手下を引きつれていないなんて」
普段ヴィクトルは運転などしない。
そもそもヴィクトルが迎えに来たという事が、阿弥には引っかかっていた。
「たまには俺も、運転がしたくなることがるのさ」
「いざ、というときに困るものね」
技術は常に磨いていないと錆びついてしまう、という意味で阿弥は言ったのだ。
ヴィクトルの運転は全く問題無く、メルセデスベンツW220はウラジオストックの市街地をスムーズに疾走した。
それは別に構わないのだが、方角が今やアナスタシアの本拠地となっている工場とは違っている。
特にそのことを指摘するのでもなく、阿弥は黙ってシートに身を預け外の景色をぼんやりと眺めていた。
このメルセデスベンツW220というのはSクラスの4代目とか聞いたが、阿弥にはどうでもいい話だった。
ヴィクトルが、そのメルセデスベンツW220を停止させたのは、ウラジオストックで一番豪奢なホテルの入り口である。
ボーイにベンツのキーを渡し、フロントで荷物を預ける。
武器弾薬は巧妙にベンツに隠してあった。
そして案内された部屋は最上階のスイートルームだ。
「ちょうどいいわ。シャワー浴びてくる」
常に阿弥は下着を携帯していた。
アナスタシアの活動で兵器工場に戻れないことも、多々あったのだ。
シャワーを浴びながら、これから何が起こるのか想像しつつ、阿弥はそれを受け入れる気でいた。
嫌がったり、抵抗したりなど考えもしない。
3年だ。
3年も血生臭い世界に身を置けば、情緒に乏しくなってしまう。
阿弥は感情を閉ざした表情でバスローブを羽織り、寝室へ向かった。
「そっちの方が誘っているようだな」
ヴィクトルの方が及び腰になり、声が上ずってしまう。
確かにそういうつもりで、ホテルを予約したのだが。
「さっさと澄ませてしまった方が、後腐れがないわ」
今さら、この程度のことで怯んでそうするというのだ。
阿弥は痛切にそう思う。
――今まで何人この手にかけてきた?
自分が殺した人間の、さらにその家族や恋人の人生を狂わせたのだ。
ヴィクトルに抱かれることなど、どうという事はなかった。
「そうかい」
遠慮なくヴィクトルは阿弥の体をベッドに押し倒し、その上に覆いかぶさる。
阿弥にとって長い、始めての時間。
それが終わりを告げ阿弥が落ち着くのを見計らってから、ヴィクトルは声をかけた。
「アナスタシアを解散する」
「どうして?」
感情の籠っていない声で、阿弥は形式的に訊ねた。
「一生遊んで暮らせるだけの金が手に入ったんだ。こんなことを続ける必要はない」
そのヴィクトルの答えは、阿弥の予想した通りのものだった。
アレクサンドルを殺害して以降、アナスタシアには非合法な依頼が増える一方である。
多いのは、やはりロシアの政治家にとって目障りな精霊使いの始末だが、中には敵対する企業の社長を拉致するというものもあった。
それらの依頼を引き受け、完遂することによって資金力だけなら誇張ではなく、アナスタシアは小国の国家予算規模まで膨らんでいた。
「それが普通よね」
「精霊使いに恨みを抱いていた手下たちも、復讐を果たせた」
「確かに目的を達成して金があるなら、無意味な作業になってしまうわ」
「冬月教授には感謝している。もちろん阿弥にもだ」
手段はどうあれ、過去に自分を虐げ、財産全てを奪った精霊使いをヴィクトルは血祭りに上げることが出来た。
貧しい生活から抜け出し、ベンツを乗り回し、高級ホテルのスイートに宿泊する身分にまでのし上がったのだ。
「ロシアを離れ、カナダ国籍を手に入れ、そこで生活する予定だ」
すでにヴィクトルは手下に命じて手配させてある。
アナスタシアに協力的だったロシアの大物議員が後ろ盾になっていた、というより弱みを握り、さらにはマトリョーシカで脅迫したりして、言う事を聞かせているのだ。
家族を人質に取る念の入りようだった。
提案したのは阿弥の父親である。
ロシア議員の家族はバンクーバーで開放する予定だ。
「阿弥も一緒に来ないか?」
ヴィクトルの発言に、思わず阿弥は目を丸くした。
ほんの一瞬だけ躊躇った後、
「ごめん。私には、まだやることがあるから」
はっきりと阿弥は断った。




