外伝 アナスタシア事件 ~その8~
警察の手によって黄色い規制テープが張られ、阿弥は遠巻きに眺めるのが精々だった。
ここは昨日訪れたばかりの、若林の弁護士事務所だ。
犯人は必ず現場に現れるというが、まさにそれである。
阿弥は捜査の進捗状況が気になって仕方なかった。
最後の標的は非常に警備が厳重な場所に潜んでいる。
マトリョーシカの数をある程度揃えないと、標的まで届かない。
そんな場所にいる。
マトリョーシカの数を揃えるには部品と、何より時間が必要だった。
そして、その時間がどれくらいあるのか?
正確には捜査の手が自分のところまで伸びてくるのに、どれくらいの猶予があるのか?
それを知りたくて、危険を承知の上で様子を探りに来たのだ。
あくまで一般人を装い(もっとも阿弥はただの女子高生にしか見えない)、規制テープを超えることなく現場を窺っていた。
もどかしさを感じるが、まさか規制テープの向こうにいくわけにはいかない。
こればかりは、どうしようもなかった。
そのように阿弥が落胆していると、背後から見知った顔に声をかけられた。
彰達が日南に指定された場所に到着すると、野次馬で大きな人だかりが出来ていた。
「嫌な予感しかしないのだが……」
あの人ごみを掻き分けて進まなければならない、という時点で彰の気が滅入ってくる。
「……帰るか」
半ば本気で彰が踵を返しかけたとき、
「なに言っているのよ!」
鋭い声で呼び止められた。
その声の主は金髪碧眼の美少女でありながら、ロシア軍属所属のナターシャ・サフィーナだ。
「彰。誰よ、この人?」
杏華は不機嫌さを隠そうともしない。
剣呑な目付きでナターシャを見遣る。
「誰なんだ、高城?」
こちらは興味津々といった感じでニヤニヤしている涼一だ。
ホント、鼻が利く奴だ。
「どうして1人で来ないのよ!?」
ナターシャが口を尖らせる。
彰は3人に囲まれ、何だか絶体絶命の窮地に陥った気分だった。
被害妄想なのだろうか?
どうして良いかわからず、周囲に視線をさ迷わせる。
「ん……」
ある人物が目に留まり、彰は光明を見出した。
3人による囲みを強引に抜け出し、その人物に声をかける。
「阿弥!」
野次馬達を押し退けて、彰は規制テープの傍で佇んでいた阿弥のもとまでやってきた。
「彰、どうしたの?」
「ちょっと用事でね。阿弥こそ、どうしてここに?」
「ここは学校の帰り道よ?}
くすりと阿弥は微笑んだ。
彰の心がなごむ。
「そうか、そうだったな」
「ところで、彰の後ろにいる人たちはどちら様なの? もちろん杏華は知ってるけど」
阿弥に指摘されるまでもなく、殺気を感じて彰の背筋は粟立っていた。
肩ごしに振り返ると、ナターシャがにこっと微笑んでいる。
しかし、その碧い瞳は全く笑っていない……。
「わかった! 俺が悪かったよ、ナターシャ」
ナターシャが発するツンドラ気候の寒波に、彰は耐え切れない。
やむなく事情を説明することにした。
「この2人、冬月阿弥と奥村杏華は俺と一緒にマトリョーシカに襲われたんだ。つまり、今回の事件の当事者だよ。だから問題無いだろう? もしかしたら、また襲われるかもしれないし」
「ふむ。あなたの言う事も一理あるわね」
そうは言うものの、ナターシャはまだ納得していない様子だ。
冷たい碧い眼を、今度は涼一に向けた。
「ああ、こいつは……」
「自分は藍涼一、藍家の者です。マトリョーシカには藍家の人間が暗殺されています。自分が調査するようにと、当主から命じられました」
涼一の丁寧な自己紹介と、その内容に彰と杏華は目を瞠る。
普段の女の尻(特に杏華の)を追いかけてばかりの涼一とは、かなりかけ離れた姿だからだ。
さらに藍家から使命を帯びて彰達についてきた、という点も驚かされた。
確かに涼一は藍家の当主候補だから、わからない話ではないのだが。
「そう。やはり藍家も動いているのね」
だが、ナターシャは納得の表情だった。
「はい。彰達が廃工場でマトリョーシカと遭遇したのは全くの偶然ですが、どうもアナスタシアは藍家を標的にしているように見えます。しかし……」
「今回の殺人は藍家の人間ではない者が殺された。それで気になって出向いてきたわけね」
「その通りです」
このとき、ナターシャも涼一も5年前の藍英明の無差別殺人事件に今回の件が関係していることを知らなかった。
2人のこういうやりとりを聞いていると、彰と杏華は自分たちが得体の知れない何かに巻き込まれたのだと実感する。
「彰は意外に顔が広いのね」
ふっと息を吐き、ナターシャは素直に褒めた。
「そういうあなたは何者なの? 日本人じゃないのは見てわかるけど」
杏華は全く物怖じすることなくナターシャに詰問した。
違う意味で、阿弥も非常に気になっている。
「自己紹介がまだだったわね。私はナターシャ・サフィーナ。ロシア軍極東軍管区所属の軍人よ」
ナターシャの自己紹介を聞き、わずかだが阿弥の体が強張った、ように彰には見えた。
気のせいか?
「アナスタシアは少し前までロシアで活動していた。それで私が派遣されたのよ」
「確かウラジオストックの拠点は、もぬけの殻とか言っていたな」
「ええ、彰の言う通りよ。拠点がウラジオストックだけなのに、妙な話だけど。1つしか拠点がないなら、そこを守ろうとするはずなのに」
そのナターシャの疑問に解答を示したのは、阿弥だった。
「ASUの目的は軍と戦うことではなく、1部の精霊使いに対する特権を失くすことだからよ」
「――っ! なるほど、確かにそうかもね。でも、よく気付いたわね」
ナターシャは碧い眼を丸くする。
彰と杏華も戸惑いを隠せない。
「……興味があるからよ」
阿弥は『しまった』という顔をするが、もう遅い。
「もちろん人殺しは許されることじゃないわ。だけど精霊使いに特権を与えたり、過度に保護するべきではないという思想には共感できるの」
「あなたは何か、精霊使いに恨みでもあるのかしら?」
「さあ……?」
ある!
とは言えず、ナターシャの問いに阿弥は目を伏せてしまう。
「それでナターシャ、いつまで待たせるつもりだ?」
彰は無理な話題転換を試みる。
阿弥に対するナターシャの舌鋒を交わしたかったからだ。
「いいわ。みんなの理由には納得できたし、優秀だから。ただしグロい死体があるから、覚悟しておいてね」
ナターシャは4人を引きつれ、弁護士事務所に足を踏み入れた。
室内には血の匂いが充満している。
たまらず彰は顔を顰めるが、阿弥はまるで平気な顔をしていることに違和感を覚えた。
「みなさんお揃いですか」
手招きしながら、日南が片頬を歪めた笑み浮かべた。
この男はいつもこんな感じだ。
「これは、確かにマトリョーシカの仕業だな」
彰には一目死体を見ただけでわかった。
胸に拳大ほどの大きさの穴が空いていたり、体が力任せに引き千切られていたりと、常人の膂力ではこうはならない。
杏華も彰と同意見である。
「やはり、そうですか。いや警察が信用してくれないもので」
確かに日南は信用されなさそうな雰囲気が漂っていた。
「その日本の警察の見解は?」
ナターシャは若干、日本の警察に対して蔑むような口調になった。
実は殺害現場に入るのを警察に見咎められたのだ。
ロシア軍人だと言っても、なかなか信じてもらえず苦労したからである。
「何も掴んでいない、というのが的確ですかねえ。そもそもマトリョーシカというロボットの存在自体、疑っていますから」
日南は苦笑交じりの溜め息を吐いた。
だからこそ、彰達を呼んだのだが。
「つ、使えねえ……」
ぽろっと彰の口を突いて出た言葉に、周囲の捜査員が厳しい目を向けた。
だが彰は屁とも思わない。
事情聴取で子供の言う事だからと、まともに取り合ってくれなかったという、苦い思い出がある。
このとき彰は警察というのは確かに抑止力はあるが、犯罪に巻き込まれたときに大して役に立たないということを学んだ。
いまだに犯人を特定出来ていないのが、その証左である。
何かあったら警察に行けば即解決する、というのは幻想だった。
日南と知り合っていなかったら、どうなっていたことか。
「我々、精霊レンジャー課はアナスタシアの動向を追うことにしましょう」
日南の言う我々とは、やはり自分も入っているんだろうなあ。
やや彰はげんなりした。
「本当にアナスタシアがやったのかしら?」
「あなたは確か冬月さん、でしたか?」
「はい」
「ちょっと外へ出ましょうか。ここでは邪魔になりますので」
片頬を歪めた笑みを浮かべながら、日南は先導した。
確かにここで話し込んでは邪魔だろう。
ただ、何となく警官達に聞かれたくない気配がしたのは彰のせいだろうか……?
規制テープを出て、やや離れた公園まで日南に連れてこられた。
「先ほど言っていましたが冬月さん、なぜアナスタシアの仕業ではないと思ったのですか?」
「それは……、マトリョーシカはアナスタシアだけが独占しているのかなと思って」
「ああ、そういうことですか。あなたは、なかなか鋭いですね」
うんうんと頷き、日南はしきりに感心した。
さすがは冬月教授の……。
「どういうことなんだ?」
彰は意味がわからず、首を捻った。
阿弥とは対照的に、イマイチ頭の回転が悪い。
「アナスタシアからマトリョーシカを入手した人がいるかもしれない、ということよ。私たちは、まさにその現場に出くわしたんじゃない」
「そうか。あれは確かに取引現場だったからな。杏華もよく気付いたな」
杏華でも思い至ったことに、彰は辿り着けないことが少し恥ずかしかった。
「ということは、捜査範囲が大幅に広がってしまいますねえ」
ははは、と日南の片頬を歪めた笑みが乾いたものとなっている。
まあ大変なんだろうなあ。
彰は同情した、がそれだけだった。
「では、これで失礼します。今日は来てくれて助かりましたよ」
軽く会釈して日南は立ち去った。
今日の情報をもとに、やることがたくさんあるのだろう。




