【第七章:ひらがなの達人】
【第七章:ひらがなの達人】
道場に、木刀が床をなぞる乾いた音が響く。
武蔵は四郎が描いた文字の表を食い入るように見つめ、その指先を、いや「剣筋」を動かしていた。
「……これが『く』か。わかるぞ。
上段から相手の武器を左に弾き、その反動を乗せて右下に斬り下げる。その軌跡だな」
「……これが『へ』か。
脇構えから敵刃を撥ね上げ、一気に斬り落とす一文字。……なんだ、簡単ではないか!」
武蔵は豪快に笑った。
取り寄せた染料で色鮮やかに描かれた五十音表。
初学者のはずの老剣客は、その一画一画に宿る「力の流れ」を瞬時に見抜いていく。
『い』の字に差し掛かった時、武蔵の目が爛々と輝いた。
「『い』。伊織の『い』だな。伊織、二刀を構えろ!」
「は、はい!」
「もそっと上だ! 刃を少し傾けて……そう、そこだ! これが『い』の構えよ。
伊織、貴様は二刀流の申し子か!」
「あ」を見つめる武蔵に四郎が慌てて割って入る。
「武蔵様、『あ』は危険です。初学者にはもっと……」
「案ずるな、四郎。儂にはもう『あ』が視えている。
……横凪、そして上段からの真っ向唐竹割り。正眼に戻し、袈裟切り。
……最後は、捻るように刀を収めるのだ!」
武蔵は筆と木刀を交互に操り、に笑い、舞う。
「字は剣だ。線は、刃が相手に必ず届くための『道』。
筆を動かすのも、相手を断つのも、意を伝えるのも……全ては同じことよ!」
「て」の字に差し掛かり、武蔵は一度動きを止めた。
「……横凪にして、跳ねて下へ?
斬り抜けた後に下に跳ねる意味が解せぬな。
……ほう、わかった! これは『無刀』だな。伊織、上段に構えよ!」
裂帛の気合と共に振り下ろされた伊織の木刀。
だが、武蔵は紙一重でかわすと、伊織の利き腕を鷲掴みにし、ひねり倒した。
「……間違いない。関節を極める『蔓技』の軌跡だな」
ひらがなの授業は、いつの間にか「武の深淵」へと逸脱し、加速していく。
武蔵の習得は驚異的だった。
カタカナ、さらには漢字の基本までも、彼は「剣の業」として瞬時にその身に刻んでいく。
「一、二、三か……これはよい。横凪、横凪、また横凪!
おい伊織、貴様今日から『一二三』に改名せぬか!
ならば儂が今すぐ名前を書いてやれるぞ!」
「武蔵様! 伊織の名は変えませぬ!」
「そうか、慣れ親しんだ名は惜しいか」
「違います! 武蔵様が、この宮本伊織の名を必ず『漢字』で書く日が来ると確信したからです。
……遅くとも、桜が三度咲く頃までには」
「……ふっ、ならば『次の桜』までに勝負を決めてやるわ。
そうだ、伊織、面白いものを見せてやろう」
武蔵は道場の掛け軸の前へ進み出ると、一心不乱に筆を走らせた。
一枚、二枚……最初は拙い絵に見えた。
だが、七枚、八枚と重なるにつれ、四郎の目には戦慄が走る。
九枚目、そこにある山水画は、元の掛け軸を凌駕する「命」を宿していた。
「伊織、これが何に見える」
「山水画です。……山水画にしか見えません」
「伊織、これは絵ではない。……これはな……画数の多い『ひらがな』なのだ。すこし気迫を込めたがな。
伊織、これより線が多い文字はあるか?」
「ありません」
「……ふむ、字の目途は立ったな。四郎」
伊織が困惑して声を上げる。
「武蔵様、ご説明を! 何が何だか……」
「良いか伊織。真剣と木刀はほぼ同じだ。
棍棒と十字槍も、小刀と無刀も、相手を制するという一点において、すべての武具は大体同じ。
……大工もそうだ。良い職人と良い武人は、驚くほど共通点が多い。
皆、土台がしっかりしていてな。……本物は、全部同じなのだ」
武蔵は自らの言葉を噛み締めるように呟いた。
「……全部、同じ……」
「……全部、同じ……?」
「おい伊織、儂は今なんと言った!」
「本物は全部同じと言われました!」
その瞬間、道場の空気が爆ぜた。
「わかったぞ! 儂がなぜ『知恵者』と呼ばれたか! 儂は日の本一の武芸者。
徳川殿が泰平の世を創った今、儂はおそらく『本物の死合い』に日々を浸した、最後の世代なのだ。
……儂を継ぐ者は現れぬ。
戦が、死合いが足りぬ世では、武を、死を、極め切ることができぬからだ」
武蔵は四郎を射抜くような目で見据えた。
「ゆえに儂はこの日の本で、いつまでも『唯一無二の知恵者』であり続ける運命なのだ。
……四郎。島原の乱は、いつ起きる」
「いつ起きても……おかしくありません」
「愚か者! ならばなぜ真っ先に、この日の本一の知恵者を頼りに来なんだ!」
「伊織もそう思います」
「案内せよ四郎。……知恵とは抱えておくだけのものではない。飾るだけの武具に価値などないわ。
……知恵で、島原の問題ごと、すべて斬り伏せに行ってやる!」
天照大御神(GM):
「ク、ク、ク……! 見たか四郎!
文字という『文化』と、武蔵という『武の極致』が、時空を超えて一つに結ばれたぞ!
我(GM)のダイスを介在させる隙さえないほど、この因果は強固に結ばれてしもうたわ。
『武』を究めた果てに、すべての理が一つに繋がる……。これぞまさに、万象帰一!
文字を知らぬ暴力の化身が、一文字の『し』から、ついに世界を読み解く『知恵者』へと成ったのじゃ!
さあ、ゆくがよい!
泰平の世に取り残され、牙を研ぎ続けていた最強の怪物が、
今、島原の絶望を『文字通り』斬り伏せにゆくぞ!
えいえい! 天照! 天照!!」




