第五章 リカバー②
「棗、今日はありがとね」
並んで歩きながら僕は言った。短い金髪に黒のジャージ姿の棗と、黒のおかっぱでセーラー服姿の僕は、学校からの帰り道を一緒に歩いていた。
空が赤い。
いつもの景色が赤く染まっていて、いつもと違う世界に来たみたいだった。
「別に。がんばったのはお前だし」
棗は指先でピアスをつつきながら応えた。
今日の作戦は昨日の夜、二人で考えたものだった。
朝はわざと二人で余所余所しく振る舞って、彼女たちがちょっかいを出してきやすいようにして。予想通り校舎裏に呼び出された僕は、棗と共に早めに現場に行った。そこで棗は積み上げられた落ち葉の中に隠れ、カメラのレンズが落ち葉に埋もれないように、かつ、彼女たちに見つからないように注意しながら、僕が脅されるのを撮影してくれていたのだった。
「落ち葉の中、苦しくなかった?」
「平気。あったかかったし。あ、でも、痒かった。今もちょっとこの辺が痒いかもな」
棗は首筋や頭を掻くと、落ち葉の小さな欠片が散った。
「ごめんね、棗」
「あー! もー、だから、もういいって!」
棗は僕を見上げて、口を尖らせた。
「うん……」
「ていうか、謝るのも、感謝するのも俺の方だし」
「え?」
「優月にはたくさん迷惑かけたし、助けてもらったし、友達でいてくれるし……」
「……だから、それももういいよ」
「……うん」
それきり、なんとなくお互いに黙ってしまう。僕は二つの長い影を見ながら小さい声で言った。
「その辺りの件についてはさ、お互いこれ以上はもういいやってことでいいよね……?」
「……そだな」
棗と僕はゆっくりと頷き合った。
「そういえば、リジェクトの今度のライブっていつ?」
「えっとね、次の木曜の……」
棗のくりっとした鳶色の瞳が僕を見た。
この目は、そして、この顔は僕の記憶の中の、絵画教室で出会った女の子にそっくりだった。何故気付かなかったのだろう。纏う雰囲気がガラリと変わってしまったからだろうか。
長い髪をして、女の子らしい服を着ていた棗。
でも、棗の生き方や考え方は、あの頃からガラリと変わってしまった。
昨日の夜、ブランケットを被って震えていた棗は、そのことを話してくれた。あの日以降、棗の身に何が起こったのか。そして、どうして「僕が絵画教室に来なくなる」という願い事をしたのかを。
自分のせいでお母さんは死んだ。棗はそう考えている。
女手一つで育ててくれた、棗にとって最愛のお母さん。誰よりも大切なお母さん。
だから、棗は、母親の死を無かったことにするために、自殺を繰り返して姫神に願い続けてきた。
けれど、何度繰り返しても、お母さんはその度に、少しずつ違う理由で死んでいくのだ。繰り返し、繰り返し。
棗が改変する前の、最初のルートでの出来事はこうだった。
棗と僕が小学校四年生の頃、僕は棗のお母さんの絵画教室に通い始めた。その指導のおかげで、僕はある絵画コンクールで賞をもらったのだという。その授賞式について来てくれた棗のお母さんは、そこである男性と出会うことになった。
棗の実の父親は、彼女が幼稚園に入る前に病気で亡くなっている。以降は女手一つで棗を育ててきたお母さんは、コンクールで出会ったその男性と結婚を前提としたお付き合いをするようになったらしい。何度か棗を含めて食事をしたり、出掛けたりを繰り返し、周囲の了承も得られたことで、棗のお母さんとその男性は結婚した。
「すごく優しかった。お父さんがいたならこんな人だったんだろうなって思った」
棗はその頃の義父のことをそう言った。
けれど、少しずつ、家庭生活はおかしくなっていった。
「俺、本当の父親がいた頃の記憶がほとんどないから、厳しいことを言われても、父親ってそういうものなのかなって」
棗の義父は社会的に地位も財産もある人だった。家族は彼が購入した大きな家に移り住み、お母さんの教室も、その人の後ろ盾により余裕のある経営ができるようになったらしい。
一方で、義父は躾やルールに厳しい人だった。
例えば、食事の最中はテレビを見るなどもっての他、私語も厳禁だった。起床時間就寝時間、挨拶の仕方、勉強全般のこと、遊んでもいい時間。生活の全てにルールを決められ、順守することを要求された。
「母親と二人暮らしのときは大分気楽に過ごしてからさ、すごく窮屈には思ったけど。でも、俺が知らないだけで、世間の父親ってのはそういうものなのかもしれねーと思って諦めたんだ」
でも、そのルールはさらに締め付けられていった。
棗に対しては、お小遣いの使い道を細かく報告させたり、交友関係にも厳しく口を出してきたり。少しでもルールを破ったり、口ごたえをしたりすれば、激しく叱責された。
棗のお母さんに対しても、料理や掃除のちょっとしたことに、いちいち大袈裟に騒ぎ立てていたらしい。
「怒るっていうより罵倒って感じだったな」
一方で、義父は自分自身には甘い人だったようだ。
例えば、夕食は一家でそろって八時にとるのが決まりだった。絵画教室を開いている棗のお母さんにとっては随分たいへんなことだったが、棗も手伝いながら、必死に夕飯の準備と教室の回転をやりくりしていた。たまに教室で保護者の対応などでどうしても間に合わなかったとき、一分でも遅れると義父はお母さんを派手に罵倒した。
でも、義父が仕事や仕事の付き合いで遅れたときには「当然」という顔をして電話一つ寄越さなかった。「一言でも連絡をくれれば良かったのに」とお母さんが苦笑しながら言うと、「お前は私に逆らうのか!」と顔を真っ赤にして何倍もの言葉で言い返された。
「遅くなっちゃったねーって笑い話にできる話なのにな。たぶん、自分の悪いところが自分で見えない人だったんじゃね?」
義父の言動はさらにエスカレートした。
棗のルール違反や口ごたえに対して、殴るようになったのだ。棗のお母さんがいる前では口頭での注意のみだったが、いないところでは頭を叩いたり、腹を蹴ったりしてきたそうだ。
「口で言っても守れない俺が悪いんだってさ」
さすがにこれはおかしいと棗も思い始めた。これはテレビのニュースでやっている「虐待」というものではないのか、と。
「だからさ、ある時、くだらない理由で――お小遣いの使い道は手帳につけてレシート貼れって言われてたんだけど、レシートもらえないお店もあんじゃん? 駄菓子屋とか。で、それがルール違反だって殴られてさ。『これって虐待じゃん』って言ったら、『違う、躾だ』だってさ。『この躾のこと、お母さんや先生に言ったら、お母さんと別れてやる。お母さんが一人で絵画教室を開こうとしても、私の力ですぐ潰してやるからな。お前のせいでお母さんが苦労する羽目になるんだ』って脅してきてさ。何が躾だよ。話が矛盾してんだよ」
でも、結局、棗は口を噤んだ。だから、義父は隠れて棗を殴り続けた。
「小五になってさ、初めて生理が来たんだよな」
棗はお母さんにしか報告しなかったが、義父はいつの間にかそれに感づいていた。父親と二人になったとき、ニヤニヤしながら話題にされたという。気持ち悪くて吐きそうだったと棗は言った。
その年の冬のある日、棗が小学校から帰ってくると、父親は仕事で不在、母親も絵画教室に行っていて家の中には誰もいなかった。
だから棗はリビングのソファに寝転びながら、友達から借りた漫画を読んでいた。漫画を読むことも、ソファに寝転ぶことも義父から禁止されていたから、義父のいぬ間にする息抜きのつもりだった。棗はそのうちウトウトし始めて、漫画を開いたままソファで寝落ちしてしまう。
はっと目が覚めると、義父が傍に立っていたそうだ。
「なんか、変な顔しててさ。ソファに寝てる俺に乗りかかてきて、とにかく、ボコボコに殴られたんだよね」
まだ夕方だったらしい。仕事先で何かあったのか、むしゃくしゃしていたのかもしれない。後先も考えていないようで、顔も体も手加減なしに殴られたのだ。抵抗らしい抵抗もできなかったそうだ。
「そのうちさ、アイツ、変なとこ触りだしたんだ」
殴られた痛みでほとんど動けない棗の体から、義父は洋服を剥いだ。下着まで全部だ。
義父自身も服を脱ぎ、棗の上に圧し掛かった。棗は痛みで意識は朦朧としていたが、全て見えていたし、全て記憶していた。
「痛いし、気持ち悪いし、死ぬかと思った。てか、死んだ方がマシなんじゃねーのかって思った。あの変な息遣いとか、されたこととか、今でも時々思い出して、キモくて死にたくなる」
その時、母親が帰宅した。
棗のお母さんは悲鳴を上げながら義父を引き剥がそうとしたが、逆に義父に殴られて倒れ、テーブルで頭を打った。
義父は尚も義理の娘と行為を続けようとしていた。ふらふらと立ち上がった棗のお母さんは、置物の小さなブロンズ像を手に取った。
「お母さんはアイツの後頭部を置物で殴った。アイツはキレて、今度はお母さんに殴りかかっていった。お母さんはキッチンに逃げて、けど、アイツに捉まって、アイツはお母さんの首を掴んでシンクの辺りにお母さんの頭をガンガンぶつけてた」
棗はすぐに助けに行きたかったけれど、義父に殴られた体はうまく動かなかった。見ていることしかできなかった。
「そしたら、アイツがいきなり胸から血を出してぶっ倒れてさ。母さんが包丁を取り出して刺したみたいだ。でも、母さんも動かなくなってた」
棗のお母さんは頭部外傷、義父は失血によって死んでいた。
「お母さんは死ぬ間際に姫神を呼んで、アイツの血で『今から三年後、棗が笑顔でいる』ってのを願ったんだ。そんで、自分は死んだ」
ブランケットの下の棗は震えていた。
「俺のせいだろ、お母さん死んだの」
違うよと僕が強く否定しても棗はブランケットに包まったまま、震え続けていた。
「多佳子さんも麗司さんもそう言ってくれたけど……。俺があのときお母さんを助けられていたら。というかさ……、そもそも俺がいなければ、あんな事件は起きなかったんだ……!」
義父に付けられた傷は治っても、棗は今度は自分で自分の手首に傷を作るようになっていた。
「姫神を呼びたいってはっきり思っているわけじゃなくても、苦しくなって無意識に切っちゃうときがあった。自分のことも、自分の身体も気持ち悪くて嫌いだし」
棗は髪の毛を切って、女の子らしい格好もしなくなった。
ここまでの話はただの一例だ。
この事件があった後、棗は自殺未遂を繰り返し、小六の時に本当に洒落にならない大量出血をした棗は、姫神に頼んで「あの事件が起きなかった」ことにしてもらった。けれども、少し時期が遅れて、同じような事件が発生してしまう。棗はその新しい記憶と共に、新しい小六の自分となる。
またも、棗は自殺を図り、姫神に願った。お母さんと義父があの時結婚しなかったことにしたいと。そうしたら、一か月遅れで二人は結婚し、結局同じような運命を辿ることになったのだ。
棗は同じことを何度も繰り返した。結婚を邪魔しても、別居させても、うまく行かなかった。
姫神への願い事は、過去の分岐点へ戻れるわけではなく、血を流して祈った時刻に平行移動するだけだ。義父に暴行され、母親が死んでいく記憶だけが、棗の中に幾重にも蓄積されていった。
「で、この前のルートだと、中一の頃に手首を切って死んだんだ。母親と義父が出会わなければよかったんじゃねーのかと思って、だから、優月が絵画教室に来ないことにしてくれって頼んだ。そうすれば、あの授賞式に行かなくて済むって」
ブランケットの中から、深い溜息が聞こえた。
「本当に馬鹿だよ。浅墓って言うのかな、こういうの。今のルートに来たら、優月が酷い状態でいじめられるようになってた」
今のルートの棗は多佳子さんに引き取られ、他のルートよりは躊躇い傷が少なかったようだ。
「小学生の頃から麗司さんがギターを教えてくれて、歌うようになったんだ。そしたら、なんか、嫌なもの吐き出す手段ができたからかな、前よりは切らなくなったみたい」
それでも棗の手首にはいくつもの傷が付いている。
「こんなことになったのが怖くて、なかなか優月に声掛けらんなかった。俺は楽しく歌を歌ってたのに。優月が死ぬ程苦しんでたのに。本当に、本当にごめん……!」
ブランケットに包まった棗は肩を震わせて泣いていた。僕は「もういいんだよ」と言った。棗がブランケットから出てこられるようになるまで、僕は何度でも「もういいんだ」と言い続けた。




