第四章 リピート⑬
麗司さんの帰宅を見送った僕たちは、棗と僕と僕の両親とで夕食をとった。棗と母さんの共作となったハンバーグは、とても美味しくて箸が進んだ。
その楽しい夕食後、お腹にたまったハンバーグが眠気を誘う中、僕たちは睡魔と闘いながら再び絵の制作に取り組んでいた。
「なんか音楽かけようか」
眠気覚ましに、棗の携帯音楽プレイヤーを僕の部屋のスピーカーにつないでランダム再生させた。部屋の中が、洋楽・邦楽問わず、様々な種類のロックで満たされていく。
そこからさらに二時間。
凝り固まった肩を叩きながら時計を見上げると、九時に近い時間を指している。外はもう真っ暗で、カーテンの隙間から半分くらい欠けた月が覗いていた。
「わー、もうこんな時間だよ、棗。これが最後のページだし、あとは僕一人で大丈夫だから、今日はもう……」
そう言って振り返ると、棗はちゃぶ台の上に突っ伏して寝息をたてていた。
ちゃぶ台の上に投げ出された両腕に頭を乗せ、その色白の顔をこちらに向けたまま眠っているのだ。鳶色の瞳を瞼が覆い隠し、さらに長い睫毛が蓋をする。紅椿みたいに赤い唇が僅かに開かれ、規則正しい寝息が漏れているのが聞こえた。さらに崩した足が投げ出されていて……。
まるで子供が昼寝をしているような姿だった。
――無防備に寝てる……。
僕は胸の中に、よくわからないけど少し後ろめたいモヤモヤした気持ちと、同時に眠る棗を見続けることに罪悪感みたいな気持ちが湧く。少し顔が熱くなり始めて、僕は慌てて頭を振った。
「少しでも寝かせてあげておいた方がいいのかな」
僕はクローゼットからブランケットを取り出してきて、棗にかけるために近づいた。
すると、棗の睫毛が震えているのが目に入る。
「う……うう……」
規則正しい寝息が途切れ、棗の唇から呻き声のような音が漏れた。
「棗?」
僕は驚いて、思わず棗の肩を揺すった。
その瞬間。
僕は暗闇の中に落ちた。
この奇妙な空間に招かれたのは何度目だろうか。
浮かんでいるのか、沈んでいるのか、動いているのか、静止しているのか、世界のことも自分自身のこともうまく知覚できない世界。
けれど、何度来ても慣れるということはない。不安定な空間は僕の心を不安にさせ、この世界に住む『それ』を見ていると肌が粟立った。
遥か彼方に『それ』が浮かんでいるのが見えた。いや、『それ』ではなく、姫神と呼ぶべきなのだろうか。長い黒髪と赤い着物が翻り、不気味な橙色の蝶の羽で舞い、軟体動物の気色の悪い触椀が蠢いている。
なぜ、僕はまたここにいるのだろう。姫神は、まだ僕に過去か未来を変えさせようとしているのだろうか。
できるかはわからないけれど、姫神から距離を取れるように僕は体を捻ろうとした。その時、ふと奇妙な感覚を覚えた。
僕と姫神と、その他に誰かがいる。
誰かの息遣いのようなものを感じたのだ。僕は再び姫神に注意を戻す。
姫神は僕の方を見ていなかった。僕に背を向ける形で、この空間にいるもう一人の人物をじっと見つめている様子だった。
姫神の前には誰かがうずくまっていた。短い金髪の、小柄な人。
「棗!」
けれど、僕の発した声は姫神にも棗にも届かなかったようで、二人は僕に気付きもしなかった。姫神の前で、棗は項垂れていた。いつもの溌剌とした雰囲気が消えていた。
「棗!」
僕はもう一度、今度はもっと大きな声が出るように叫んだつもりだった。でも、この世界で僕の声は響いてくれず、棗たちはやはり僕に気が付かない。
姫神は、棗に何をする気なのだろう。
嫌な予感が、スポンジが水を吸うみたいに僕の全身を浸していく。
すぐにでも棗のところに駆け寄りたくて、僕は必死で手足を動かした。けれど、歩いても、走っても、もがいても、少しも棗との間の距離は変わらなかった。焦りばかりが募って、ただでさえ覚束ない手足の動きが、さらにめちゃくちゃになった。つんのめりそうになるのを堪えて、手足を動かす。
「あなたは何を望むのか」
姫神の鈴を転がすような声が響いた。僕の声は届かないのに、棗に向ける姫神の声はすぐ近くでしゃべっているように聞こえるなんて反則じゃないのか。
「もしあなたが過去を変えたいのであれば、あなたはあなた自身の血を私に捧げなさい。あなたが血を取り出すために道具が必要であれば、ここにあるものを使用することができる」
姫神は俯いた棗の手前の空間を指差した。黒い空間がぐにゃりと歪み、姫神の指差した先に細長い物体が出現した。棗の部屋にあったあのカッターだった。
棗は身を竦ませる。その体は震えているように見えた。
「あなたは、あなたのせいで傷つけてしまった友人の人生を修正することができるかもしれない」
姫神の声は優しかった。優しすぎる声が気持ち悪くて反吐が出そうだった。
「やめろ!」
僕は叫んだ。でも、二人は気付かない。僕は尚懸命にもがき続けた。
「あるいは、あなたのせいで死んだあなたの肉親を、今度こそは救うことができるかもしれない」
棗ははっとして顔をあげた。顔面が蒼白だった。鳶色の綺麗な目が見開かれている。
「さあ」
姫神は手前の空間に浮かんだカッターを手に取り、それを棗に無理やり握らせた。棗はガタガタと震えながらカッターの刃先を見ていた。ほとんど泣きそうな、追いつめられた顔だった。
「棗、それを捨てて!」
どうして僕の声は棗に届かないんだ!
どうして僕の手足はこんな時に役に立たないんだ!
どうして棗がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!
棗は震えながらも、キラキラ光るカッターの刃に魅入っている。
「もうやめてよ、棗! 棗がいなくなるのは僕、嫌だよ。麗司さんだって多佳子さんだってそうだよ。みんな棗がいないと幸せになれないんだから!」
僕は鳴らない喉を鳴らせようと、必死で叫んだ。悲しい気持ちと怒りの気持ちとグチャグチャに混ざって、それを吐き出すみたいに精一杯声を張り上げた。
「棗、僕はもっともっと、棗のリジェクトの歌が聴きたいよ!」
棗の視線が一瞬動いた。
「棗、リジェクトの歌を歌うんだよ」
僕は無意識にそう叫んでいた。
棗の弱々しい視線が宙を彷徨い、そして、僕の方を向くと止まった。
「棗!」
僕が見えているのか、僕の声が聞こえているのかはわからない。棗はぼうっとしていて焦点が定まっていないようにも見える。
でも、カッターを握った手は次第に下げられていった。
「棗、歌って!」
棗は薄っすらと口を開いた。弱々しい歌声がその口から漏れだす。それと同時に、握られていたカッターが指の間を滑り、闇の中へと落下した。
棗の歌は、最初はか細くて聞き取りにくく、音程も少しあやしかった。でも、それは次第に太くはっきりしたものに変わっていく。優しいメロディーをうっとりとした表情で歌い上げ、サビでは声を張り上げて激しく捲し立てる。
楽器の装飾がないアカペラでも、棗の歌には迫力があった。聞いているだけで全身を切り裂かれるような痛々しい曲なのに惹きこまれ、背筋がゾワゾワするような快感が生まれる。
歌が熱を帯びると共に、棗の鳶色の瞳に爛々とした輝きが灯っていった。闇の中で一心不乱に歌う棗は、ノーメイクで照明もないのに、ステージ上にいるときと同じような光を放っているように感じられた。
棗の歌声はこの闇の空間を揺らしていた。
「あ……」
姫神は細く潰れた声を洩らすと、次第に動きが鈍くなっていくように見えた。蠢いていた下肢の動きが緩慢になり、羽も動かし辛くなっているようだ。姫神自体のシルエットが、闇に溶けるように次第に薄くなっていく。
「ああ……し、仕方ない……また、会える日を、楽しみにし……」
姫神はついに老婆のように潰れた声で呻き、その輪郭が溶けていく。少女人形の顔も、菊文様の赤い着物も、蝶の羽も、軟体動物の触腕も混ざり合い、ただの染みになり、その染みはどんどん周りの闇と同化して見えなくなる。
棗が歌い終えた時には、姫神の残像は完全に消えていた。
「あ!」
気が付くと、僕は僕の部屋にいた。棗に掛けてあげようと思ったブランケットを手にもったまま、棗の肩を揺すっている。
――今のは……棗の夢?
改めて棗を見ると、やはり、ちゃぶ台の上に頭を置いて眠っている。僕がブランケットを肩に掛けると、その閉じた瞳から涙が一筋零れ落ちた。
そして、花が開くみたいに瞼が上がって、棗の鳶色の瞳が現れたのだ。
「棗……大丈夫?」
「あ、優月……」
棗はしばらくぼうっとした表情で僕を見上げて、そして、涙が次から次へと溢れ出てきた。あっという間に、可哀想なくらい目が真っ赤になってしまう。
「え、え、な、棗……」
僕はどうしていいのかわからなくなって、名前を呼ぶことしかできなかった。棗は服の袖で必死に涙を拭って、けれど、それが間に合わないくらい涙が溢れてくるようだった。棗は僕の掛けたブランケットを頭からすっぽり被ると、ちゃぶ台の上に突っ伏した。
棗の声は聞こえない。嗚咽や泣き声も聞こえない。でも、ブランケット越しにわかるくらい震えていた。
「棗……」
僕は中腰のまま動けなくなってしまった。かける言葉が思い浮かばない。慰める方法も励ます方法も見当がつかなくて、自分が情けなくて泣きたくなる。
「優月……ごめんな。いつも助けてもらってばっか。迷惑かけてばっかだよな、俺」
棗のくぐもって震える声が、ブランケット越しに微かに聞こえた。
「何言ってんの。僕を助けてくれたのは棗じゃん。僕は何もしてないよ」
棗はしばらくの間、口を噤んだ。
部屋には棗のプレイヤーからランダムに曲が流れている。今流れているのは、柔らかく透明な雰囲気の曲だった。ギターとベースとドラムで作られた、優しくて穏やかな音が反響する。ボーカルは沁み渡るような、ウィスパーボイスのようにも聞こえる繊細な歌声で、優しい音が部屋を満たしていた。
「あのさ、優月」
棗はブランケットは被ったままでしゃべった。
「俺はバカみたいに手首を切ってたじゃん。その話聞いてくれる?」
「僕でよければいくらでも聞くよ」
「俺のせいでさ、母さんが死んじゃったんだ」
「うん」
「小五の冬休みに入る直前に起こるんだ……何回か過去を修正してるから、微妙に違う時もあったんだけど、全部が同じ結果になる。その度に俺は手首を切って……バカだよなあ。ハハハ……」
鼻のつまった声で、棗は悲しそうに笑った。
棗はどうして過去を変えたのかを話してくれた。
カーテンの隙間から欠けた月が見守る部屋の中で、棗は頭からブランケットに包まったまま。多分、そうじゃないと話せなかったのだと思う。
僕は棗の傍らに腰掛けて、ブランケットのせいで少しくぐもった棗の声を聞き続けた。
それは悲しくて残酷なお話。
それを聞いて僕は――。




