第四章 リピート⑪
お父さんたちに事情を話した後、僕と棗は僕の部屋にいた。押し付けられた絵の続きを仕上げるためだ。
時間は十一時過ぎくらい。土曜日だからまだ寝ている人もいるだろう。
「カラーの絵はもうやめようと思うんだ」
学校に置いて来てしまった絵は、全て絵具を使ってカラーの絵にしてある。自分で描いてみてわかったけれど、カラーの絵を描くのは予想以上に時間がかかった。だから、残りの部分は漫画のような白黒イラストにしてしまおうと僕は考えていた。
「僕が下書きとペン入れするから、棗には指定したところを黒く塗ってもらったり、消しゴムで下書きを消してもらったりをお願いしたいんだ」
「わかった」
最近あまり使っていなかった黒インクとつけペンを取り出し、棗にも必要な道具を渡す。
僕は自分の机で描き、棗には家の隅に仕舞いこんでいたちゃぶ台を出してきて、そこで作業してもらうことにした。狭い僕の部屋はそれでもう窮屈な状態になってしまうが、仕方ない。
僕と棗は黙ったまま作業を続けた。
僕は必死で下書きをし、人物や背景、小物のアウトラインをペンでなぞる。さらに、黒く塗ってほしいパートに鉛筆でマークを付けて棗に渡す。棗も黙ってそれを受け取り、黙々と作業に没頭していた。
「ふう」
同じ姿勢で描き続けたせいで肩が凝り固まる。僕は小休止して椅子の上で背伸びをした。
視線を移すと棗の横顔が目に入った。
足をぺたんと折り曲げて座り、真剣な表情で僕の絵に色を塗っている。華奢な体にパンキッシュなデザインのシャツと細身のジーンズ、短く刈った金髪とピアスがびっしり並んだ耳――それらは確かに少年的な格好なのだが、その横顔は、やはりどこか優しい曲線を描いているのだ。
鳶色のくりっとした瞳が一心に原稿を見つめている。たまに瞼と長い睫毛がその瞳を隠す。ステージで化粧するためなのか、眉が細くて薄い。額から鼻、唇、顎にかけての横顔を描く曲線が優美で、唇の色は何も塗っていないのだろうに、やや赤みの強い色だった。
なんだか目を逸らすのが勿体ないように感じて、頬杖をついて棗の顔をぼんやりと眺めてしまう。
そうしたら、絵から顔を上げた棗とばっちり視線が合ってしまった。
「え? なに、優月?」
「あ、え、えっと……あの、棗、ありがとね。絵、手伝ってくれて」
僕はいたずらを見つかった子供みたいにドキッとしてしまい、声が上擦った。棗は少し不思議そうに首を傾げて、それから急に神妙な顔付きで下を向いた。
「あのさ、なんで俺のこと怒らないの?」
「なんでって……」
言葉を続けようとして、止まる。
そういえば何故だろう。
棗が手首を切ろうとしたり、それを止めようとして怪我したり、そんな非常事態に追われて、怒るとかそれどころではなかったせいもあると思う。それもあるのだろうけれど、今になっても棗に対する怒りが僕の中にはほとんどないことに気付く。
「だって、俺のせいで優月はいじめられるようになったんだぜ? 俺のせいで、お前は自分で自分の首を切ったのに」
棗は苦しそうに唇を引き結んで僕を見た。綺麗な鳶色の瞳が揺れながら輝いている。
「正直、実感がないし……」
僕はそう言いながら、少し困って頭を掻いた。
「僕が人見知りで弱虫だったから自分で絵画教室に行くのをやめたっていう風にしか思えないし。それが棗の意志だったって言われても、ピンと来ないよ。それより僕が気になるのは……」
僕は少し遠慮がちに口を開いた。
「……なんで棗がそんなことを願ったのかってこと」
棗は一瞬目を見開いて、けれど、すぐに弱々しい表情になって僕から目を逸らした。少し震えているようにも見える。
僕は、そんな棗の姿を見るのは辛かった。なるべく声が優しくなるように気を付けて、僕は言葉を続ける。
「あのさ、僕には、僕が首を切る前、棗自身が改変した前のルートでどんなことがあったかわからないけど、もしかして、僕、棗に何か悪いことしたのかな? だから、もう絵画教室に来てほしくないって願ったのかな?」
棗は大きく首を横に振った。
「違う。違うよ。優月は何も悪くない」
棗は顔を上げて僕を見た。
「俺には……どうしても叶えたいことがあって、そのために何回か死にながら過去を変えて、けどそれがどうしても叶わなくて。一番最後に俺が変えたのが優月のことだったんだ。優月を直接どうこうしたかったわけじゃない。そうすれば、間接的に俺の願いがかなうかもしれないって思って。まさかこんなことになるとは思わなかったんだ。俺が本当に願う事……俺……今はそれを……うまく説明できなくて……」
棗の顔は青白くなっていった。目だけが真っ赤に染まっている。僕は心臓の辺りがぎゅっと握りつぶされるみたいな気持ちになった。
「もういいよ、棗。それ以上言わなくてもいいから」
僕は出来るだけ穏やかに見えるように気を付けながら笑った。
「僕だって言いたくないことたくさんあるし、あったもの。ほら、あいつらに裸の写真撮られたの、超恥かしかったから、超言いたくなかったし! あはははは! だからさ、言いたくないことは言わなくっていいんだよ」
僕が大きな声で笑うと、棗はもっと泣きそうな顔になって頭を下げた。
「優月、ほんとごめん」
「もういいから。絵、描こうよ。ね、棗」
どうして僕はもう少し気の利いた言葉を言ってあげられないのだろう。「本当に大丈夫なんだよ」ということを、「気にしなくていいんだよ」ということを、もっとしっかり伝えたいのに。
「うん……ありがと。ちゃんと話せるようになったら、ちゃんと話すから」
棗は服の袖で少し乱暴に目元を拭ってから作業に戻る。僕も下書きを描くのに戻った。
再び僕の部屋を沈黙が支配する。少し呼吸しづらい空気が重たく感じられた。
――ピンポーン
その重たい雰囲気を打ち破るように鳴り響いたのはうちの呼び鈴で、対応した母さんが中に招き入れたのは麗司さんだった。
「やあ、二人ともがんばってるね。俺も混ぜてもらっていい?」
僕の部屋に顔を出した麗司さんはそう言ってにこりと笑った。
麗司さんが差し入れで持ってきてくれたジュースとお菓子で元気が出た僕たちは、それから気合を入れて作業を続けた。麗司さんも手伝ってくれて、手先の器用な麗司さんは大きな戦力になった。僕が自分で後で貼ろうと思っていたスクリーントーンの処理を任せられたのは大きい。
「疲れたー……」
僕が伸びをすると、麗司さんはスマートフォンを取り出して画面を開いた。
「もうすぐ十二時だね」
「本当ですか?」
時間の過ぎるのを実感できない。驚いて麗司さんのの手元を覗いて、僕はのけ反った。
「なななな、な! ナンデスカ、ソレ!」
ホーム画面の壁紙が何故か僕で、しかも、ロリータファッション姿のやつだったのだ。そういえば不意を突かれて写メを撮られたことがあったのを思い出す。
「可愛いからさ、ついね?」
「ややや、ややめてください!」
「優月くんはこんなに可愛いのに、壁紙にしないと勿体ないよね? 棗?」
クスクス笑いながら麗司さんは棗に同意を求めた。棗は悪戦苦闘しながら筆を滑らせていた絵から顔を上げ、スマホと僕とを見比べた。
「うん。優月は可愛いな」
僕は思わず赤面する。耳の辺りが熱い。でも、棗の強張っていた表情が少し和らいだので、安心する。
「でも、今日の優月は普通に男っぽい格好だから、ちょっとドキッとする」
「え、そ、そう……?」
何気ない風に言った棗の言葉に僕の方がドキドキする。そんな僕を見て、麗司さんがニコニコしながら言う。
「優月くんが男の子の格好だと、なんだか違和感があるよね」
「あー、なるほど。僕もすっかり女の子の格好に慣れちゃったから、僕自身も今の格好が変な感じに……って何言わせるんですか!」
「あははは」
麗司さんが楽しそうに笑った。そうすると、棗も少しだけど、口を開いて笑う。ああ、よかった。
「あ、優月くんの写真コレクション見る? ちゃんとフォルダー作ったからさ」
「いつの間にそんなに撮ってたんですか……」
ロリータやゴシックなドレスを着た僕の、カメラ目線でない写真が麗司さんの指に従って次々と横切っていく。
「こ、これ、盗撮ですよ!」
僕が「ひどいです」と言いながら半泣きになると、麗司さんが悪戯っ子みたいに笑った。棗も表情を崩して麗司さんに似た顔で笑った。恥ずかしかったけど、でも、ほっとした。
そのとき、バン! と音を立てて僕の部屋のドアが開く。
「三人とも楽しそうだねー! お昼持って来たよー! 食べてね」
入ってきたのは母さんだった。お盆の上に山盛りのオニギリとサンドイッチが乗っている。
「すみません。いただきます」
棗と麗司さんが片付けたちゃぶ台の上に母さんがお盆を置く。そのとき、母さんの目が麗司さんのスマートフォンを捉えた。
「あれ? それ、ゆうくんの写真?」
「あ……」
「え……」
「げ……」
母さんが僕の女装写真をガン見している。思わず絶句する僕ら。
「い、いや、こ、これは……!」
僕の背に汗が流れる。だが、てっきりショックを受けるか、怒るかすると思った母さんは、なぜかぱあっと笑顔になったのだ。
「やだ、可愛い! この写真あとで頂戴!」
「え、ええ? い、いいですけど……」
麗司さんが若干戸惑っている。
「実はねえ、この前ゆうくんがセーラー服で帰ってきたとき、もちろん、いじめられてそんなことさせられてるんだったら絶対許さない! って思ったんだけどね、心の底でちょっぴり『可愛すぎる』って思っちゃったんだよねー」
母さんが舌を出しながら笑う。なんなんだ、この人……。。
「ゆうくん、このピンクのワンピース似合いすぎー」
「可愛いですよね」
棗と麗司さんがきゃあきゃあ言いながら僕の写真を眺めている。
「ちょ、ちょっと、母さん!」
「黒いゴシックのドレスもいいわねー」
「本当にお人形さんみたいですよね」
「も、もうやめてよ!」
僕が真っ赤になって叫んでも二人はやめてくれない。
「ぐぐぐ。そ、そんなことするなら、僕にも考えがありますからね!」
僕はパソコンを起動して、とある動画を再生した。
「あ、それ、俺たちの」
僕がライブハウスのフロア後方からビデオカメラで撮ったリジェクトの映像だ。麗司さんに頼まれて、バンドの資料用に撮影したものだった。データはコピーして麗司さんに渡してあるが、自分のパソコンにも保存したままにしていた。
「やだ。カッコいいわ、棗ちゃんも麗司くんも」
「わわわ、ちょっと待っ……!」
目をハートマークにしながら画面に見入る母さんに、顔を赤くして棗が慌てている。麗司さんも少しきまりが悪そうに頭を掻いていた。棗には悪いけれど、使わせてもらった。
「ふふふ。母さんも笑ってられないよ。前に父さんからもらった、母さんの黒歴史がここに……」
僕は机の引き出しから、数枚の写真を取り出した。
「あ……それは……」
「え、これ優月のお母さん……?」
写真は二十歳くらいの母さんのものだ。父さんと出会った頃、母さんが髪を真っ赤に染めていた学生時代のもの。
「すげー」
自分の動画が流れていることも忘れて、棗は写真に見入った。
「父さんと会う前、母さんはパンクスっていうのかな? そういうコミュニティーに所属していたらしいね」
写真に写った長い赤髪の母さんは、黒革のライダースジャケットに皮パンを履いたり、ボロボロにダメージ加工したTシャツやジーパン姿だったり、赤いチェックのミニスカートを履いたり、怪しげなマークの腕章を付けた軍服っぽいトレンチコート姿だったり、なかなかにコアな格好をしていた。
「ふふふ! 母さん、これを出されたらさすがに……」
「懐かしいわー」
「え……?」
てっきり恥ずかしがって弱々しくなると思っていた母さんがニコニコ笑っているので面喰う。
「わたしはこの時代に何も恥じることないわ。今でもとってもいい思い出なんですもの。今は今の好きな格好、この時はこの時の好きな格好をしていただけだもの」
穏やかに母さんは笑う。現在の母さんは、花柄のスカートや女性らしいひらひらしたデザインのものを好んで着ている。母さんが得意の洋裁で拵えたものも多い。
「ははは。俺達も自分の表現方法には自信をもっているからね。別にライブ映像流されても平気だよ」
「そっか。よく考えたら、そうだよな」
棗と麗司さんがニコニコと笑う。
「ええええ! 僕だけじゃん。恥ずかしいの!」
「あら。優月だって、可愛いんだから自信もって堂々としてればいいじゃない」
母さんが穏やかに笑う。ええと。それでいいのだろうか。
「優月のお母さんはパンクロックとか好きだったんすか?」
棗が母さんに問うと、母親は少し首を傾けてニコリと笑う。
「好きだったけど、特別詳しいわけじゃないの。もちろんライブハウスにも通ったし、音楽やってるお友達もいたけど、デザインをやってる人や、お店をやっている人とも仲良くしてたよ。わたしはお洋服が好きだったから、買ってきたお洋服を改造したり、わたしの作った小物や洋服をお店に置いてもらったりもしたわ。楽しかったなー」
「へー。すごいっすね。あ、このライダース、すげーかっこいい」
「それなら今も箪笥の奥にあるよ。見る?」
「え、いいんすか?」
「着ないの勿体無いから、気に入ったなら持って行ってもいいよー」
「や、そんな」
恐縮する棗を、母さんは半ば強引に自室に連れて行った。母さんに手を引かれる棗は困惑しながらも、嬉しそうな表情に見えた。
僕と麗司さんは顔を見合わせ、そして、安心したようにほっと笑顔を洩らす。しばらくして、母さんの部屋から漏れ聞こえてきた、楽しそうにきゃあきゃあ言う二人の声を聞きながら、僕たちはオニギリを頬張り始めた。




