第四章 リピート⑩
手のひらの傷口をティッシュやタオルで押さえながら、僕は麗司さんに近くの休日診療所まで連れて行ってもらった。麗司さんは「二日酔いが吹っ飛んだよ」と言っていたが、さすがに運転はまずいようなので、タクシーに乗せてもらった。
「ねえ優月くん、何があったか聞いてもいいかな?」
タクシーの後部座席で、僕の隣に座った麗司さんは、綺麗な切れ長の瞳を僕に向けた。声のトーンは怒っている感じではなく、いつものように優しい声音だったから、僕は少しほっとしながら話すことができた。
「学校での出来事を棗に相談してたんです。それと、姫神様の話をして……あの、学校の授業で姫神様のことが出てきて、それにちょっと……、その、僕自身が関わったことで気になることがあったので、それを話していて。そしたら棗が……」
「なるほど。姫神ね……そうか……」
麗司さんは物思いにふけるように、僕から視線を外して黙り込んだ。麗司さんは棗の親戚だから姫神様のことは知っているのかもしれない。
それ以降、僕と麗司さんはお互いに無言となる。
僕は車窓を通り過ぎる寒そうな街の風景を眺めながら、棗がどうしてあんなことを願って、なんであんな行動に出たのかを自分なりに考えてみた。
棗は何らかの理由があって、僕があの絵画教室に来なくなるように過去を変えた。その結果、僕のダメさ加減に拍車がかかって、いじめられるようになったということのようだ。
僕がそういう状態になったのは棗にとって想定外だったらしく、僕が首を切った時には姫神を僕と接触させて自殺を取り消させ、さっきに至っては元に戻すために自分の手首まで切ろうとした。
どうして棗は僕にあの絵画教室へ通ってほしくなかったのだろう。もしかして、僕は別の時間軸で棗に何か嫌なことをしたのかな。だから僕との関わりがないようにしたのかな。棗、僕のことが嫌いだったのかな。
考えても答えはわからなかった。
病院に着くとすぐに傷を見てもらえた。医者によると、幸運なことに傷口はそれほど深くなく、縫う必要もないとのことで、簡単な治療を受けただけで済んだ。
会計を待っていると、多佳子さんが連絡してくれたようで、母さんが保険証を持ってやってきた。
「ゆうくん、大丈夫?」
「あ……うん。平気だよ。縫ったりもしてないし」
母さんの悲しそうな表情が胸につき刺さる。心配をかけてばかりで申し訳なかった。
母さんに少し遅れてエントランスから多佳子さんと棗が駆け込んでくる。
「優月くん、怪我は平気?」
「はい。たいしたことはないです」
「優月、ごめん……。優月のお母さんも、ごめんなさい。俺のせいで優月が……怪我を……」
棗は苦しげに目を伏せて、項垂れていた。
僕は、そんな棗を見ていると息苦しいような気持ちになる。
「違うよ、棗のせいじゃないんだ!」
気が付くと、僕はそう言っていた。棗がびっくりしたような顔で僕を見る。
ここで引き返すことはできないと思った。僕は声が震えないように気を付けながら言葉を続けた。
「あ、あははは。よく確認しないでカッターを触ろうとしたら、たまたま刃が出たままだったんだ。ぼうっとしてた僕が悪いんだよ」
「え、違……」
言いかけた棗を遮って、僕は続ける。
「僕、学校のグループ活動の作業を押し付けられちゃって。棗が手伝ってくれてたんだけど、カッターを借りたときに間違ってざっくりいっちゃったんだ。それだけなんだよ」
「優月……」
棗の瞳が不安そうに揺れている。僕は棗に笑って見せて、母さんにも笑顔を向けた。
「ごめんね、母さん。心配かけて」
母さんの瞳も不安げに揺れていた。僕は笑顔を崩さないようにして、じっと母親を見つめ、目を逸らさないように気を付けた。母さんも僕の心の中を推し測るように僕のことを見ていたが、しばらくすると表情を緩めてふわりと笑った。
「そうだったの。なら、仕方ないね」
僕は少し良心の呵責を覚えながら、心の中で安堵の溜息を漏らした。
隣では棗がまた僕に頭を下げる。
「ごめん……優月……」
「もう気にしないで、棗」
項垂れる棗に、僕は笑顔を返した。
「幸い利き腕は怪我しなかったし。僕、これから絵を描かないと。あの人たちに押し付けられた分をなんとかする」
「そんなのしなくても!」
「とにかく仕上げるだけ仕上げて、文句を言われる隙がないようにしたいと思うんだ」
「でもさ」
「大丈夫だから」
僕が強く言うと、棗が折れた。
「そっか……。なら、俺、手伝うよ」
「ありがとう」
多佳子さんが心配そうな顔で棗を見ていたが、棗はもう大丈夫だというように微笑んだ。
「それじゃあ、ウチに行こうか」
頭を下げる多佳子さんと麗司さんに見送られて、僕と棗と母さんは一緒に僕の家に向かった。
僕の家のリビングで、僕と棗は父さんと母さんの前に座っていた。棗は今朝、彼女の家で会ったときのまま、金髪でピアスびっしりな格好だったが、うちの両親とも特に眉をひそめるようなことはしなかった。
「僕、学校でちょっといじめられてたんだ。学校のグループ学習で描ききれない量の絵を押し付けられたり、悪ふざけで女装させられたり」
僕は父さんと母さんに学校でされたことを説明した。横では棗が硬い表情でそれを聞いている。
「僕、どうしてもいじめに反抗することができなくて。でも、棗が結構庇ってくれていたんだ。僕の代わりに言い返してくれたりして。それでだいぶ助かってた。でも、インフルエンザで棗が休んでいるときにまた無茶を言われて、僕、悲しくなって金曜はそれであんな状態で帰ってきちゃって」
父さんと母さんは怖い顔で僕の話を聞いていた。僕はちょっと手と声が震えた。
「学校に言おうか」
父さんは怖い顔のまま、低い声でそう言った。
「え、あ……それは……その、ちょっと、待ってほしいんだ」
「どうしてだい?」
「えーと……」
僕はシャツで隠れた拳を握りしめた。あの写真のことは言えない。言うのが怖かった。
「ゆうくん、まだ何かあるの?」
母さんの心配そうな表情がキリキリと胸を締め付けた。
「学校に言うのは……もう少しだけ待ってほしいんだ」
搾り出すようにそう言った僕を、父さんはじっと見た。僕は唇を噛み締めてそれに耐えた。
「もう少し、考える時間を僕にください」
父さんはしばらく沈黙して、結局、苦い薬を飲み込むような顔をして言った。
「じゃあ、期限を切ろうか。一週間。一週間したらまた状況を聞くよ。それで今と変わらなかったら、学校に父さんと母さんで相談に行く。優月はそのときには全て話す。いいかい?」
父さんの瞳がじっと僕を見つめていた。怖い目だった。
僕は父さんにあまりきつく怒られたことはなくて、だから、今の父さんの顔は今まで僕が見た中で出一番怖い顔だった。
僕は少し泣きたくなったけど、でも、それは恐怖のためではないと思う。僕は奥歯を噛みしめた。
「……うん。そうするよ。ありがとう、父さん。心配かけてごめんね、母さん」
僕がそう言うと、父さんと母さんの表情が少しだけ緩んだ。
「棗ちゃんもそれでいいと思うかい?」
父さんが棗を見る。棗は少し戸惑ったような表情を見せ、けれど、すぐに硬い表情に戻って頷いた。
「俺……自分もそれがいいと思います」
「そう。じゃあ、そうしようか」
父さんが頷くと、母さんが笑った。
「棗ちゃん、ゆうくんを庇ってくれていたんだね。ありがとう」
「でも、自分は全然役に立てなくて……」
「ううん。ゆうくんに味方してくれる子がいるってだけで嬉しいの」
暖かく笑う母さんに、棗は戸惑うような、少し涙ぐむような表情を見せた。少しだけ、手が震えている。
棗は何を思っているのだろう。
棗、君の本心はどこにあるの?




