第四章 リピート⑨
「優月が死んだ時とかに出会ったっていう変な奴はね、優月の予想通り本当に姫神様なんだよ。夢じゃない。実在するんだ」
暗い表情で棗はそう言った。僕は半分信じられなくて、頭を傾ける。
「姫神様が……実在する……?」
「そう。俺はあれが実在するって最初から知ってた。なのに、あの時――校舎裏で優月が目を開けて、何があったか俺に話してくれた時、知らないふりをしたんだ。最初の時間軸で優月が喉を刺したことが単なる夢だってことになれば、全部チャラに出来ると思ってそう言ったんだ」
棗は目を伏せ、呻くように言う。
「俺、大嘘吐きだ。本当、ごめん」
涙が溜まって目の赤くなった棗は、苦しそうな表情で僕を見つめ、そして、頭を下げた。棗の指先がカタカタと震えているように見えて、僕は心臓がきゅっと押し潰されるような気分になった。
「俺の一族はさ、姫神様に所縁があるんだ。代々伝わる話だと、あれは最初に姫菊が連れてきた姫神様と姫菊の魂が溶け合ったものの、なれの果てだって言われてる。俺の家はそれに憑かれているっていうか、祟られているっていうか……」
「研究家の――波川先生が言っていた、雛菊の子孫? 祟りを鎮めるっていう……」
「そうだ。俺の一族の女には、姫神様とコンタクトしやすい人が生まれるんだよ。その女は同時に、姫神様がこの世界に干渉するのを防ぐこともできる」
なんだかとんでもない話になってきて、僕は息を飲む。
「胡散臭い話だけど、聞いて。今まで夢だって嘘ついてたのにアレだけどさ」
棗はそう言って、苦しそうに歪めた顔で僅かに笑った。
「俺のお母さんもそういう人だったんだ。お母さんは物心ついた時から、姫神様の干渉を防ぐ儀式をしていた。姫神様が人間と自由に接触できるようになったら、自殺志望者と殺人志望者が格段に増えるだろうからな。儀式は能力を与えられた女の義務なんだ」
「儀式……?」
儀式というのはなんだろう。よく神社で巫女さんや神主さんがやっているような、祝詞をあげたり、榊を振ったり、ああいうことだろうか。
首を傾げた僕に棗は言う。
「別に格式ばったものじゃないんだ。その女が自分のセンスにしたがって作り上げたものが、姫神様の干渉を妨げる防壁になるってだけ。受け継がれてきた血が、姫神を邪魔するコードというか、パターンというか、そういうものを伝えてるんだって言われてる。俺のお母さんの場合は『絵』がそれだった」
「絵?」
「そう。お母さんが生きてた頃は、お母さんの描いた絵があるせいで姫神様はお母さん以外の人間と接触できなかった。お母さんの許可が出れば接触できるんだけど、許可する理由もないからな」
絵画が神社のお札みたいな効果を発揮するということなのだろうか。不思議な話だ。
「優月はね、実は俺のお母さんと会ったことがあるんだよ」
「え?」
唐突に言われて、僕は目を瞬かせた。
「俺のお母さんは絵描きだけでは食べていけなかったから、絵画教室を開いていたんだ。一度だけ、家に来たろ? 俺ともそのとき会ってるんだよな」
僕の頭の中が急激に回り出して、記憶を掘り起こす。走馬灯のように記憶が甦った。
あの時のことか!
小四の時に母さんに連れて行ってもらった絵画教室。僕に根性がなかったせいで一度きりで行かなくなってしまったあの教室。玄関で出迎えてくれた優しげな先生――あれが棗のお母さんなのか。そして、あの時に会った髪の長い女の子、あれが棗――?
「俺がまだ女の子らしかった頃だよな」
棗は少しだけはにかんで、懐かしむように目を細めた。でも、それはすぐに苦しい表情に打ち消されてしまう。
「あのあとな、ちょっと事件があったんだよ。で、お母さんは死んだ。俺は辛くて、何度か切ったんだ」
「切った?」
棗は僕に向かって自分の左腕を差し出した。棗の右手が左腕を隠す長袖をめくると、シャツの下から雪みたいに白くて細い左手首が現れた。
でも、それはただ白いだけの手首ではなくて、何本も赤や白の線が走っていた。
僕は思わず唾を飲み込む。
「馬鹿だろ。本当に馬鹿なんだ。でも、あの頃は本当に辛くて、苦しくて、死んだ方がマシだと思ってたんだ。スパッと切ると、真っ赤な血が噴き出して、気持ちよかったんだ。悪いものが全部出ていくみたいで、少しだけ楽になれたんだ。大嫌いな自分に傷を付けると、ちょっとだけ満足できたし。多佳子さんにも麗司さんにもすごく怒られたけどさ」
棗は自虐するみたいな笑みを浮かべて、顔を伏せた。
僕はヒリヒリと切りつけられるような痛みを感じながら、棗の左手首を見る。何本もの傷痕が横に走っている白い腕。ピンクに盛り上がったものや、白くなっているもの、赤黒く変色しているものもある。
僕は指先で、そっとそれらの傷に触った。
棗の体が驚いたようにびくっと震える。
「ご、ごめん! 痛かった?」
棗はキョトンとして、そして、少しだけ笑った。
「あはは。痛いわけねえじゃん。もう大丈夫だよ」
その笑顔も、夏場の氷のようにすぐに消えて、再び苦い物を噛むような表情となる。
「『今のルート』では幸いって言っていいのかな。それか、情けないって言った方がいいのかもしれないけど、これだけ切ったけど、死ぬ程ひどい出血になったことはないんだ。多佳子さんたちが助けてくれたから」
「え?」
「『前のルート』だと、最後に切ったのは中一の初めの頃。その時、お前に関することを姫神様にお願いしたんだよ」
「え? ちょっと、待って、え……?」
次々と吐き出される棗の言葉に、僕の理解が追いつかない。
それに、僕は中学二年生で初めて棗と同じクラスになった。だから、中一の頃はほとんど面識がない時期だったはずだ。それに、前のルートというのは……?
「中一の時に、優月が、俺のお母さんの絵画教室に来ない決心をするように頼んだんだ」
「ど、どういうこと?」
「優月は初日に教室に通うかどうしようか悩んでいるように見えたから、咄嗟にそれを思い出して、そんな願い事をしたんだ」
棗はほとんど呻くような声で言った。
「優月はね、本来のルートでいえば、俺のお母さんの教室に入って、絵の才能が開花して、小学校の時代からいろんなコンクールで賞を貰ってたんだ。だから、他の生徒も、優月は少し変わった子だと思っても、すごい奴だって認めてて、いじめなんかなかった」
「え……?」
僕は言葉を失う。
――どういうこと?
――僕がいじめられたのは、棗のせいということ?
――どうしてわざわざそんなことを?
色々な疑問が湧いてきて頭がパニックになりそうだった。
「なあ、優月は姫神様に願い事をした時、どんなことを要求された?」
「え?」
棗の言葉に考えることを中断させられ、僕はたどたどしく返答する。
「血を……過去のことなら自分の血、未来のことなら他人の血って……」
「だろ。俺にとっての前のルートだと、何度か手首を切ったけど、びびって中途半端にしか切れなくて。中一の時にやっと死ねるくらい切れたんだ」
僕は棗を凝視した。それは言葉だけで半身をもがれるくらいきつい言葉だった。
「俺も、お母さんから継いだみたいで、姫神様とコンタクトがとれる人間なんだ。呼び出した姫神様に、俺は都合のいいように過去を変えてもらった」
棗は笑っていた。それは苦しそうで悲しそうな笑顔で、僕は棗から目を離すことが出来なかった。
「俺の場合、俺の作る曲が姫神様を抑えるコードになってんだよ。だから、今は一週間ごとにライブをしている。どうも生歌の場合は一週間くらいしか効力がないみたいなんだ。だから、俺がインフルエンザで寝込んでいるうちに、姫神様がお前と接触を持てたんだろうな」
「棗……どうして?」
「わかってる。いい人のフリしといてこれだもんな。失望しただろ? 優月、俺を恨んでくれよ」
棗は懇願するように言った。
「お前が自分で喉を刺した時も、もう罪悪感でいっぱいになった。だから、姫神様を呼んでお前に接触させたんだ」
あの時のこと?
喉を刺した時、駆けつけてくれたのはやっぱり棗で、棗は全てを見ていたんだ。
「でも、それだけじゃダメだよな。何の解決にもならなかった。だから、落とし前はつけるよ。心配しないで。切るのは慣れてるから。お前にもうちょっとマシな人生をプレゼントするからさ、ちょっと待ってて」
「棗?」
棗は少しおかしな顔で僕に向かって笑ってみせた。焦点が合っておらず、僕に視線を向けているのに、何も見えていないような様子だった。ステージの上にいるときの、幽鬼のような顔だった。
僕は不穏な空気を感じて、椅子から腰を浮かせた。
「俺は辛いせいもあって手首を切ってきたけど、本当は叶えたい願い事があって、そのためでもあったんだ。ビビリだからさ、何度か失敗して。で、ある時死ねた。その血で姫神様に願い事をした。でも、うまくやり直せなくて、次のルートでも同じように切った。何度か死んで、その度に姫神様に過去を変えてもらったけど、結局、どのルートも思うようにならなかった。バカだよな。俺は本当にバカなんだ。でもさ。だからさ、切るのは慣れてるんだよ。だから、大丈夫」
まるで自分に言い聞かせているみたいだった。棗は僕が近づく前に、机の引き出しから何かを取り出した。右手に握られていたのは、カッターだった。
「棗!」
「ねえ優月、お前を自殺するまで追い込んだのは俺なんだ。だから、償わさせて。俺は自分が変えた以外のルートも覚えていられる。お前が自分で首を切ったのも、本当は覚えてたんだ」
キリキリと音を出しながら刃先を出し、棗は自分の手首にあてがった。僕は動くに動けなくなってしまう。
「やめてよ、棗。僕、そんなこと望んでないよ!」
「お前、本当に優しいな。別の時間軸では幸せに笑ってろよ、優月。じゃあな、バイバイ」
棗が手首に刃先を滑らそうと力を込める。
僕の体は咄嗟に動いていた。僕の手はカッターへと伸び、それを握り込んでいた。
「いたっ……!」
「うわ」
真っ赤な鮮血が飛び散る。でも、僕の手が痛みを訴えているから、その血は僕の手のひらから出たものだ。少しだけほっとする。
「放せよ、優月!」
「それは僕の台詞だって!」
棗がカッターを取り戻そうと尚も暴れたので、僕も刃先を握った手の力を抜くことが出来ない。
「多佳子さん、麗司さん、助けて! 棗が、カッターが! 痛い!」
僕は力の限り叫んだ。慌てて部屋に飛び込んできた二人は、一瞬で状況を理解したみたいだ。すぐに棗は取り押さえられた。
棗はしばらく叫んで暴れていたものの、次第に力を無くして泣き始めた。
「大丈夫。もう大丈夫だよ、棗」
多佳子さんが子供みたいに泣き散らす棗を抱きかかえ、頭を撫でた。棗は多佳子さんに抱きついて泣き続けた。
「もうバカなことはしないって約束したのに。バカな子だよ、本当に。ねえ棗」
多佳子さんは小さな子供にするみたいに、棗を優しく抱きしめた。何かの宗教画のように美しい光景だった。
「棗はもう大丈夫。優月くん、とりあえず、傷口を洗っておこうか」
僕は麗司さんに促されて棗の部屋を出た。




