第四章 リピート⑧
ライブハウス・菊之宮デイジーの入っているビルの二階に上がり、呼び鈴を鳴らすと、多佳子さんが笑顔で迎えてくれた。
「あら、いらっしゃい優月くん。随分早いわねえ」
「朝早くにすみません。棗はいますか?」
「おー優月!」
多佳子さんの後ろから顔を出した棗は顔色もよく、笑顔を浮かべていたので、僕は少しほっとした。
「上がんなよ」
「お邪魔します……」
僕は少し緊張しながら棗の家に上がった。
玄関から続く部屋はリビングで、ここを通らないと他の部屋に行けないような構造になっているようだ。リビングは多佳子さんの趣味らしく、クラシックな西欧風のインテリアで整えられている。
さらに、革張りのソファの上には、何かの彫刻みたいなポーズで麗司さんが寝転がっていた。
「やあ、優月くんじゃないか。男の子らしい格好をしても素敵だね」
横たわったまま、いつもの穏やかな笑顔を浮かべる麗司さん。けれど、随分と瞼が重そうに見えた。
「昨日、バンドマンの飲み会で酔いつぶれて終電に乗れなかったのよ。まったく、大学院に通わせてもらってるってのに、情けない子だわね」
多佳子さんは麗司さんを冷たい目で見下ろしながら溜息をつく。麗司さんは珍しく、苦笑いを返すことしかできないようだった。
「そんなアホは放っといてこっちこっち」
棗は一つのドアの前で手招きしていた。
多佳子さんは「飲み物とかは必要なら自分達で用意しなさいね」と言って自室らしき部屋に引き込み、麗司さんは睡魔に襲われたように目を閉じたので、僕は遠慮なく棗の部屋に上がらせてもらった。
棗の自室は、全体的に殺風景な部屋だった。
家具はシンプルなスチール製の机と椅子と本棚、そして、ベッドがあるだけ。飾り気がなく、物自体も少なく、寒々しいくらいだった。
ただ、ギターが置いてある一角だけが違った。スタンドに立てかけられた黒いギターの周囲には、エフェクターやアンプなんかの機材が散乱していて、活気に満ちている。
「座んなよ」
促されて、僕は机の椅子を借りた。棗はベッドに腰掛けていて、僕は椅子を棗の方に向けて座った。
「で? 何があったんだよ」
「うん……」
棗は僕の様子を覗いながら、短く刈った金髪を所在無げに掻いていた。でも、僕に向けられた眼差しは心配そうな、優しい色合いのように見えた。
「あのね……」
話し出そうとして、言葉に詰まってしまう。
何から話していいのか、考えがまとまらない。そもそも、あの奇妙な存在の事なんかを話したら、頭のおかしい奴と思われるんじゃないか。彼女達にされたことを知られたら、一人じゃ何もできない情けない奴と思われるんじゃないか。
恐い気持ちと恥ずかしさと焦りとが、ぐるぐる頭の中で回って喉が動かなくなる。
自分が情けなさ過ぎて唇を噛んでいると、棗が助け船を出してくれた。
「なんでも話してみろよ。別に誰が聞いてるわけでもねーし。笑ったりしないからさ」
ふわりと微笑む棗。優しい顔だった。
僕は覚悟を決める。
小さな声で、少しずつ言葉を吐き出した。
つっかえながら、時々涙ぐみながら、うまく言葉にできないこともあったけど、それでも出来るだけ正直に全てを話した。彼女たちに何を撮られて脅されたのかも、どんなことを言われたのかも、何を押し付けられたのかも、夜中に見た夢のことも、僕の心に生まれた恐ろしい考えも、それを必死で否定したことも、全部話した。
棗は最初、黙って頷きながら聞いていた。だんだんとその顔は赤くなり、怒りに震えているように見えた。
それがいつの間にか蒼白になった。
見る間に色を失って、青白くなっていく。特に、『それ』――あの奇妙な存在の話をした時には。
蒼白になってしまった棗を僕は不思議に思ったが、もしかしたら気持ちの悪い話を聞いていて気分が悪くなったのかもしれないと思い到って、恥かしくなった。
「ごめんね、棗。嫌な話を聞かせて……。情けないね、僕。またあんな変な夢見るなんてさ」
僕が下を向くと、棗は力なく頭を横に振った。
「俺の方こそ、ごめん。俺、偉そうなこと言って、優月が一番苦しいときに何もできなかった。本当にごめん」
「何言ってるんだよ。棗はインフルエンザで苦しんでたんだから、当たり前だよ」
「でも……」
申し訳なさそうにしている棗を見ていると、自分の情けなさ加減が身に沁みてくる。
助けてくれる棗に頼りきりだった上に、こんな顔をさせてしまうなんて、僕は本当にどうしようもない奴だと改めて思った。
「棗は関係ないよ。本当は僕自身でどうにかしなきゃいけないことなんだ。それをわかってなくて、棗とか変な夢とかに頼ろうとした僕が駄目だったんだよ」
なんだろう。こんな風に話しているうちに、少し気持ちが軽くなっていることに気が付いた。
貯めこんでいたものを吐き出せたからだろうか。
「棗がいたから僕は以前より前向きになれたと思う。本当に感謝してるんだよ。ありがとう」
ちょっと格好つけていることは否定しない。でも、嘘はついていないと思う。
「なんか、ちょっと元気が出てきた。僕、どうしたらいいのかなんてよくわからないけど、がんばる。がんばるよ」
僕が笑顔で宣言すると、なぜか棗は眉尻を下げて顔を歪めた。それがものすごく悲しそうな表情だったので、僕は驚いてしまう。
「ど、どうしたの、棗? 僕、何かまずいこと言った……?」
「違う! 違うよ……優月は何も悪くない……」
そう言うと、棗は苦しげな表情で俯いた。
僕がはしゃぎすぎてしまったのだろうか。焦りで心臓がドキドキ言っている。
「じゃ、じゃあ、どうしたの?」
棗の顔はさらに曇った。口を開いて何かを言おうとする。けれど、何も言えなくて押し黙る。棗はそんなことを何度か続けた。
「棗?」
名前を呼んでも返事がない。下を向いたままの棗の姿が僕の不安を掻きたてた。
「どうしたの? 何かあるなら言って。僕じゃ頼りないかもしれないけど……」
「優月は強いよ。俺なんかより、ずっと強いし、優しいと思う。でも……これを言ったら優月は許してくれないと思う」
棗は俯いたままそう言った。棗らしくない小さな声で。僅かに覗くその顔は、まるで今にも泣き出しそうな表情にも見えた。
「ど、どうしたの、棗……。僕、怒ったりしないよ。話してみて」
「でも……」
言い淀んだ棗は顔を上げ、僕を見た。くりっとした瞳が不安げに揺れている。唐突だけど、やっぱり僕の描いた雛菊と姫菊は棗にそっくりだなと改めて思った。
「これを言ったら優月に嫌われると思う」
「僕は棗を嫌ったりしないよ。それに、僕に嫌われるくらい、棗にはどうってことなくない?」
「いやだ。優月に嫌われるのは嫌だ」
棗の目が潤み、赤く染まり始めた。縁に涙が溜まっていくように見えた。
僕はどうしたらいいのかも、なんて言ったらいいのかもわからなくて、心が混乱で埋まっていく。
「な、棗……?」
「優月に嫌われたくない。でも、これ以上黙ってるのもフェアじゃないことはわかってるんだ……」
「何度も言うけど、僕は棗を嫌ったりしないよ」
僕にはそれしか言えなかった。
「本当に?」
「本当に」
僕が大きく頷くと、棗の鳶色の瞳が揺れて、唇から深い溜息がこぼれた。
「ごめん、優月。もしこれを話して優月に嫌われてもしょうがないと思うから。俺のこと、見捨ててもいいからさ」
棗のキラキラと輝く瞳から、一粒涙が零れ落ちた。棗はそれを手の甲で拭うと、あるお話を僕にしてくれた。




