第四章 リピート⑦
気が付くと朝で、僕は自分のベッドで眠っていた。
起き上がって鏡を覗くと、セーラー服に割烹着を被ったまま、顔も瞼も厚ぼったく腫れて、目は充血し、頬には涙の後が幾筋も走っている僕が映っていた。まったくひどい顔だった。
僕は携帯電話を手に取る。
六時半。まだまだ朝の早い時間だ。それに土曜日だからまだ寝ている人も多いだろう。
ボタンを押すと、アドレス帳が表示された。人付き合いの苦手な僕のアドレス帳は、あまりその性能を発揮する機会がない。でも、その寂しいアドレス帳に最近加わったのが、菊之宮デイジーの連絡先と、麗司さんや多佳子さん、そして、棗のアドレスだった。
僕は棗の電話番号を選択しようとして、指が止まった。まだこんな時間だし、迷惑だろう。それにインフルエンザでまだ寝込んでいるかもしれない。
でも、棗の声を聞きたかった。棗にそんなのただの夢だって言ってほしかった。気にするなって。大丈夫だって。
自分が情けなかった。麗司さんに、棗を支えられるような人間になれと言われたばかりなのに。僕はなんて駄目な人間なんだろう。
でも、もう限界なんだ。それに、棗の声を一言だけでも聞くだけでもきっと安心できる。
――もし五コール目で棗が出なかったら諦めよう。
緊張しながら僕は棗の番号を選択した。
軽快なコール音が四つ鳴ったところで、電話が繋がる。僕は緊張して、鼓動が早くなるのを感じた。
『優月? なに? 早いね』
「あ、ごめんね、棗。寝てた? 今大丈夫?」
棗の声は少し眠たそうに聞こえた。でも、この前のガラガラした声ではなかったので少し安心する。
『大丈夫。最近寝てばっかりだから、目ぇ覚めちゃって』
「そっか。あのね……」
そこまで言って僕は言葉に詰まる。昨日のこと、そして夢で見た『それ』のことを何と言って説明していいのかわからなかった。
『優月?』
沈黙を続ける僕に、棗の怪訝そうな声音が電話口から聞こえた。
『なんかあったのか?』
棗の声は僕の心の中の氷を解かすみたいに暖かくて、僕は目頭が熱くなった。
『あいつらになんかされたのか?』
僕は携帯電話を握ったまま、無様に泣き始めていた。
『え? 優月、泣いてるの? 大丈夫かよ。何されたんだよあいつらに。もうぜってー許さねえ』
電話口で棗は怒りをぶつける。そんないつもの棗の声を聞いて、僕は少し気持ちが楽になったような気がした。
「あのね……僕……う……」
『優月、大丈夫か……?』
話そうとすると涙が溢れてうまくしゃべれなかった。棗が電話口で戸惑っているのが伝わってくる。
「ごめん。僕、棗の……声が……聞きたくなって。でも……ごめん。僕……やっぱり後で電話する」
『あ、待てよ、優月。今日暇なの? なら、会って話そうぜ。多佳子さんは老人だから朝早いし、今来ても全然平気だからさ』
僕が切断ボタンを押す前に、棗が慌てたように捲し立てた。
「……でも、棗、インフルエンザは? 体調は……大丈夫……なの?」
『ああ。お前が水曜日来た時、夜にぱっと熱が下がったんだ。木曜にはすっかり元気になってさ。医者に行ったら、月曜から学校に行っていいって。土日も出かけて大丈夫って言われたから、全然平気。だから、なあ、俺んち来いよ』
「うん……ありがと」
『いいって』
「……じゃあ、落ち着いたら……行くね。本当に……ありがとう」
『待ってるからな』
プツッと電話が切れた。僕は携帯を抱きかかえるようにしてベッドに沈み込み、心が落ち着くまで待った。
その後、お風呂に入っ涙と鼻水でドロドロになった顔を洗い流し、服を着替えた。シャツとジーパンのシンプルな服。普通の男の子らしい格好だ。
風呂場からリビング行くと父さんがいて、キッチンには母さんがいた。
「おはよう」
僕が挨拶すると、母さんは、ほっとしたように笑顔を見せた。
「おはよう。ゆうくん、朝ご飯食べる?」
「ううん。今日は食欲があまりないんだ。あのさ、これから棗の家に行ってくる」
「こんなに朝早く?」
「うん。ちょっと……色々相談したいことがあって……」
「そう……」
母さんの瞳が不安げに揺れていた。僕は気まずくて、母さんから目を逸らした。
何か説明した方がいいのかな。でも、僕自身、色々なことをうまく伝えられる自信がなかった。
僕が何も言えないでいると、新聞を読んでいた父さんが顔を上げた。
「いいじゃないか。あちらに了解は取ったんだろう? なら行ってきなさい」
父さんは苦そうな顔で一口コーヒーを啜った。
「でも帰ってきたら話してほしい。親だから心配なんだよ、お前のことが。わかるだろ?」
僕は黙ったまま、ゆっくりと頷いた。父さんと母さんも頷く。
「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい、優月」
「ゆうくん、いってらっしゃい」
僕はパーカーを羽織って家を出た。扉を開けて街へと駆け出す。でも、角を曲がる直前に、僕は一度家を振り返った。
父さんが建てた家。母さんの趣味の庭。暖かいリビングの明かり。
それらをしっかりと目に焼き付けてから、僕は再び走り出した。




