第4話 お茶は、いつまで待っても来ませんでした
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リディアは自室に戻る。
そこに家人のすがたはなく、火の気もなく、がらんと冷たい空気だけがあった。
リディア付きの侍女は、ロザリンドの采配で、ひとり、またひとりとよそへ移されたり、ほかの仕事を任されたりしていた。
母の――亡き侯爵夫人付きの筆頭侍女だったオーサが、下働きに回されたのも、もう何年も前のことだ。
ドレスの背には、長い紐が通してある。ひとりでは解けない。
リディアがベルを鳴らす。
若い侍女がひとり、しぶしぶといった足取りで現れた。
侍女に手を貸してもらうのは最小限にとどめ、すぐに部屋から下がらせる。
髪は自分で下ろした。
髪留めを引き抜けば、ロザリンドからぶしつけに「赤毛」と評された髪が、サラサラと肩の上に落ちかかる。
エリザのように、きれいな渦を持つ巻き毛ではなく、リディアは、くせのないまっすぐな髪質だった。
結いにくい髪だと、侍女たちが、陰でうわさしているのを、リディアは何度か耳にしたことがある。
ただ、母だけが――
「リディアの髪は、なんてつやつやなのでしょう。きれいなきれいなストロベリーブロンド」と。
そんな風に誉めてくれた。
そして衣装箪笥から、普段のドレスを取り出す。
裾には、何度もほどいては下ろした跡が、うっすらと筋になって残っていた。
――あらあら、また縦に伸びられましたのね、リディアさま。
上流婦人のアクセントを、ことさらに強調したロザリンドの声が、脳裏によみがえる。
――少し踵の高い靴をお召しになったら、侯爵さまと背が並ぶのではありませんこと?
まあ、ドレスの裾から足首が……「また」お針子を呼ばないとなりませんわね。
ロザリンドが何を「あてこすって」いるのか。
それが分からないほど、リディアも愚鈍ではなかった。
だから普段に着るものは、何度も、自分で裾を下ろしていたのだった。
着替えを終え、リディアは椅子に腰を下ろす。
昨晩から、ひとときも気の休まる間がなかった。疲れ果てていた。
それでも、リディアは、まっすぐに首筋を伸ばす。
ひどい喉の渇きを思い出した。今一度、ベルを鳴らす。
「お茶をお願い」
「……かしこまりました」
侍女が出ていく。
茶は、いつまで待っても来なかった。
思わず漏れ出す溜息を、リディアはもう、止めることができなかった。
立ち上がり、部屋を出る。
オーサが、お台所にいたら、お茶を淹れてもらおう――
そう思って通りがかった厨房付近に、オーサの姿は見えなかった。
仕方がない。
リディアは静かに諦める。
そのまま、足は自然と屋敷の左翼の読書室へと向かっていた。
オークの重い扉を押し開ける。
古い紙と革の甘い香り、そして、インクの土っぽい匂いを胸いっぱいに嗅ぎ取った。
大好きな読書室の空気は、いつでもリディアを癒してくれる。
ふわりと見渡すと、奥の窓際に、白っぽい大きな毛の塊が丸まっていた。
――ジジったら。やっぱりここにいたのね。
「ただいま、ジジ」
そう呼び掛けて、リディアは近づいていく。
ジジは、ひとり掛けの肘掛け椅子ほどの大きさ。
犬とは思えぬ体格だ。
リディアは書架の引き出しから、使い込んだ柄のブラシを取り出す。
そしてジジの隣に膝をつき、その背中に、そっと掌を当てた。
――また、こんなに毛をからませて。
リディアは、いくつもいくつも絡まったジジの毛を、背中から梳かし始める。
ブラシはほとんど通らず、すぐに引っかかった。
いつのころからか、ジジの毛はぼさぼさと、ひどく指通りの悪いものになっていた。
真っ白だった毛並みも、すっかりと黄ばんでいる。
そして、一日の大半を、こうして眠って過ごしていた。
仔犬のころは、あんなにフワフワだったのに。
お母さまと、庭の茂みの中で見つけたとき、この子は、両の手のひらに乗るほど小さかった。
クチナシが花盛りで。
「この子を飼いたい」と言ったら、お母さまはきれいに微笑んで、「それは、素敵ね」とおっしゃった――
ブラシは、まったく通っていかなかった。
リディアは指で、かたく絡み合った毛をほぐし始める。
またひとつ。そしてひとつ、と。
リディアは、ジジのみすぼらしい毛玉をほぐしていった。
ジークさまは――
本当に、私を疑っておられるの?
この私が、誰かを……妹を、害そうとしたなんて。
そんなことをお考えなの?
そんな不徳な、恥ずべき人格の持ち主だと、私のことを思っておいでなの?
私から、一度も話も聞かぬままなのに。
そう、ひと言も。私はまだひと言もジークさまと話ができていない。
(泣いてもいいぞ)
「え?」
リディアの指が止まった。
「……だれ? 誰かいるの?」
顔を上げる。部屋に人影はなかった。
気のせい?
空耳かしら。そうね、ひどく疲れているもの。
そして、ジジに視線を向ける。
ジジはゴロリと床に横たわり、目を閉じて、静かに腹を上下させていた。
リディアはジジの首に、そっと腕を回す。
ごわごわとした毛に顔を埋めた。
みすぼらしい見た目なのに、ジジの匂いは午後の陽だまりのようだった。
「お嬢さま、こちらにおいでですか?」
読書室の扉が開く。
オーサだった。
大きな盆を両手で持っている。
「お部屋に、お姿がなかったので」
「オーサ」
リディアの声が、常よりもすこしだけ幼げに震えた。
「さきほどは、お出迎えに出られず、申し訳ありませんでした。さ、どうぞ、お召し上がりくださいませ」
オーサがカップを差し出した。
甘いミルクココア。
幼いころからの、リディアの好物だった。
そのとろみのある薄茶の液体を、ゆっくりと口に含む。
甘さが身体にしみいった。
昨夕、夜会の支度の前に焼き菓子をつまんだきり、何も口にしていなかったことを思い出す。
「お顔が青白いですよ、お嬢さま。ご朝食は、お召し上がりで?」
問いかけるオーサの声は、ひどくやさしかった。
リディアは、曖昧な微笑で返事をごまかす。
「すこしですがね、スープとパンもお持ちしましたから。さあ」
盆には、スープの小さなボウルと、ほぐした干し肉を散らした白パンの皿がのっていた。
「ありがとう、オーサ」
礼を言ったものの、食べ物が、喉を通る気がしない。
リディアは睫毛を伏せたまま、ミルクココアを飲み下した。
「何かの、間違いでございますよ」
低く、だがきっぱりと、オーサが言った。
「お嬢さまが……エリザさまに毒を盛るなんて。まったく。なぜみんなして、そんなバカげた疑いを」
「……オーサ」
「いまにきっと、本当のことが明らかになります。王太子さまだって、ちゃんとお嬢さまのことを考えてくださるはずなんですから」
リディアの持つカップの縁に、ぽつりとひとつ、雫がこぼれ落ちた。
そしてそれは、雨だれのように、ぽつぽつと、ミルクココアの水面に降り注ぎ始めた。




