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第5話 「たりないたりない、もっともっと」

5


 リディアの頬を、幾筋も幾筋も涙が伝う。

 声だけは懸命に押さえ、リディアは、ただ静かに肩を震わせ続けた。


 オーサがそっと、その背を撫でる。

 ひざしが、窓から降り注いで、読書室の中に濃い陰影を作り出していた。

 ジジは目を閉じて、ゆっくりと背中を上下させている。


 やがて、オーサが立ち上がる。


「そろそろ、厨房へ戻りませんとね……ロザリンドさまに見とがめられては、また、お嬢さまにご迷惑がかかってしまいますから」


 盆を両手で持ち上げると、オーサは何度も振り返りながら、読書室を出ていった。

 泣きはらした瞼のまま、それでもかろうじて、ちいさな微笑を浮かべて、リディアはそれを見送る。


 扉が閉まった。

 耳に痛いほどの、沈黙が戻ってくる。


 突然、ゴゴゴゴと、震えるような音が響き渡った。


「……な、なに?」

 リディアが瞬く。


 続けて、キュルキュルという音。


 軽く眉根を寄せて考えこみ、リディアが、はたと気づく。

 そして、目の前にうずくまる大きな白い毛玉へと視線を向けた。


(なんだ。そんな目で、われを見るな。ただ、腹が減っているだけなのだ)


「……え? ジジ、あなた? あなた、いま、しゃべった、の?」


 リディアが目を見開いて尋ねると、ジジは長くて太い尻尾を、ポスポスと床に打ち付けた。


(われが喋って、なにか悪いのか)


「だって……」


 幼いころは、よく、母と一緒にジジに話しかけていた。

 明確な言葉で意思疎通ができたわけではなかったが、それでも。

 なんらかの会話は成立していた記憶がある。


 だが、母の死後にやってきたロザリンドに、ある日、軽蔑に満ちたまなざしで、こう告げられた。


 ――畜生と話をするなど。まるで、頭のおかしな子供のようですわ、リディアさま。

 仮にも、王太子ジークレインさまの婚約者に推挙された身でいらっしゃるのに。


 その日から、リディアはジジに話しかけるのをやめたのだった。


「どうしたのかしら……私ったら、本当におかしくなってしまったの?」


(おかしいのは、この家のほうだ)


 リディアの頭の中に、はっきりと、そう声が響いた。


(これまでも、ひどいものだったが、おまえ。今回はまた、いよいよ困ったことになったようだな)


「ジジ、やっぱり喋ってる……どうして」


(この家のものたちは、まったく。われを、いぬと間違えるとは)


 ああ、まさか。この子は――


(気づくのが遅い)


「……あなた、もしかして霊獣だったの」


(そんなこと。おまえの母は、はなから知っていたぞ)


 そして、またしても地響きのような音が、ジジの腹のあたりから響いた。


(飯が足りない。ぜんぜん足りない。おまえに話しかけようにも、ずっと力が足りなかった)


「どうして? そんなにおなかをすかせてるなんて、いったい……朝ごはんは?」


 ジジは鼻息をひとつ吹き出すと、ぎゅっと目を閉じる。


「そうだわ、これを」


 リディアは、オーサが置いていった白パンの皿を、ジジの鼻先に置く。

 ふんす、と匂いをひと嗅ぎして、ジジは干し肉を載せたパンをひと飲みにした。


(足りない足りない、もっともっと)


 ジジが床を前足で何度も叩く。

 大きな身体がゆらゆら揺れた。


(われは、まだ子供のれいじゅう、たくさん食べる。足りない足りない)


「そんなに足りないの? だって……」


 后教育が始まって、年々、講義の時間が長くなっていた。

 朝食もそこそこに、王太子宮へと出向き、夜はかなり遅くに戻る。

 夕食の時間にすら、間に合わないことが増えていた。


 ロザリンドは動物嫌いだったし、侯爵は、そもそもジジの存在すら覚えていない。

 亡き侯爵夫人の忠実なる侍女だったオーサは、ロザリンドから目の敵にされていて、厨房で昼夜なくこき使われていた。


 いつのころからか、リディアには、ジジの食事の面倒を見てやる時間すら、取ることが難しくなっていた。


 そんな気がかりに――天使のようなエリザだけが気づいてくれた。


「ディー姉さま。あの白い大きな犬のことは心配しないで。わたしがちゃんと、女中にしたくさせるわ。しっかりご飯を食べているか、見ておきますから」


 大きな動物を、昔から怖がっていたエリザに頼むのは、とても気が引けた。


「どうぞご心配なさらないで、姉さま? 大きい犬は怖いけど、ちょっとだけなら、わたしだって頭も撫でてあげられるわ。毛づくろいは、そうね誰か……召使にしてもらうよう頼んでおくから、ね?」


 なんてやさしい子なのだろう。お父さまたちのおっしゃるとおり。エルは天使だ。


「……あなたが、まさか、こんなにご飯を食べるなんて、エルも思いもしなかったんじゃないかしら」


 そうよ。きっと、そう。

 ほんとうは、あの子、ジジのことが怖かったにちがいない。

 なのに、エルに甘えすぎてしまっていた――


「こんなに毛並みがひどいのは……ひょっとして、ごはんが足りてなかったからなの? ジジ」


 一日中、寝てばかりいるのも、そのせい?


「……ごめんなさいね、ジジ」


 リディアは、ジジの黄ばんで絡まった毛を、そっとそっと撫でた。

 ジジは鼻息をひとつもらしたきり、何も答えない。

 そして、黒く濡れた石のような大きな瞳で、じっとリディアを見つめていた。


 ぐるるる、きゅるるるるる、と、悲しい音がまた、響き渡る。

 リディアは思わず、ドレスの胸に手を当てた。


「今のは、私の……? それとも、ジジの?」


(りょうほうだ、われとおまえ)


 思わず、リディアの頬が赤らむ。


(泣くのをがまんするの、だめ、よくない。けれど、よく泣くと腹がへる。おまえもたくさん飯をくえ)


 口調は偉そうなのに、どこかしら子供っぽい白い霊獣の言葉に、リディアの口もとには、知らずちいさな笑みがこぼれた。


「……そうね、とにかく、ジジにはもっと食べ物が必要なのは確かだわ。厨房に降りて、もうすこしご飯を手に入れましょう」


 オーサには悪いけれど――

 もうすこしだけ、なにか用意してくれるようお願いしよう。


 そう考えながら、リディアは今一度、まっすぐに首筋を伸ばし立ち上がる。

 まっすぐなストロベリーブロンドの髪が、ひとつ背中で波打った。


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