第2話 御身を改めさせていただきます
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「リ、リディア様が、エリザ様のグラスになにかを」
「ええ、確かに。リディア様がお渡しになった飲み物を召し上がって、エリザ様は」
「急に血を吐いて……お倒れに」
まだ若い、下級貴族と思しき男性。扇を握りしめた年配の夫人。
そして、銀の盆を持った給仕。
三人は、口々に言う。
どの目もリディアを見ているようで、どこか焦点が合っていなかった。
「そんな、わたし……わたし、は」
リディアの喉奥で、声が絡みついてかすれる。腕の中のエリザの頬が、急激に冷たくなるのを感じた。
ラベンダー色のドレス。
その胸元の呼吸が弱まっていくのを見てとり、リディアの恐怖が募った。
妹を片腕にしたまま、床にへたり込む。
「薬師を! 早く!」
その声に、遠巻きにしていた人垣が、すっと割れた。
猛烈な速さで、ジークレインが近づいてくる。
王子は膝をつくと、リディアの腕からエリザを奪いとった。
銀白の礼服の裾に、ほんのわずか、庭の湿った土がついていることに、リディアがぼんやりと気づく。
「エル! エル、しっかりしろ!!」
エリザを抱き、ジークレインが激しく呼んだ。
エリザの睫毛が、わずかに動く。しかし目を開けることはなかった。
ジークレインが顔を上げる。そして、険しく強張った頬でリディアを見た。
何も言わなかった。
見開いた両目で、リディアをただ一瞥しただけだった。
しかしそれだけで、リディアも、周囲の人間も――
王子が何を言いたいのか、何を疑っているのかが分かる。
ジークレインはエリザを抱いて立ち上がった。
リディアへと背を向け、薬師の方へと歩き出す。
床に膝をついたまま、リディアは、呆然と視線をさまよわせるしかできなかった。
王太子の婚約者として、ひとびとの眼前でそんな姿を見せたことなど、これまでに一度もなかった。
「姉君が、妹君を……」
「……毒?」「まさか、そんな」
ざわめきの水面が、広間に揺らめき広がっていく。
気力を振り絞り、リディアは立ち上がった。
膝が震えていた。
それでも、立った。首筋を真っ直ぐに伸ばして。
くちびるの震えを、懸命に意思の力で押しとどめながら。
近衛の一団が、人垣を割ってリディアの前へとあらわれた。
副隊長が、さらに一歩前に歩み出る。その目は、リディアの肩あたりを見据えていた。
「リディア・テレサ・エリアノーラ・ローゼンタール侯爵令嬢」
ふたつの中つ名を、副隊長はひとつずつ、正しく読み上げた。
ごく正式の手続きめいて。
「僭越ではありますが、御妹君、エリザ・マリ・サール嬢への害意の嫌疑につき――御身を改めさせていただきます」
どよめきが一斉に広がる。
侯爵令嬢の身を――それも、未来の王太子妃の身を改めるなど。
聞いたこともない、ありうべくもない無礼な仕打ちだった。
副隊長が続ける。
「これは、ジークレイン殿下のご命令であります」
場が、ピタリと静まった。
「……分かりました」
リディアがひとこと、凛と応じる。
――よかった、落ち着いた声を出せて。
私は、ジーク様の婚約者。
どんなときも、その立場にふさわしい節度と冷静さを保たなければならないもの……。
それに、私は何もしていない。
周りの者たちは、何か勘違いしているのだ。
これは何かの行き違いだわ。すぐに……すぐにその事実は明らかになる。
そんなことより、エルは――?
一体、あの子になにが起こったというの。
可愛い妹。
もし、あの子の身になにかあったら。
副隊長が視線で合図をする。
後ろに控えていた女官がひとり進み出た。リディアの身を改めるためなのだろう。
「そちらを、お預かりいたします」
女官がリディアの右手の方へと、指を差し出した。
そこで初めて、リディアは、自分がまだ檸檬水のグラスを握りしめていたことに気づく。
強張った指は、上手く開かなかった。
女官は無言のまま、一本ずつ、リディアの指をほどく。
グラスの中で檸檬水が小さく揺れた。
「では、リディア様、こちらへ」
副隊長が、大広間の扉の方を腕で指し示す。
リディアはひとつ瞬いて首筋を伸ばすと、滑るような歩みで人波をわけて進んでいった。
そして、広間にほど近い小部屋に通される。
副隊長と女官がともに入り、扉が閉められた。
「腰の巾着を拝見できますか」
だしぬけに副隊長が言った。
――ティサ。
それは、女性たちが、夜会のドレスに合わせ、レースやサテンで作る小さな小袋。
化粧道具や櫛、ハンカチーフや香袋などの身の回りの物を忍ばせる、とても私的なものだ。
リディアは、指先の震えを隠しながら、細紐をほどき、ティサを取り外した。
女官が軽く膝を折り、恭しく両手でそれを受け取る。
そして女官は、リディアのティサを副隊長に手渡した。
副隊長は、小さく繊細なティサを握り取ると、ごつごつと筋張った指を、ティサの中へと突っ込んだ。
白蝶貝の櫛、銀細工の小鏡。頬紅、菫バラのサシェ。
リディアの私物が、ぞんざいに取り出されていく。
そして、それ以外には、何も出てこなかった。
当たり前のこと。不審なものなど、何も入っているはずないのだから――
そう分かってはいても、リディアの喉元に、思わず安堵の吐息がこみ上げる。
副隊長が今一度、女官に目線を向けた。女官が言う。
「恐れ入りますが――御手袋を」
リディアは思わず目をみひらいて、女官を見つめた。
言われたことが理解できなかったからだ。
副隊長が繰り返す。
「長手袋の中も、改めさせていただく」
人前で、手袋を外す――
貴族の女性の正装において、それがどれほど慎みのない振る舞いであるか。
そんなことは十の子供でも知っている。なのに――
リディアのくちびるが、ひとつわなないた。
副隊長は微動だにせず、リディアを見つめていた。
女官は、かすかに睫毛を伏せて佇んでいる。
ああ、外すしか、ないのだ――
リディアは左の手袋の指先を摘まむと、一本ずつ引いていく。
そこでやっと、副隊長がリディアたちに背を向けた。
しかし部屋から出ていく気は、一切ないようだ。
白い腕が、肘下からすべて、あらわになった。
リディアが差し出した手袋を女官が受け取る。
丁寧になぞるように表面を確認していく。そして丹念に裏返すと、同じようにつぶさに検分した。
続けて右手。
完璧な仕立てで、ピッタリに誂えられた長手袋は、外すのに時間がかかる。
リディアは指先を引く力を、すこしだけ強めた。
シュッと、勢いよく手袋が肌を滑った。
はずみで、脱げた手袋がリディアの指からすり抜ける。
女官がそれを受け止めた。そして、左と同じようにして確かめていく。
布地をたどる女官の指先が、止まった。
手袋を灯にかざす。
ちょうど手首のあたりに、うっすらとなにかが光っていた。
思わず息を飲んだ女官の気配に、副隊長がすぐさま振り返った。
女官から手袋を手渡され、副隊長が言う。
「検毒の石を!」
命令に応じ、若い騎士が急ぎ足で部屋へと入ってきた。
魔術を使う者の証である青い飾緒が、その肩で揺れている。
魔道騎士は懐から、親指ほどの乳白色の石を取り出した。
そして、リディアの手袋の裏地に、それをそっと触れさせる。
石が、曇った。
鈍い灰色がにじみ出てくる。
「……これ、は」
若い魔道騎士が、噛み締めるように呟いた。
「どうやら、証拠が出たようだな」
親指で軽く顎先をひと撫でして、副隊長が言う。
そんな――
リディアの視界が、ぐらりと揺れた。
どうして……どうして、こんな、どうして?
「リディア・ローゼンタール殿。以後、貴女の身柄を我が近衛隊のもとに置く」
副隊長が鋭く告げた。
「そんな……これは、これは何かの間違いです。私には何一つ覚えのないこと。副隊長、どうぞ私の話をお聞きになって」
「『話』ならば、我らが衛所にて、ゆっくりお聞きしましょう」
そう言って、副隊長が手を叩く。
数人の騎士が部屋へと入ってきて、リディアを囲んだ。
まるで引き立てられるようにして、馬車へと乗せられ、むき出しの両腕のまま、リディアは王太子宮を後にした。




