第1話 婚約者が、誰かに愛を告げていました
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――王太子宮。
季節初めの夜会が催されている大広間。
その熱を背に、リディアは回廊を急いでいた。
両手に、グラスがひとつずつ。
片方は檸檬水。もう片方は林檎の果実水で、妹エリザの好物だった。
具合の悪い時でも、林檎水ならエリザの喉を通る。
夜会へと出発するとき、妹の顔色は冴えなかった。
馬車の中でも口数が少なく、「大丈夫よ、ディー姉さま」と微笑んだくちびるも、いつもより少し青ざめていた。
そんな妹の姿が、しばらくのあいだ、広間に見えない。
王太子の婚約者である自分が宴から離れるのは、あまり適切ではない。
けれどもリディアは、妹のことが心配でたまらず、冷たい飲み物のグラスを手に広間を抜け出し、姿を探していたのだった。
回廊で、銀盆を持った給仕と行き合う。
給仕は傍に下がり、膝を折りながら言った。
「エリザ様でしたら、先ほどテラスのほうへ」
「ありがとう」
リディアは短く礼を言い、首筋を真っ直ぐに伸ばした完璧な姿勢で、滑らかな足取りを崩さぬまま、テラスに続く硝子扉へと向かった。
硝子扉に手をかけた瞬間、リディアの足が止まる。
低い、声がした。
「リディアとは――ディーとは、結婚できない」
王太子ジークレインの声だった。
庭園に掲げられた無数のランターンに照らされて、テラスには長い影がふたつ落ちている。
「もう、自分の気持ちに嘘はつけない。私は……お前を愛してしまった」
ジークレインの声は、リディアの知らない温度をしていた。
それは――
リディアには、ただの一度も向けられたことのない、熱い震えを帯びた声だった。
何年ものあいだ、婚約者として隣に立ってきたリディアには、一度も。
銀白の礼服に包まれた王子の逞しい胸へと、か細い肩が倒れかかる。
ラベンダー色のドレスの裾が揺らめいた。
だが、その華奢な腰は、すぐにジークレインから離れる。
「いいえ、いいえ……殿下、いけません。そんな」
――エリザ?!
リディアの息が止まった。
聞き間違えるはずもない、誰よりもよく知っている声だった。
毎朝、寝室の扉の向こうから「ディー姉さま、起きてらっしゃる?」と、自分を呼ぶ声。
愛しい妹の――小鳥の甘い囀りのような、ほろほろと、ほどけるような声。
「殿下のお相手は、姉さまです。ずっと前から、そう決まっていること。ディー姉さまは、世にもまれな白い魔力をお持ち。でも、わたしには何の魔力もありません」
「エル……」
ジークレインがエリザを呼んだ。
家族や、ごく親しいものだけが呼ぶ愛称で。
「ああ、全部わたしが悪いの……わたしはただ、姉さまと殿下が、また元のように睦まじいご様子に戻れるようにって。何かできたらと思って。なのに」
エリザが涙に声を震わせた。
「ごめんなさい、殿下、姉さま。わたし、ここにいてはいけない人間なんだわ。わたしなんて……中つ名さえ、ひとつしか持たぬ身なのに。本当なら、こんな風に殿下のお傍に立つことだってありえない」
「やめろ! エル!!」
ジークレインが、エリザを強くかき抱く。
「中つ名の数など、お前の価値には何の関係もない。たしかに、リディアは稀有な魔力を持って生まれついた。国のためには、リディアが后でなければならない。だが、この国の長い歴史において、后に魔力がないことなど、ままあった」
「ジークさま、いけません、腕を……腕を解いてください」
涙をこぼしながら、エルが身じろいだ。
「駄目だ、離さない。エル、私はお前と共に生きたい。そうでなければ、この先、国を背負う重責など耐えられようもない」
エリザが、涙に揺れる瞳で、王子を見上げる。
「もし、すこしでも、わたしがお役に立てるのであれば……ジークさまのお傍にいます。でも殿下の妻になる方は、もう決まっています。姉さまです。わたしは、わたしなんかがなれるのは、せめて公…」
「違う!」
鋭く言って、ジークレインが奥歯を噛み締める。
「お前を――公妾になどしない。そんなふうには扱わせない。中つ名の数に虐げられてきたお前に、これからも同じ思いをさせ続けるなど、決して、させぬ……!」
「ジークさま……わたしは、そのお気持ちだけで、もう十分です」
エリザが、両腕でゆっくりとジークレインの身体を押した。
ふたりの身体が離れていく。
エリザが踵を返し、ジークレインに背を向けた。
硝子扉の前に佇んでいたリディアが、はっと我に返る。
とっさに、回廊の柱の陰へと身を隠した。手にした果実水が、細かく波立つ。
「どうか、どうか、姉さまと……ずっとむつまじく。いましがたの殿下のお言葉は、わたしの心の中だけの……宝物にいたします」
そう言って、エリザは硝子扉から回廊へと飛び出した。
柱の陰に身をひそめるリディアに気づくようすもなく、小走りに広間へと駆けていく。
王子はくちびるを噛み締めると、テラスから庭園へと降りた。
ランターンの光がきらめく闇の中に、銀白の礼服の背が溶けていく。
リディアも、なかば呆然と回廊を歩き始めた。
――ありがとう、ディー。
リディアの耳もとに、ふとジークレインの声が蘇る。
そう、あれは、十一歳のクチナシの季節。
ジークさまは仰った。
「国と僕のために、君がこんなにも頑張ってくれていること。僕はちゃんと知っているから」と。
誰からも――
父からすら言われたことのない、ねぎらいと感謝の言葉だった。
母が亡くなって「あの人」が――ロザリンドが我が物顔で、屋敷を取り仕切りだした。
父は公妾ロザリンド・サールに産ませたエリザを、目の中に入れても痛くないほどに可愛がり始めた。
でも、いいの、それはいいの。だって無理もない。
エリザは素晴らしい子。
まるで天使。やさしくて、愛らしくて、とろけるような微笑み。
甘くほどける囁き。儚くて小柄な身体。虹色にきらめく、金に渦巻く髪。
父もロザリンドも、その美しさを誉めそやす。
それに、美しいだけじゃない。
ロザリンドが、私につらく当たるといつも、エリザはそっと慰めに来てくれた。
そんな時はいつだって「かあさまは、ひどい」と、自分の母であるロザリンドよりも、私の味方になってくれた。
本当にやさしい子。
この頃――
殿下と私は、幼い頃のように心を通わせる時間が減っていた。
后教育は果てるともなく、学んでも学んでも尽きることがない。
それでも、王となるジークさまに課せられた重責に比べれば大したことではない――
そう思って、力を尽くしてきたつもりだった。
私はジークさまの「慰め」には、なれなかったのだ。
でも、やさしいエリザは――天使のようなエルは、それに気づいて。
殿下の苦悩に気づいて――
あなたのせいじゃない。エル。
悪いのは私。
今、ジークさまは、あなただけを求めている。
ここにいてはいけないのは、むしろ私の方。
広間の大扉が近づいてきた。
リディアは壁際で立ち止まり、背筋を伸ばす。
そして王太子の婚約者として、将来の王妃としてふさわしい表情を作り直そうとした。
静かな威厳をたたえ、視線も首筋も、揺らがせない――
そんな表情。
いつもなら一呼吸で、その顔を作れた。
なのに今は、簡単にはそうできなかった。
「姉さま」
エルが小走りに駆け寄ってくる。
「もしかして、わたしのことを探してくださっていたの?」
かわいらしい手が、きゅっとリディアの手袋を掴んだ。
「そうよ、エル。あなた、出がけに顔色がよくなかったでしょう……だから」
「ごめんなさい、姉さま。少しテラスでお外の空気を吸っていたの」
「具合は、どう?」
「平気よ。ああ、わたしったら駄目ね。王太子さまの婚約者として大変な姉さまに、心配かけたりして」
エルが両手でリディアの手をそっと包む。
そして、リディアが手に持つグラスに蒼い瞳を向けると、「これは、わたしに?」と小首をかしげて見せた。
リディアが頷く。
「ありがとう、ディー姉さま。大好きよ」
エルが、嬉しそうに林檎のほうのグラスを受け取った。
喉が渇いているのか、すぐにそれをくちびるへと運ぶ。
「エル、あのね、私――」
言いかけて、続きが出てこなかった。
「なあに? ディー姉さま」
エルは微笑んで、またグラスに口をつけた。
白い喉がひとつ動く。
次の瞬間、エルの花びらめいたくちびるから、ひゅ、と細い音が漏れた。
グラスが床へと落ちて割れる。果実水の甘い匂いが広がった。
エルのくちびるから、深紅がひとすじ滴り落ちる。
くぐもるような咳とともに、血がエルのラベンダー色のドレスに飛び散った。
林檎の香りに、錆の匂いが混じり合う。
「……エル!」
きゃしゃな体が、リディアへと崩れ落ちた。
軽かった。驚くほど軽かった。
誰かの悲鳴が、ずいぶん遠くで聞こえた。
リディアは妹の身体を抱きしめ、膝をついたまま、動けなかった。
強張った片手は、まだ自分の檸檬水のグラスを握りしめていた。
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