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妹殺しの男装令嬢!? やる気なし騎士団長に溺愛なんてされません  作者: 水城


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1/9

第1話 婚約者が、誰かに愛を告げていました

1


 ――王太子宮。


 季節初めの夜会が催されている大広間。

 その熱を背に、リディアは回廊を急いでいた。


 両手に、グラスがひとつずつ。

 片方は檸檬水。もう片方は林檎の果実水で、妹エリザの好物だった。

 具合の悪い時でも、林檎水ならエリザの喉を通る。


 夜会へと出発するとき、妹の顔色は冴えなかった。

 馬車の中でも口数が少なく、「大丈夫よ、ディー姉さま」と微笑んだくちびるも、いつもより少し青ざめていた。

 そんな妹の姿が、しばらくのあいだ、広間に見えない。


 王太子の婚約者である自分が宴から離れるのは、あまり適切ではない。

 けれどもリディアは、妹のことが心配でたまらず、冷たい飲み物のグラスを手に広間を抜け出し、姿を探していたのだった。


 回廊で、銀盆を持った給仕と行き合う。

 給仕は傍に下がり、膝を折りながら言った。


「エリザ様でしたら、先ほどテラスのほうへ」

「ありがとう」


 リディアは短く礼を言い、首筋を真っ直ぐに伸ばした完璧な姿勢で、滑らかな足取りを崩さぬまま、テラスに続く硝子扉へと向かった。


 硝子扉に手をかけた瞬間、リディアの足が止まる。

 低い、声がした。


「リディアとは――ディーとは、結婚できない」


 王太子ジークレインの声だった。

 庭園に掲げられた無数のランターンに照らされて、テラスには長い影がふたつ落ちている。


「もう、自分の気持ちに嘘はつけない。私は……お前を愛してしまった」


 ジークレインの声は、リディアの知らない温度をしていた。

 それは――

 リディアには、ただの一度も向けられたことのない、熱い震えを帯びた声だった。

 何年ものあいだ、婚約者として隣に立ってきたリディアには、一度も。


 銀白の礼服に包まれた王子の逞しい胸へと、か細い肩が倒れかかる。

 ラベンダー色のドレスの裾が揺らめいた。

 だが、その華奢な腰は、すぐにジークレインから離れる。


「いいえ、いいえ……殿下、いけません。そんな」


 ――エリザ?! 


 リディアの息が止まった。

 聞き間違えるはずもない、誰よりもよく知っている声だった。

 毎朝、寝室の扉の向こうから「ディー姉さま、起きてらっしゃる?」と、自分を呼ぶ声。

 愛しい妹の――小鳥の甘い囀りのような、ほろほろと、ほどけるような声。


「殿下のお相手は、姉さまです。ずっと前から、そう決まっていること。ディー姉さまは、世にもまれな白い魔力をお持ち。でも、わたしには何の魔力もありません」


「エル……」


 ジークレインがエリザを呼んだ。

 家族や、ごく親しいものだけが呼ぶ愛称で。


「ああ、全部わたしが悪いの……わたしはただ、姉さまと殿下が、また元のように睦まじいご様子に戻れるようにって。何かできたらと思って。なのに」


 エリザが涙に声を震わせた。


「ごめんなさい、殿下、姉さま。わたし、ここにいてはいけない人間なんだわ。わたしなんて……中つ名(なかつな)さえ、ひとつしか持たぬ身なのに。本当なら、こんな風に殿下のお傍に立つことだってありえない」


「やめろ! エル!!」

 ジークレインが、エリザを強くかき抱く。


「中つ名(ミドルネーム)の数など、お前の価値には何の関係もない。たしかに、リディアは稀有な魔力を持って生まれついた。国のためには、リディアが后でなければならない。だが、この国の長い歴史において、后に魔力がないことなど、ままあった」


「ジークさま、いけません、腕を……腕を解いてください」

 涙をこぼしながら、エルが身じろいだ。


「駄目だ、離さない。エル、私はお前と共に生きたい。そうでなければ、この先、国を背負う重責など耐えられようもない」


 エリザが、涙に揺れる瞳で、王子を見上げる。


「もし、すこしでも、わたしがお役に立てるのであれば……ジークさまのお傍にいます。でも殿下の妻になる方は、もう決まっています。姉さまです。わたしは、わたしなんかがなれるのは、せめて公…」


「違う!」

 鋭く言って、ジークレインが奥歯を噛み締める。


「お前を――公妾になどしない。そんなふうには扱わせない。中つ名の数に虐げられてきたお前に、これからも同じ思いをさせ続けるなど、決して、させぬ……!」


「ジークさま……わたしは、そのお気持ちだけで、もう十分です」


 エリザが、両腕でゆっくりとジークレインの身体を押した。

 ふたりの身体が離れていく。


 エリザが踵を返し、ジークレインに背を向けた。

 硝子扉の前に佇んでいたリディアが、はっと我に返る。

 とっさに、回廊の柱の陰へと身を隠した。手にした果実水が、細かく波立つ。


「どうか、どうか、姉さまと……ずっとむつまじく。いましがたの殿下のお言葉は、わたしの心の中だけの……宝物にいたします」


 そう言って、エリザは硝子扉から回廊へと飛び出した。

 柱の陰に身をひそめるリディアに気づくようすもなく、小走りに広間へと駆けていく。


 王子はくちびるを噛み締めると、テラスから庭園へと降りた。

 ランターンの光がきらめく闇の中に、銀白の礼服の背が溶けていく。


 リディアも、なかば呆然と回廊を歩き始めた。


 ――ありがとう、ディー。

 リディアの耳もとに、ふとジークレインの声が蘇る。


 そう、あれは、十一歳のクチナシの季節。

 ジークさまは仰った。

 

「国と僕のために、君がこんなにも頑張ってくれていること。僕はちゃんと知っているから」と。


 誰からも――

 父からすら言われたことのない、ねぎらいと感謝の言葉だった。


 母が亡くなって「あの人」が――ロザリンドが我が物顔で、屋敷を取り仕切りだした。

 父は公妾ロザリンド・サールに産ませたエリザを、目の中に入れても痛くないほどに可愛がり始めた。

 

 でも、いいの、それはいいの。だって無理もない。


 エリザは素晴らしい子。

 まるで天使。やさしくて、愛らしくて、とろけるような微笑み。

 甘くほどける囁き。儚くて小柄な身体。虹色にきらめく、金に渦巻く髪。

 父もロザリンドも、その美しさを誉めそやす。


 それに、美しいだけじゃない。

 ロザリンドが、私につらく当たるといつも、エリザはそっと慰めに来てくれた。

 そんな時はいつだって「かあさまは、ひどい」と、自分の母であるロザリンドよりも、私の味方になってくれた。

 本当にやさしい子。


 この頃――

 殿下と私は、幼い頃のように心を通わせる時間が減っていた。

 后教育は果てるともなく、学んでも学んでも尽きることがない。

 それでも、王となるジークさまに課せられた重責に比べれば大したことではない――

 そう思って、力を尽くしてきたつもりだった。


 私はジークさまの「慰め」には、なれなかったのだ。

 でも、やさしいエリザは――天使のようなエルは、それに気づいて。


 殿下の苦悩に気づいて――

 

 あなたのせいじゃない。エル。

 悪いのは私。


 今、ジークさまは、あなただけを求めている。

 ここにいてはいけないのは、むしろ私の方。


 広間の大扉が近づいてきた。

 リディアは壁際で立ち止まり、背筋を伸ばす。

 そして王太子の婚約者として、将来の王妃としてふさわしい表情を作り直そうとした。


 静かな威厳をたたえ、視線も首筋も、揺らがせない――

 そんな表情(かお)。


 いつもなら一呼吸で、その顔を作れた。

 なのに今は、簡単にはそうできなかった。


「姉さま」

 エルが小走りに駆け寄ってくる。


「もしかして、わたしのことを探してくださっていたの?」


 かわいらしい手が、きゅっとリディアの手袋を掴んだ。


「そうよ、エル。あなた、出がけに顔色がよくなかったでしょう……だから」


「ごめんなさい、姉さま。少しテラスでお外の空気を吸っていたの」


「具合は、どう?」


「平気よ。ああ、わたしったら駄目ね。王太子さまの婚約者として大変な姉さまに、心配かけたりして」


 エルが両手でリディアの手をそっと包む。

 そして、リディアが手に持つグラスに蒼い瞳を向けると、「これは、わたしに?」と小首をかしげて見せた。


 リディアが頷く。


「ありがとう、ディー姉さま。大好きよ」


 エルが、嬉しそうに林檎のほうのグラスを受け取った。

 喉が渇いているのか、すぐにそれをくちびるへと運ぶ。


「エル、あのね、私――」

 言いかけて、続きが出てこなかった。


「なあに? ディー姉さま」


 エルは微笑んで、またグラスに口をつけた。

 白い喉がひとつ動く。


 次の瞬間、エルの花びらめいたくちびるから、ひゅ、と細い音が漏れた。

 

 グラスが床へと落ちて割れる。果実水の甘い匂いが広がった。

 エルのくちびるから、深紅がひとすじ滴り落ちる。

 くぐもるような咳とともに、血がエルのラベンダー色のドレスに飛び散った。


 林檎の香りに、錆の匂いが混じり合う。


「……エル!」


 きゃしゃな体が、リディアへと崩れ落ちた。

 軽かった。驚くほど軽かった。


 誰かの悲鳴が、ずいぶん遠くで聞こえた。

 リディアは妹の身体を抱きしめ、膝をついたまま、動けなかった。


 強張った片手は、まだ自分の檸檬水のグラスを握りしめていた。



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