第95話 過去ではなく、今を守る
第95話 過去ではなく、今を守る
――ズキィィィッ!
熊五郎の胸に。
鋭い痛みが走った。
「……っ!」
右腕から伸びた黒い線が。
肩を越え。
胸の中央まで広がっている。
まるで。
黒い根が。
身体の中へ入り込んでいくようだった。
「熊五郎!」
実咲が駆け寄る。
「触るな!」
熊五郎が叫んだ。
実咲の足が止まる。
「でも……!」
「今は近づくな」
熊五郎は。
右腕を押さえる。
呼吸が荒い。
ガルドが。
熊五郎の前に立った。
「これは侵食なのか?」
「……ああ」
「なら、切るか?」
「駄目だ」
熊五郎は。
首を振る。
「切ったら代償が来る」
レオンが。
自分の右足を見る。
そこにも。
黒い線が残っている。
「……同じだ」
熊五郎が。
レオンを見る。
「何?」
「俺に起きたことと」
レオンは。
黒い線を見つめる。
「お前に起きてることは……同じじゃない」
「……」
「お前は」
レオンが。
苦しそうに言う。
「過去を利用されてる」
熊五郎が。
黙った。
黒い霧の向こうから。
声が響く。
「その通りだ」
巨大な目が。
ゆっくりと細くなる。
「お前は過去を捨てたつもりだった」
熊五郎は。
答えない。
「王を捨て」
「……」
「城を捨て」
「……」
「兵士を捨て」
「……」
「そして――」
声が。
低くなる。
「救えなかった者の記憶まで捨てた」
熊五郎の拳が。
強く握られる。
「……違う」
「何が違う?」
「捨てたんじゃない」
熊五郎は。
顔を上げた。
「忘れたかっただけだ」
その言葉に。
実咲が。
驚く。
熊五郎が。
こんなことを認めるのを。
初めて聞いた。
「俺は……」
熊五郎は。
黒い霧を見る。
「全部覚えてる」
「……」
「誰が死んだか」
「……」
「誰を助けられなかったか」
「……」
「どの料理を最後に作ったかも」
熊五郎の声が。
少し震える。
「全部覚えてる」
ガルドが。
黙って聞いている。
熊五郎は。
目を閉じた。
すると。
また。
過去の光景が浮かんだ。
燃える王城。
逃げる人々。
倒れた兵士。
そして。
あの少女。
熊五郎の腕の中で。
弱々しく笑っている。
『熊五郎……』
『喋るな』
『……料理』
『今は料理の話をするな』
『でも……』
少女は。
苦しそうに。
笑う。
『最後に……食べたかった』
熊五郎の顔が。
歪む。
『何を?』
少女は。
小さな声で答える。
『あなたの……スープ』
――そこで。
映像が消えた。
「……」
熊五郎は。
目を開ける。
実咲が。
何も言わずに。
隣に立っていた。
「……実咲」
「うん」
「何も聞かないのか?」
実咲は。
首を振った。
「聞いてほしいなら聞く」
「……」
「でも」
実咲は。
熊五郎を見る。
「今は戦ってるから」
熊五郎の目が。
少しだけ見開かれる。
「過去の話は」
実咲が。
前を見る。
「あとでいい」
熊五郎は。
しばらく。
実咲を見つめた。
そして。
小さく笑った。
「……そうだな」
その瞬間。
黒い影が。
動いた。
――ドォォォン!
巨大な腕が。
地面を叩く。
「来る!」
ガルドが。
槍を構える。
レオンも。
剣を抜く。
だが。
熊五郎は。
二人を制した。
「待て」
「何だ?」
「こいつは」
熊五郎が。
黒い影を見る。
「俺を過去に引きずり込もうとしてる」
「……」
「なら」
熊五郎は。
左手を握った。
「逆に利用する」
風が。
左手へ集まる。
「過去を消す必要はない」
「熊五郎?」
「覚えてる」
熊五郎は。
自分の胸を叩く。
「だからこそ――」
黒い線を。
真正面から見る。
「今を守れる」
――ゴォォォォォッ!
風が。
爆発する。
黒い霧が。
一気に吹き飛ぶ。
「なっ……!」
巨大な影が。
後ろへ下がる。
ガルドが。
驚く。
「侵食を……力に変えた?」
「違う」
熊五郎は。
首を振る。
「消したんじゃない」
「……」
「抱えたまま使ってるだけだ」
黒い線が。
まだ胸にある。
それでも。
熊五郎は。
立っていた。
「俺は」
左手を前へ。
「過去から逃げない」
そして。
実咲を見る。
「でも――」
実咲も。
頷く。
「今を守る」
二人の声が。
重なった。
その瞬間。
食堂の光が。
さらに強くなった。
『管理者――精神状態安定』
『守護者――防衛継続』
『食堂防衛出力――上昇』
実咲が。
驚く。
「熊五郎……」
「何だ?」
「食堂が……」
床に。
新しい光の線が浮かんでいる。
それは。
熊五郎と実咲を繋いでいた。
さらに。
ガルド。
レオン。
町へ。
そして。
食堂に避難している人々へ。
一本。
また一本。
光が伸びていく。
「これ……」
レオンが。
呟く。
「みんなと繋がってる」
ガルドが。
周囲を見る。
「防衛魔法じゃない」
「何だ?」
「……連携だ」
熊五郎が。
頷いた。
「そういうことか」
食堂の力は。
一人を強くするものではない。
守る者が増えるほど。
強くなる。
実咲が。
笑った。
「じゃあ――」
両手を広げる。
「もっと増やせばいい」
その瞬間。
食堂の扉の向こうから。
声がした。
「助けて!」
実咲が。
振り返る。
町民が。
数人。
黒い霧から逃げてきている。
「こっち!」
実咲が。
光の道を作る。
「食堂へ!」
町民たちが。
光の道を走る。
黒い霧が。
追いかける。
「私が止める!」
実咲の光が。
道を覆う。
――バァン!
黒い霧が。
弾き返される。
町民たちが。
食堂へ入る。
「助かった……」
「ありがとう……」
実咲は。
息を切らしながら。
笑った。
「大丈夫」
「ここは――」
食堂を見る。
「守る場所だから」
その言葉に。
熊五郎が。
少し笑う。
「いい店になったな」
実咲が。
振り返る。
「まだ開店中だよ」
「そうだったな」
ガルドが。
笑う。
「戦闘中でも営業するのか?」
熊五郎は。
真顔で答えた。
「腹が減ってる奴がいる」
「……」
「なら料理する」
レオンが。
笑った。
「やっぱりお前だな」
熊五郎は。
厨房へ向かう。
だが。
その瞬間。
黒い影が。
再び立ち上がった。
「……なるほど」
声が。
初めて。
少し苛立っていた。
「そういうことか」
熊五郎が。
振り返る。
「何が?」
「お前は王国を捨てたのではない」
黒い霧が。
巨大な腕へ集まる。
「形を変えただけだ」
熊五郎は。
黙っている。
「王城を」
黒い腕が。
さらに巨大になる。
「食堂へ」
「……」
「兵士を」
「……」
「守護者へ」
「……」
「そして――」
巨大な目が。
実咲を見る。
「民を、客へ」
実咲の表情が。
強張る。
熊五郎が。
一歩前へ出た。
「客を馬鹿にするな」
「……」
「客は」
熊五郎の左手に。
凄まじい風が集まる。
「俺が守る人だ」
――ゴォォォォォォッ!!
風が。
町全体を包む。
黒い霧が。
大きく吹き飛ばされる。
巨大な影が。
後ろへ下がる。
だが。
影は笑っていた。
「ならば――」
黒い霧の中から。
無数の目が。
一斉に開く。
「守ってみろ」
「……」
「お前が守ろうとするほど」
黒い目が。
食堂を囲む。
「守るものは増えていく」
熊五郎の表情が。
険しくなる。
そして。
黒い影が。
静かに告げた。
「次は――」
黒い霧の奥から。
巨大な鐘の音が鳴った。
――ゴォォォォン。
町全体に。
響き渡る。
「町の外だ」
熊五郎が。
振り返る。
遠く。
町の外壁が。
黒く染まり始めていた。
「……囲まれた」
ガルドが。
呟く。
レオンが。
剣を握り直す。
実咲も。
光を強める。
熊五郎は。
町の外を見つめた。
そして。
小さく呟いた。
「……来るぞ」
次の瞬間。
町の外から。
無数の足音が――。
一斉に響き始めた。




