第84話 二つとも守る食堂店主
第84話 二つとも守る食堂店主
――ゴオオオオオオオッ!
熊五郎の左手から放たれた風が。
食堂の前に広がった。
黒い霧が押し戻される。
道を覆っていた霧が舞い上がり――。
一瞬だけ。
街の景色が見えた。
「……見えた!」
実咲が窓から外を見る。
遠くの通り。
逃げる人々。
倒れた看板。
黒い霧に追われている人たち。
そして――。
街の中央に立つ巨大な黒い影。
「熊五郎!」
「分かってる」
熊五郎は左手を下ろした。
荒い息を吐く。
右腕には黒い線。
手首から肘。
肘から肩。
そして。
首へ向かっている。
実咲がそれを見る。
「……右腕」
「まだ動く」
熊五郎は右手を握ろうとする。
だが。
指がわずかに震えた。
「……」
熊五郎は無言で手を下ろす。
実咲が近づく。
「無理しないで」
「無理はしてない」
「してる」
「……」
「顔に出てる」
熊五郎は少しだけ顔を逸らした。
「腹が減っただけだ」
「絶対違う!」
ガルドが苦笑する。
「こんな状況でも変わらんな」
レオンも笑う。
だが。
その笑顔はすぐに消えた。
――ドン。
街の中央から。
巨大な音。
黒い影が。
再び腕を振り上げた。
「来るぞ!」
ガルドが叫ぶ。
巨大な腕が。
食堂ではなく――。
街の建物へ向かう。
「まずい!」
レオンが走り出す。
「レオン!」
「分かってる!」
レオンは道へ飛び出した。
だが。
右脚が――。
ビクッ。
勝手に止まった。
「――っ!」
身体が前へ進まない。
黒い線が膝へ伸びている。
「俺の脚……」
レオンは歯を食いしばる。
巨大な腕が。
建物へ迫る。
「まだだ!」
レオンは左脚だけで地面を蹴った。
転がるように進む。
そして。
道に倒れていた子どもを抱き上げた。
「こっちだ!」
――ドォォォン!
巨大な腕が建物の壁をかすめる。
瓦礫が落ちてくる。
「危ない!」
レオンは子どもを抱えたまま走る。
ガルドが飛び出した。
「レオン!」
槍を振る。
――ガキン!
落ちてきた瓦礫を弾き飛ばす。
「今のうちに戻れ!」
「分かった!」
レオンは子どもを抱えたまま食堂へ戻る。
実咲が扉を開けた。
「早く!」
「ありがとう!」
子どもを店内へ入れる。
その直後。
黒い霧が道を覆った。
実咲が両手を広げる。
「――入らせない!」
光の壁が道路を横切った。
黒い霧がぶつかる。
――バァン!
「くっ……!」
実咲の足が後ろへ滑る。
「重い……!」
熊五郎が言った。
「実咲」
「なに?」
「壁を広げるな」
「え?」
「細くしろ」
実咲が驚く。
「細く?」
「全部止めようとするな」
熊五郎は外を見る。
「流れを変えろ」
実咲は一瞬考えた。
そして。
「……そういうことか」
光の壁を変形させる。
大きな壁ではなく。
一本。
二本。
道を区切る細い光。
黒い霧の流れが――。
変わった。
「霧が……!」
レオンが気づく。
実咲が叫ぶ。
「こっちには来ない!」
黒い霧は光の線を避けるように。
別の通りへ流れていく。
熊五郎が頷いた。
「それでいい」
「熊五郎!」
実咲が振り返る。
「町全部を守るんじゃない」
熊五郎が指を動かす。
「人がいる道を守れ」
「分かった!」
実咲はさらに光の線を伸ばす。
一本。
二本。
三本。
逃げる人々の通る道を。
安全な方向へ誘導していく。
「こっちです!」
実咲が叫ぶ。
「食堂へ!」
人々が走ってくる。
「急いで!」
「子どもを先に!」
「老人も!」
ガルドが声を張る。
「慌てるな!」
元軍人だった経験が。
自然に出ていた。
「走れる者は先へ!」
「動けない者は中央へ!」
「怪我をしている者は――」
ガルドが食堂を見る。
「教会へ運べ!」
「了解!」
町の人々が動き始める。
黒い霧に襲われて。
混乱していた街が。
少しずつ。
流れを取り戻していく。
熊五郎はその様子を見ていた。
「……これなら」
だが。
巨大な黒い影が。
熊五郎を見る。
――ドクン。
胸の黒い塊が脈打つ。
次の瞬間。
巨大な影が――。
食堂へ向かって歩き始めた。
――ズン。
――ズン。
地面が揺れる。
「……来る」
ガルドが槍を構える。
レオンも剣を持つ。
実咲は厨房の入口へ立った。
「ここは通さない」
熊五郎が言う。
「実咲」
「分かってる」
「厨房を頼む」
「任せて」
巨大な影が近づいてくる。
――ズン。
――ズン。
そして。
食堂の前で止まった。
巨大な頭が。
ゆっくり下がる。
熊五郎と目が合う。
「……」
黒い影が。
低い声を出した。
「食堂店主」
熊五郎は答えない。
「お前は――」
胸の黒い塊が光る。
「二つを守ると言った」
「そうだ」
「ならば――」
巨大な腕が。
ゆっくり持ち上がる。
「どちらか一つを失え」
「……」
「食堂か」
巨大な腕が街を指す。
「町か」
熊五郎は。
しばらく黙っていた。
そして。
「選ばない」
巨大な影が止まる。
「何?」
「どっちも守る」
「不可能だ」
「知るか」
熊五郎は左手を上げる。
だが。
風は――。
巨大な影には向かわなかった。
街へ。
食堂へ。
そして。
人々のいる道へ。
風が分かれていく。
「……!」
実咲が気づく。
「熊五郎、風を分けてる……」
「俺一人じゃない」
熊五郎が言う。
「実咲が道を守る」
実咲が頷く。
「ガルドが人を動かす」
「任せろ」
「レオンが――」
熊五郎がレオンを見る。
レオンは右脚を押さえながら笑った。
「分かってる」
「何をする?」
熊五郎は言った。
「お前は――」
少し考えて。
「食堂に来る人を守れ」
「……俺が?」
「ああ」
レオンは笑った。
「分かった」
巨大な影が。
腕を振り下ろした。
「――ならば全て壊す!」
――ドォォォォォン!
巨大な衝撃。
食堂の前の地面が割れる。
実咲が光の壁を展開。
――バァン!
衝撃が左右へ流れる。
ガルドが槍を地面へ突き立てる。
「今だ!」
レオンが走る。
黒い兵士が道を塞ぐ。
「邪魔だ!」
レオンは剣を振らない。
足元にあった椅子を蹴る。
椅子が兵士の足へ当たる。
「そこ!」
兵士が倒れる。
レオンが横を抜ける。
「……椅子って便利だな」
実咲が叫ぶ。
「壊さないでよ!」
「分かってる!」
「絶対分かってない!」
その間に。
熊五郎が一歩前へ出た。
左手の風が。
巨大な影の足元へ集まる。
――ゴォォォッ!
巨大な身体が。
わずかに揺れる。
「ぬ……!」
熊五郎は押し飛ばさない。
倒さない。
ただ。
一歩。
後ろへ。
動かす。
巨大な影が食堂から離れる。
「そういうことか……」
ガルドが気づいた。
「倒す必要はない」
熊五郎が頷く。
「店から離せばいい」
「なら――!」
ガルドが走る。
レオンも続く。
実咲が光の線を引く。
巨大な影を。
少しずつ。
食堂から遠ざける。
だが。
巨大な影が突然。
四本の腕を地面へ突き刺した。
――ズドン!
地面から。
黒い根が伸びる。
「しまった!」
実咲が叫ぶ。
根が。
食堂の地下へ向かって伸びていく。
「地下の王城を狙ってる!」
熊五郎の顔が変わった。
「……そういうことか」
巨大な影は。
食堂を壊そうとしているのではない。
地下にある。
王城中枢へ。
繋がろうとしている。
熊五郎が左手を握る。
「なら――」
黒い根が。
地下へ入る直前。
熊五郎の風が。
根の周囲を巻き始めた。
「ここから先は――」
風が。
一本の巨大な渦になる。
「店主の仕事だ」
――ゴオオオオオオオッ!
黒い根が。
食堂の地下へ入れない。
だが。
熊五郎の右腕の黒い線が――。
肩から。
さらに。
胸へ向かって。
伸び始めた。
「熊五郎……!」
実咲が叫ぶ。
熊五郎は右腕を見る。
「……代償か」
その直後。
地下から。
あの声が響いた。
『管理者への接続を確認』
『黒い霧による侵食を開始』
熊五郎の顔が険しくなる。
「……やっぱり」
巨大な影が笑った。
「食堂を守れば――」
黒い根がさらに増える。
「お前自身が――」
熊五郎の黒い線が。
胸へ到達する。
「食堂になる」
熊五郎が。
ゆっくり顔を上げた。
そして。
「……だったら」
左手に。
今まで以上の風が集まった。
「俺が店だろうが――」
風が街を揺らす。
「最後まで守るだけだ」
――ゴォォォォォォォッ!
そして。
食堂の看板。
「まずは飯だ」の文字が――。
初めて。
自ら光り始めた。




