第60話 帰る場所を失った王
第60話 帰る場所を失った王
「お前に……帰る場所など」
黒い塊の奥。
赤い目が光る。
「もう残っていない」
その言葉を聞いた瞬間。
熊五郎の動きが止まった。
「……」
実咲も。
ガルドも。
レオンも。
何も言えなかった。
だが。
熊五郎だけは。
静かに黒い塊を見つめていた。
「帰る場所がない?」
「そうだ」
黒い声が響く。
「お前はすべてを失った」
「……」
「国も」
「……」
「城も」
「……」
「民も」
黒い霧が。
熊五郎の周囲を包み始める。
「そして――」
赤い目が。
熊五郎を見据えた。
「王であることすら」
熊五郎の右腕が。
ズキッと痛んだ。
黒い線が。
肩から首へ向かって伸びる。
「熊五郎!」
実咲が駆け寄ろうとする。
「来るな」
熊五郎が止める。
「でも!」
「この霧は危ない」
「じゃあ熊五郎はどうするの!」
「俺は――」
熊五郎は。
右腕を見た。
指先が。
少し動かしにくい。
それでも。
左手で右腕を握った。
「まだ動く」
「だからって……!」
「実咲」
熊五郎が振り返る。
「俺は帰る」
「……え?」
「帰る場所がないなら」
熊五郎は。
はっきりと言った。
「作ればいい」
実咲は。
目を見開いた。
ガルドも。
その言葉を聞いていた。
「……作る?」
「そうだ」
熊五郎は。
食堂を見る。
「俺には今、食堂がある」
「……」
「飯を食いに来る奴がいる」
「……」
「実咲もいる」
実咲の目に。
涙が浮かぶ。
「……熊五郎」
「だから」
熊五郎は。
黒い塊へ向き直る。
「お前に勝手に決められる筋合いはない」
黒い塊が。
大きく脈打った。
ドクン――。
「……生意気な」
次の瞬間。
黒い霧が。
一気に吹き出した。
「来る!」
ガルドが叫ぶ。
「レオン、下がれ!」
「分かった!」
ガルドが。
ミレアの前に立つ。
レオンも。
実咲の前へ移動する。
だが。
黒い霧は。
まっすぐ熊五郎へ向かった。
「熊五郎!」
実咲が叫ぶ。
熊五郎は。
逃げない。
右腕を前へ出す。
「――風よ」
ゴォォォォォッ!
強烈な風が。
黒い霧を押し返す。
食堂の床が。
風圧で震える。
「うわっ!」
実咲が。
テーブルを掴む。
ガルドが。
目を細める。
「この風……」
熊五郎の周囲だけ。
黒い霧が押し戻されていく。
しかし。
熊五郎の右腕は。
さらに黒く染まった。
「……っ」
熊五郎の顔が歪む。
「熊五郎!」
「大丈夫だ」
「絶対大丈夫じゃない!」
「まだ戦える」
「そればっかり!」
実咲が叫ぶ。
「戦えるかどうかじゃない!」
熊五郎が。
実咲を見る。
「じゃあ何だ?」
「生きてるかどうかでしょ!」
その言葉に。
熊五郎は黙った。
そして。
少しだけ笑った。
「……そうだったな」
「え?」
「昔も言われた」
「また昔?」
「ガルドが言っていた」
ガルドが。
目を見開く。
「俺が……?」
「ああ」
熊五郎は。
遠い記憶を見る。
――燃える城。
――逃げる人々。
――黒い霧。
――倒れていく兵士。
そして。
若いガルド。
「陛下!」
「……」
「もう十分です!」
「まだだ」
「国民は避難しました!」
「兵士は?」
「まだ残っています!」
「なら戻る」
「駄目です!」
ガルドが。
熊五郎の腕を掴んでいた。
その腕には。
黒い線。
「陛下まで倒れたら!」
「俺は倒れない」
「なぜ言い切れるんです!」
熊五郎は。
炎に包まれる城を見る。
「俺が王だからだ」
「王だからこそ!」
ガルドは叫んだ。
「生きてください!」
「……」
「国を守るのは、陛下が死ぬことじゃない!」
熊五郎は。
しばらく黙っていた。
そして。
小さく笑った。
「……そうか」
「陛下?」
「お前の言う通りかもしれない」
記憶が。
途切れる。
「……」
ガルドが。
熊五郎を見る。
「今……」
「何だ?」
「俺は……昔」
熊五郎が頷く。
「ああ」
「あなたに……」
ガルドの声が震える。
「生きろと言ったのか」
「たぶんな」
「……そうですか」
ガルドは。
拳を握った。
「なら今度は」
ガルドが。
熊五郎の前へ出る。
「俺が言います」
「……」
「熊五郎」
ガルドは。
まっすぐ見つめる。
「生きろ」
熊五郎は。
少しだけ目を細めた。
「……分かった」
その瞬間。
黒い塊が。
激しく脈打った。
ドクン!
ドクン!
ドクン!
「何か来る!」
レオンが叫ぶ。
黒い塊から。
無数の黒い線が飛び出した。
「ガルド!」
「任せろ!」
ガルドが。
剣を振る。
一本。
二本。
三本。
黒い線を切り落とす。
だが。
切った瞬間。
ガルドの左腕に。
黒い線が走った。
「――っ!」
「ガルド!」
「大丈夫だ!」
「大丈夫じゃない!」
熊五郎が叫ぶ。
ガルドは。
歯を食いしばる。
「まだ動く!」
「……」
「なら戦える!」
熊五郎は。
一瞬だけガルドを見た。
そして。
口元を上げた。
「昔と変わらないな」
「あなたもです!」
二人が。
同時に走る。
黒い塊へ。
「右!」
「分かった!」
熊五郎が。
風を放つ。
黒い線が。
吹き飛ぶ。
その隙に。
ガルドが。
黒い根を斬った。
――ズバッ!
黒い塊が。
大きく揺れる。
「効いた!」
レオンが叫ぶ。
しかし。
黒い塊の中心から。
さらに巨大な黒い線が伸びる。
それは。
熊五郎へ向かっていた。
「熊五郎!」
実咲が叫ぶ。
熊五郎は。
避けない。
「……来い」
黒い線が。
右腕へ絡みつく。
「――っ!」
激痛。
黒い線が。
肩から首へ。
そして。
胸へ向かって伸び始める。
「熊五郎!」
実咲が泣きそうな声を出す。
熊五郎は。
苦しそうに息を吐いた。
それでも。
黒い線を掴む。
「お前……」
黒い塊の赤い目が。
熊五郎を見る。
「まだ……」
熊五郎の目が。
鋭くなる。
「俺を王だと思っているのか?」
黒い塊が。
答える。
「違う」
「……」
「お前は――」
赤い目が。
ゆっくりと細くなる。
「王だった男だ」
熊五郎の表情が。
変わった。
「……」
黒い塊の奥で。
何かが笑った。
「だから――」
ドクン。
「帰る場所など」
ドクン。
「もうない」
その瞬間。
熊五郎の脳裏に。
一つの光景が浮かんだ。
燃え落ちる城。
逃げていく人々。
そして。
城の中に一人残る。
かつての熊五郎。
その手には。
血ではなく。
料理鍋があった。
「……飯を」
熊五郎は。
小さく呟いた。
「まだ作らなきゃな」
そして。
風が。
爆発した。
ゴォォォォォォォォッ!
黒い霧が。
一気に吹き飛ぶ。
ガルドが。
目を見開く。
「熊五郎……!」
熊五郎は。
黒い線に侵食された右腕を下ろす。
そして。
黒い塊を睨んだ。
「帰る場所がないなら」
その声は。
静かだった。
「俺が作る」
黒い塊の赤い目が。
初めて。
僅かに揺れた。
そして。
その奥から。
別の声が響いた。
「……ならば」
黒い塊が。
大きく裂ける。
「その場所ごと――」
赤い光が。
食堂の奥を照らした。
「奪ってやる」
――ドクン。
黒い塊が。
今までで一番大きく脈打った。




