第59話 王が背負った代償
第59話 王が背負った代償
「中にいる奴を助ける」
熊五郎は。
黒い塊へ向かって歩き出した。
その右腕には。
黒い線が走っている。
手首から肘へ。
肘から上腕へ。
そして。
少しずつ。
肩へ向かって伸びていた。
「熊五郎!」
実咲が叫ぶ。
「待って!」
熊五郎は止まらない。
「もう十分でしょ!」
「まだだ」
「でも、その腕!」
「まだ動く」
熊五郎は。
右手を握る。
「なら問題ない」
「問題あるよ!」
実咲が前へ回り込む。
「動くからって大丈夫じゃない!」
「……」
「黒い線が肩まで来たらどうするの?」
熊五郎は。
自分の腕を見る。
「その時は……」
「その時は?」
「左手を使う」
「そういう問題じゃない!」
実咲の声が。
食堂に響いた。
熊五郎は。
少しだけ目を細めた。
「……昔の俺も」
「え?」
「同じことを言われた気がする」
実咲が黙る。
「『もう十分です』」
熊五郎は。
遠い記憶を見るように。
黒い塊を見つめた。
「誰かが……そう言っていた」
そして。
また記憶が蘇る。
――燃える城。
――黒い霧。
――倒れている兵士。
熊五郎は。
片腕を黒い霧に包まれながら立っていた。
「陛下!」
ガルドの声。
若い頃のガルドが。
熊五郎へ駆け寄っている。
「これ以上は危険です!」
「まだだ」
「腕が……!」
「見えている」
熊五郎の腕には。
今と同じ黒い線。
「それ以上、魔力を使えば!」
「分かっている」
「ならば、おやめください!」
熊五郎は。
倒れている兵士を見る。
その兵士の胸には。
黒い塊が食い込んでいる。
「……あいつを助ける」
「ですが!」
「俺が切れば」
熊五郎は。
黒い線を見つめる。
「こいつは助かる」
「代わりに陛下が――」
「俺一人の腕で済むなら安い」
ガルドが。
言葉を失う。
「陛下……」
熊五郎は。
兵士へ手を伸ばす。
「生きろ」
そして。
風が。
戦場を切り裂いた。
――記憶が消える。
「……」
熊五郎は。
食堂へ戻ってきた。
「熊五郎?」
実咲が。
心配そうに見ている。
「今……何を思い出したの?」
「昔の俺が」
熊五郎は。
ゆっくり答えた。
「誰かを助けた」
「その代わりに?」
「腕を失いかけた」
実咲の顔が。
青ざめる。
「……それでも?」
「ああ」
「どうして?」
熊五郎は。
少し考えた。
「分からない」
「分からない?」
「昔の俺が何を考えていたのか」
熊五郎は。
右腕を見る。
「今の俺なら……」
そこで。
言葉が止まった。
実咲が聞く。
「今の熊五郎なら?」
熊五郎は。
少しだけ笑った。
「腹が減っている奴に飯を食わせる」
「……」
「困っている奴がいれば助ける」
「うん」
「だから」
熊五郎は。
黒い塊を見る。
「たぶん、今も同じだ」
実咲は。
何も言えなくなった。
その時。
助け出された人物が。
苦しそうに息をした。
「……陛下」
熊五郎が振り返る。
「名前は?」
「……」
人物は。
少し考える。
「……ミレア」
「ミレア?」
「はい……」
ミレアは。
熊五郎の腕を見る。
「その腕……」
「どうした?」
「また……同じことを」
熊五郎が。
目を細める。
「昔の俺を知っているのか?」
「知っています」
ミレアの声が震える。
「私は……あなたの国で」
そこで。
黒い線が。
ミレアの首元へ走った。
「――っ!」
「ミレア!」
ガルドが駆け寄る。
「まだ黒い霧が残っている!」
ミレアが。
胸を押さえる。
「苦しい……」
熊五郎が。
すぐに手を伸ばす。
「動くな」
「でも……」
「治癒魔法は使うな」
ガルドが頷く。
「黒い霧が魔力を食う」
「そうだ」
熊五郎は。
ミレアの身体を観察する。
「切れた黒い線の一部が残っている」
「じゃあ……」
実咲が。
恐る恐る聞く。
「また切らないと?」
「そうだ」
熊五郎は答えた。
実咲が。
首を横に振る。
「駄目」
「実咲」
「駄目だよ」
実咲は。
熊五郎の前に立つ。
「また熊五郎の腕に返ってくるんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、私が何とかする」
「どうやって?」
「それは……」
実咲は言葉に詰まる。
「……分からない」
熊五郎が。
少しだけ笑う。
「俺もだ」
「笑わないでよ」
実咲の目に。
涙が浮かぶ。
「熊五郎がいなくなったら……」
「……」
「私、どうしたらいいの?」
熊五郎は。
しばらく黙った。
そして。
実咲の頭に。
左手を置いた。
「大丈夫だ」
「その言葉……」
実咲は。
熊五郎の手を握る。
「今は信じられない」
「そうか」
「だって熊五郎、いつも無茶するから」
「そうか?」
「そうだよ!」
ガルドが。
小さく笑った。
「それは昔からだ」
「ガルドまで!」
熊五郎も。
少しだけ笑う。
だが。
その瞬間。
右腕に激痛が走った。
「――っ!」
熊五郎の顔が歪む。
「熊五郎!」
黒い線が。
肩へ到達した。
「……」
熊五郎は。
右腕を見た。
指先が。
わずかに震えている。
「動かしにくい……」
実咲が。
息を呑む。
「もう……腕まで」
熊五郎は。
右手を握ろうとする。
だが。
思うように力が入らない。
「……なるほど」
「何がなるほどなの!」
「黒い霧が」
熊五郎は。
自分の腕を見つめる。
「魔力だけじゃない」
「……」
「身体を動かす感覚まで奪っている」
レオンが。
震える。
「俺と同じだ……」
熊五郎は。
レオンを見る。
「そうだな」
「じゃあ……」
レオンの顔が青ざめる。
「熊五郎も……俺みたいになるの?」
熊五郎は。
答えなかった。
その沈黙が。
何より怖かった。
その時。
ミレアが。
突然。
熊五郎の服を掴んだ。
「陛下……」
「何だ?」
「もう……私のために」
ミレアは。
涙を流す。
「代償を払わないでください」
熊五郎の目が。
止まる。
「……」
「昔も……」
ミレアは。
苦しそうに続けた。
「あなたは……同じことをしました」
「……」
「たくさんの人を救って」
「……」
「そのたびに」
ミレアの声が震える。
「あなた自身が壊れていった」
熊五郎は。
何も言えない。
ガルドも。
息を呑んだ。
「……壊れていった?」
実咲が聞く。
ミレアは。
ゆっくり頷いた。
「それでも……」
ミレアは熊五郎を見る。
「あなたは笑っていました」
「……」
「『飯を食えば元気になる』って」
その言葉に。
熊五郎の表情が。
わずかに変わった。
そして。
小さく笑う。
「……昔から言ってたのか」
ミレアも。
涙を流しながら笑った。
「はい」
「そうか」
熊五郎は。
黒い塊を見る。
「なら……」
右腕は。
もう肩まで黒く染まっている。
それでも。
熊五郎は前へ出る。
「今度は壊れない」
実咲が叫ぶ。
「熊五郎!」
熊五郎は。
振り返る。
「心配するな」
「……」
「俺には」
熊五郎は。
食堂を見る。
「帰る場所がある」
その言葉に。
実咲が目を見開いた。
熊五郎は。
再び黒い塊へ向き直る。
そして。
風を集める。
「だから――」
右腕の痛みに耐えながら。
熊五郎は言った。
「今回は帰る」
黒い塊が。
ドクン――。
大きく脈打った。
その奥から。
低い声が響く。
「……帰る?」
そして。
黒い塊の中の目が。
赤く輝いた。
「お前に……帰る場所など」
黒い霧が。
一気に膨れ上がる。
「もう残っていない」
熊五郎の目が。
鋭くなる。
「……何だと?」
その言葉だけが。
食堂に残った。




