第56話 王だった頃と食堂の店主
第56話 王だった頃と食堂の店主
――俺が守る。
その言葉が。
熊五郎の頭の中に残っていた。
目の前には。
黒い霧。
巨大な魔物。
そして。
胸の中に閉じ込められた誰か。
「……」
熊五郎は。
魔物を見つめていた。
だが。
その瞳には。
今までとは違うものがあった。
遠い記憶。
かつての自分。
そして。
今の自分。
二つの姿が。
重なっていた。
――昔。
燃え上がる城。
崩れていく壁。
遠くで響く爆発音。
兵士たちが走っている。
「陛下!」
「北門が破られました!」
「東地区の住民が取り残されています!」
「救援を!」
その中央に。
一人の男が立っていた。
王の服。
肩には。
王を示す紋章。
その男が。
静かに命令する。
「住民を先に逃がせ」
「しかし、陛下!」
「兵士は後だ」
「ですが、敵が迫っています!」
男は。
一歩前へ出る。
「ならば俺が残る」
兵士たちが息を呑む。
「陛下ご自身が……?」
「そうだ」
その男は。
剣を抜いた。
「国を守るのが王の仕事だ」
――そこで。
記憶が途切れる。
「……」
熊五郎が。
ゆっくり目を開けた。
目の前にいるのは。
燃える城ではない。
自分の食堂。
「まずは飯だ」。
小さな看板。
使い込まれた厨房。
鍋。
包丁。
皿。
そして。
実咲。
「熊五郎?」
「……何だ?」
「さっきから怖い顔してる」
熊五郎は。
厨房を見る。
「……ここは」
「食堂だけど?」
「そうだな」
熊五郎は。
小さく息を吐いた。
「昔とは違う」
「昔?」
「ああ」
実咲は。
少し黙ってから聞いた。
「昔の熊五郎って……」
熊五郎は。
答えなかった。
代わりに。
厨房へ向かった。
「飯を作る」
「こんな状況で!?」
「こんな状況だからだ」
「……」
熊五郎は。
鍋を手に取った。
その姿を。
ガルドが見ていた。
「……やっぱり」
「何だ?」
「お前は昔から変わらない」
熊五郎が振り向く。
「俺を知っているのか?」
ガルドは。
少し迷った。
「まだ全部は思い出せない」
「そうか」
「だが……」
ガルドは笑った。
「戦場でも、お前は飯を作っていた」
「……」
「兵士たちが疲れ切っていると」
「食わせろ」
「怪我人がいれば」
「治療を先にしろ。終わったら食わせろ」
「敵が迫っていても」
「腹が減っているなら食わせろ」
ガルドの声が。
少し震える。
「昔のお前は……」
熊五郎を見る。
「国を守るために飯を作っていた」
熊五郎は。
しばらく黙った。
そして。
鍋に水を入れる。
「今は違う」
「どう違う?」
「今は……」
熊五郎は。
食堂を見回す。
「食べたい奴に作る」
実咲が。
少し笑う。
「それだけ?」
「ああ」
「王様だった頃より?」
「王様だったかどうかは知らん」
「……」
「だが」
熊五郎は。
包丁を握る。
「今の俺は食堂の店主だ」
トン。
野菜を切る。
トン。
魚を切る。
「客が腹を空かせていたら飯を作る」
トン。
「疲れていたら温かいものを出す」
トン。
「悩んでいるなら……」
熊五郎は少し考える。
「飯を食わせる」
実咲が。
思わず笑った。
「結局、全部飯なんだ」
「そうだ」
熊五郎は即答した。
ガルドも。
思わず笑う。
「昔と変わらないな」
「そうか?」
「ああ」
ガルドは。
過去を思い出す。
戦場。
倒れた兵士。
泣いている子供。
そして。
鍋を持った熊五郎。
「昔のお前は……」
ガルドが言う。
「みんなに生きろと言っていた」
熊五郎の手が止まる。
「……」
「戦えなくなった兵士にも」
「生きろ」
「逃げ遅れた住民にも」
「生きろ」
「絶望した奴にも」
「生きろ」
ガルドは。
熊五郎を見る。
「今も同じだ」
熊五郎は。
ゆっくり顔を上げた。
「……そうかもしれないな」
その時。
レオンが。
震える声で言った。
「熊五郎……」
「何だ?」
「俺……怖い」
熊五郎が。
レオンを見る。
黒い線は。
胸の近くまで伸びている。
右目も。
黒く染まったままだ。
「身体が自分じゃなくなりそうで……」
「……」
「俺が俺じゃなくなったら……どうすればいい?」
熊五郎は。
少しだけ考えた。
そして。
昔と同じ言葉を。
口にした。
「生きろ」
レオンが。
顔を上げる。
「戦えなくてもいい」
熊五郎は。
まっすぐレオンを見る。
「逃げてもいい」
「……」
「誰かに助けてもらってもいい」
そして。
熊五郎は続けた。
「それでも生きていればいい」
レオンの目から。
涙が落ちた。
「……はい」
その返事を聞いて。
熊五郎は。
昔の自分と今の自分が。
重なったような気がした。
昔。
王として。
国を守るために。
生きろと言った。
今。
食堂の店主として。
目の前の一人に。
生きろと言っている。
守るものは。
国ではない。
王座でもない。
今の熊五郎が守りたいのは。
この食堂。
実咲。
ガルド。
レオン。
そして。
ここで飯を食べる人たち。
「……」
熊五郎は。
小さく笑った。
「昔より」
「?」
「今のほうが忙しい」
実咲が吹き出す。
「そこ!?」
「客が多いからな」
「王様より食堂店主のほうが大変なの?」
「飯は待ってくれない」
「……確かに」
ガルドも笑う。
だが。
その瞬間。
黒い塊が。
ドクン。
脈打った。
笑い声が止まる。
黒い霧が。
ゆっくり広がっていく。
そして。
黒い塊の奥から。
声が響いた。
「……変わらないな」
熊五郎が。
顔を上げる。
「何がだ?」
「守ろうとするところが」
熊五郎の目が細くなる。
「昔も」
黒い塊が。
ドクン。
「そして今も」
黒い霧が。
熊五郎へ向かって伸びる。
「お前は……」
赤い光が。
黒い塊の奥で輝いた。
「誰かを守るために立つ」
熊五郎は。
静かに構えた。
「だったら」
風が。
熊五郎の周囲に集まる。
「昔も今も――」
その目に。
一瞬だけ。
王だった頃の鋭さが戻る。
「守るだけだ」
ゴォォォォォッ!
食堂の中に。
猛烈な風が吹き荒れた。




