第54話 黒い塊の中の人
第54話 黒い塊の中の人
「俺が助ける」
熊五郎の言葉が。
静まり返った食堂の奥に響いた。
巨大な魔物は。
熊五郎を睨みつけている。
胸の中央では。
黒い塊が脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
そのたびに。
黒い霧が周囲へ広がっていく。
「熊五郎……」
実咲が不安そうに名前を呼ぶ。
「大丈夫なの?」
「分からん」
「えっ?」
熊五郎はあっさり答えた。
「だが、助ける」
「そこは分からないんだ……」
実咲のツッコミにも。
熊五郎は反応しない。
視線は。
魔物の胸から離れなかった。
「ガルド」
「何だ?」
「胸の黒い塊を狙う」
ガルドが剣を握り直す。
「分かった」
「ただし――」
熊五郎は続けた。
「中にいる奴を傷つけるな」
「……人がいるんだな?」
「ああ」
レオンが震える声で言った。
「俺には見える……」
右目。
黒く染まった瞳。
そこに。
魔物の胸の奥が映っている。
「人が……いる」
「どんな奴だ?」
ガルドが尋ねる。
レオンは目を細める。
「分からない」
「顔は?」
「見えない」
「男か? 女か?」
「それも……」
レオンは頭を押さえた。
「でも……」
「何だ?」
「苦しんでる」
その瞬間。
魔物が咆哮した。
「グォォォォォォッ!」
ドンッ!
巨大な前脚が振り下ろされる。
「来る!」
ガルドが叫ぶ。
熊五郎が前へ出た。
「風よ」
ゴォォォォォッ!
暴風が巻き起こる。
巨大な爪が。
熊五郎の目の前で止まった。
床が。
ミシミシと音を立てる。
「熊五郎!」
実咲が叫ぶ。
「下がってろ!」
「分かった!」
実咲は急いで壁際へ移動する。
ガルドが走った。
「今だ!」
剣を振り上げる。
狙うのは。
魔物の胸。
黒い塊へ伸びている。
一本の黒い線。
「そこだ!」
ガキィィン!
剣が黒い線を捉えた。
だが。
「――っ!」
剣が弾かれる。
「硬い!」
ガルドの腕が痺れる。
黒い線が。
逆に剣へ絡みついてくる。
「ガルド!」
熊五郎が風を飛ばす。
黒い線が弾き飛ばされる。
ガルドは後ろへ飛び退いた。
「助かった」
「無理に切るな」
「だが、あれを切らないと――」
「分かっている」
熊五郎は魔物を見る。
そして。
胸の黒い塊を見る。
「……あれは守っている」
「何を?」
「中にいる奴を」
ガルドが眉を寄せる。
「守っている?」
「ああ」
熊五郎は続ける。
「だが、守っているというより……」
黒い塊が。
ドクン。
脈打つ。
「閉じ込めている」
「……」
実咲が息を呑んだ。
「じゃあ……あの人は」
熊五郎が答える。
「囚われている」
その言葉と同時に。
黒い塊の中から。
また声が聞こえた。
「……助けて」
今度は。
はっきり聞こえた。
レオンが振り返る。
「まただ」
「何て言ってる?」
実咲が聞く。
レオンは。
黒い右目を押さえた。
「助けて……って」
「それだけ?」
「いや……」
レオンの顔が歪む。
「もう一つ聞こえる」
「何?」
レオンはしばらく黙った。
そして。
震える声で言った。
「……帰りたい」
熊五郎の動きが止まった。
「……」
その言葉。
なぜか。
熊五郎の胸に引っかかった。
――帰りたい。
その言葉を。
自分も知っている。
この世界へ来たばかりの頃。
実咲が言った言葉。
『帰りたい』
そして。
自分も。
ほんの少しだけ。
思ったことがある。
だが。
それとは別の。
もっと古い記憶。
燃える城。
逃げる人々。
泣いている子供。
そして。
自分が誰かに言っている。
『必ず帰れ』
熊五郎は。
目を見開いた。
「……」
「熊五郎?」
実咲が近づく。
「どうしたの?」
「……俺」
熊五郎は。
頭を押さえた。
「また……思い出しそうだ」
「何を?」
「分からない」
頭の奥で。
誰かの声がする。
『陛下』
『どうか、ご命令を』
『我々は最後まで――』
そして。
自分の声。
『民を先に逃がせ』
『兵士は後だ』
『俺が残る』
熊五郎は。
息を呑んだ。
「……俺は」
言葉が続かない。
ガルドが熊五郎を見る。
「熊五郎?」
「……昔」
熊五郎はゆっくり口を開く。
「俺は……誰かを逃がしていた」
ガルドの顔が。
強張った。
「……」
「どうした?」
「いや……」
ガルドも。
頭を押さえる。
「俺も今……」
「何を思い出した?」
「……誰かが」
ガルドは目を閉じる。
「同じことを言っていた」
「何を?」
「民を先に逃がせ、と」
熊五郎とガルド。
二人の視線が交わる。
「……」
「……」
実咲が二人を見る。
「ちょっと待って」
「何だ?」
「二人とも、昔一緒にいたんじゃないの?」
熊五郎が黙る。
ガルドも答えられない。
だが。
否定もできなかった。
その時。
巨大魔物が再び咆哮した。
「グォォォォォォッ!」
黒い霧が。
一気に広がる。
「来る!」
レオンが叫ぶ。
熊五郎が手を前へ出す。
「風壁!」
ドォォォォォン!
暴風が壁となり。
黒い霧を押し返す。
しかし。
完全には止まらない。
「熊五郎!」
ガルドが叫ぶ。
「霧が回り込んでくる!」
「分かっている!」
熊五郎は歯を食いしばる。
「このままじゃ……」
実咲が呟く。
「食堂まで……」
黒い霧が。
少しずつ。
店内へ入り込んでくる。
その時。
レオンが突然。
「あ……」
動きを止めた。
「どうした?」
「声が……」
「また聞こえるのか?」
レオンが。
黒い右目を見開く。
「違う」
「何が?」
「今度は……」
レオンは胸を押さえた。
「俺の中から聞こえる」
「……!」
実咲の顔が青ざめる。
「レオン?」
「いる」
レオンが震える。
「誰かが……俺の中にいる」
「レオン!」
ガルドが駆け寄る。
だが。
レオンの右腕が。
突然跳ね上がった。
「――っ!」
自分の意思ではない。
右手が。
ゆっくり。
胸へ向かう。
「止まれ!」
レオンは左手で右腕を掴む。
「止まれええっ!」
それでも。
右腕は止まらない。
「俺は……!」
腕が。
胸へ近づく。
「俺はレオンだ!」
黒い線が。
首から頬へ伸びる。
「俺は……俺だ!」
熊五郎が振り向く。
「レオン!」
「熊五郎!」
レオンの黒い右目から。
涙が流れる。
「助けてくれ……!」
「今行く!」
熊五郎が風を放とうとした。
その瞬間。
黒い塊が。
ドクン――。
大きく脈打った。
そして。
魔物の胸の奥から。
低い声が響いた。
「……まだ」
熊五郎の動きが止まる。
「……何?」
声が続く。
「まだ……思い出さないのか」
熊五郎の目が見開かれる。
「……」
その声は。
熊五郎を知っている。
そして。
黒い塊の奥で。
何かが笑った。
「……陛下」
熊五郎の表情が。
初めて。
明らかに変わった。
「……お前」
黒い塊が。
大きく脈打つ。
ドクン――。
そして。
黒い霧が。
食堂いっぱいに広がった。




