第53話 食堂の奥に眠る扉
第53話 食堂の奥に眠る扉
黒い扉。
その表面に刻まれた紋章を。
熊五郎は黙って見つめていた。
「……熊五郎?」
実咲が声をかける。
返事がない。
「どうしたの?」
熊五郎の目が。
紋章から離れない。
「……知ってるの?」
実咲の問いに。
熊五郎はしばらく黙った。
そして。
「……昔、見たことがある」
「昔?」
「ああ」
「どこで?」
「……覚えていない」
実咲は眉を寄せる。
「覚えてないって……」
熊五郎は。
もう一度、紋章を見る。
その瞬間。
頭の奥で。
何かが弾けた。
――夜。
燃える城。
遠くから聞こえる。
兵士たちの怒号。
「陛下!」
「北門が破られました!」
「住民を南へ!」
「兵士より先に民を逃がせ!」
「ですが、陛下!」
「命令だ!」
そこで。
映像が途切れた。
「……」
熊五郎は目を閉じる。
「熊五郎?」
実咲の声で。
熊五郎は我に返った。
「……何でもない」
「今、変な顔してたよ」
「そうか?」
「うん」
熊五郎は。
紋章から視線を逸らした。
「昔のことを少し思い出しただけだ」
「どんなこと?」
「……戦っていた」
「戦ってた?」
「ああ」
「誰と?」
熊五郎は少し黙った。
「……魔物だ」
実咲は首を傾げる。
「昔から魔物と戦ってたの?」
「そうらしい」
「らしいって……」
熊五郎自身も。
自分の記憶に違和感を覚えていた。
戦場。
城。
兵士。
そして。
自分に向けられる。
「陛下」という言葉。
だが。
その先だけが。
霧のように消えている。
熊五郎は小さく頭を振った。
「今はいい」
「え?」
「今は目の前のことだ」
ガルドも。
紋章を見つめていた。
「俺も……」
「ガルド?」
「いや」
ガルドは頭を押さえる。
「この紋章を見ると……何か引っかかる」
黒い線が走る右腕が。
ズキッと痛む。
「……っ」
「大丈夫?」
実咲が心配する。
「ああ」
ガルドは腕を押さえた。
「だが……この紋章」
ガルドの脳裏に。
一瞬だけ。
過去の光景が浮かんだ。
巨大な城。
高い塔。
兵士たち。
そして。
城門に掲げられた旗。
その旗には。
今、目の前にあるものと同じ紋章があった。
「……!」
ガルドが目を見開く。
「思い出した」
熊五郎が振り向く。
「何を?」
「俺は……」
ガルドは息を整える。
「昔、この紋章を見た」
「どこで?」
「城だ」
「城?」
「ああ」
ガルドの頭に。
また映像が浮かぶ。
自分が鎧を着ている。
兵士たちが整列している。
そして。
誰かの前に立っている。
だが。
その人物の顔だけが。
どうしても見えない。
「……誰かに仕えていた」
ガルドが呟く。
「誰に?」
「それが……」
ガルドは頭を押さえる。
「思い出せない」
熊五郎は。
何も言わなかった。
ただ。
黒い扉を見ている。
その横顔を見ながら。
ガルドは。
なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
――この人を。
自分は知っている。
そんな感覚だった。
だが。
記憶は。
そこまでだった。
「熊五郎」
ガルドが聞く。
「お前は……本当に知らないのか?」
「……」
熊五郎は答えない。
実咲が二人を見る。
「ちょっと待って」
「何だ?」
「二人とも、何か隠してない?」
熊五郎が実咲を見る。
「隠してない」
「絶対?」
「絶対だ」
「……怪しい」
実咲がじっと熊五郎を見る。
「ものすごく怪しい」
「そうか?」
「そうだよ!」
その時。
黒い扉から。
ドクン。
音がした。
三人が一斉に扉を見る。
「……」
ドクン。
もう一度。
今度は。
扉全体が震えた。
「下がれ」
熊五郎が言う。
「実咲」
「うん!」
実咲が後ろへ下がる。
ガルドが剣を構える。
レオンも。
震える身体で剣を抜いた。
「レオン」
熊五郎が見る。
「無理するな」
「でも……」
レオンは右目を押さえる。
「中から……何か来る」
「分かるのか?」
「分かる」
レオンの顔が青ざめる。
「今までとは違う」
「どう違う?」
「大きい」
その瞬間。
バキィィィィン!
黒い扉が。
内側から弾けた。
「――来る!」
ガルドが叫ぶ。
扉の向こうから。
黒い霧が噴き出した。
「全員、下がれ!」
熊五郎が風を放つ。
ゴォォォォォッ!
黒い霧が押し戻される。
しかし。
その霧の中から。
巨大な腕が伸びた。
「何だ、あれ!」
ガルドが叫ぶ。
腕。
というより。
黒い鱗に覆われた巨大な前脚。
爪が。
床を引っ掻く。
ギィィィ……。
そして。
ゆっくりと。
巨大な身体が姿を現した。
「……魔物」
レオンが呟く。
だが。
普通の魔物ではない。
四本の脚。
巨大な胴体。
背中から伸びる黒い角。
そして。
胸の中央に。
黒い塊。
「……あれ」
実咲が息を呑む。
「巨大魔物と同じ……」
熊五郎が目を細める。
「ああ」
胸にある黒い塊。
それは。
北の戦場にいる巨大魔物のものと。
まったく同じだった。
「こいつも……」
ガルドが剣を構える。
「黒い霧を出すのか?」
答えるように。
魔物が口を開いた。
「グォォォォォォッ!」
咆哮。
食堂の窓が震える。
「うわっ!」
実咲が耳を塞ぐ。
熊五郎が前へ出る。
「ここは食堂だ」
「……え?」
実咲が熊五郎を見る。
「壊させない」
熊五郎の周囲に。
風が集まり始める。
「熊五郎!」
ガルドが叫ぶ。
「俺も――」
「ガルドは後ろを守れ」
「だが!」
「お前の腕を見ろ」
ガルドは。
黒い線が伸びている右腕を見る。
「……」
「まだ戦える」
熊五郎は魔物を見る。
「だが、無理をするな」
ガルドは一瞬黙った。
そして。
「分かった」
剣を構える。
「後ろは任せろ」
「頼む」
魔物が。
熊五郎へ向かって飛びかかる。
「来る!」
実咲が叫ぶ。
巨大な爪が。
熊五郎を襲う。
「遅い」
熊五郎が身体を横へずらす。
爪が床を砕く。
ドゴォォン!
「食堂の床を壊すな」
熊五郎が。
魔物の脚へ手を向ける。
ゴォッ!
風が叩きつけられる。
魔物の身体が横へ吹き飛ぶ。
「すごい……」
実咲が呟く。
だが。
魔物は倒れなかった。
ゆっくりと起き上がる。
「……効いてない?」
ガルドが驚く。
熊五郎は。
魔物の胸を見る。
「違う」
「何が?」
「あいつは……」
黒い塊が。
ドクン。
脈打つ。
「痛みを感じていない」
「……」
「身体じゃない」
熊五郎の目が細くなる。
「あの黒い塊が動かしている」
魔物が。
再び襲いかかる。
熊五郎は風を使って避ける。
しかし。
魔物の爪が。
食堂の壁へ向かう。
「まずい!」
実咲が叫ぶ。
熊五郎が手を伸ばす。
ゴォォォォッ!
爪が。
壁の直前で止まった。
「……させるか」
熊五郎が。
さらに力を込める。
魔物の身体が。
少しずつ押し返される。
その時。
レオンが突然。
「――熊五郎!」
叫んだ。
「何だ!」
「胸だ!」
レオンの黒い右目が。
魔物の胸を見ている。
「あの黒い塊の中に……」
「何がある?」
レオンの顔が。
恐怖に歪む。
「人がいる」
「……何?」
ガルドが振り返る。
「人?」
「見える……」
レオンが胸を押さえる。
「黒い塊の中に……誰かいる」
熊五郎の表情が変わった。
「……」
魔物の胸。
黒い塊。
その奥。
一瞬だけ。
人影のようなものが見えた。
だが。
すぐに消える。
「熊五郎……」
実咲が震える。
「あれ……魔物なの?」
熊五郎は答えなかった。
魔物の胸にある黒い塊を見つめる。
その時。
黒い塊の奥から。
小さな声が響いた。
「……助けて」
レオンが。
目を見開いた。
「今……」
ガルドも聞いた。
「誰か、喋ったか?」
実咲が周囲を見る。
「今の声……」
熊五郎だけが。
動かなかった。
そして。
黒い塊を見ながら。
小さく呟く。
「……まだ生きている」
その言葉を口にした瞬間。
熊五郎の脳裏に。
また一つ。
古い記憶が蘇った。
燃える城。
倒れた兵士。
黒い霧。
そして。
自分の前に跪く誰か。
「……陛下」
声だけが。
はっきりと聞こえた。
『どうか……我々を――』
そこで。
記憶が途切れた。
熊五郎は。
目を閉じる。
「……」
実咲が心配そうに見る。
「熊五郎?」
熊五郎は。
ゆっくり目を開いた。
そして。
魔物の胸を見つめる。
「……またか」
「何が?」
「昔の記憶だ」
熊五郎は短く答える。
「少しだけ……思い出した」
ガルドが驚く。
「何を?」
「俺が……誰かを助けようとしていた」
「誰を?」
熊五郎は。
黒い塊を見る。
「まだ分からない」
その瞬間。
魔物の胸の黒い塊が。
ドクン――。
大きく脈打った。
そして。
その奥から。
今度ははっきりと。
「……助けて」
声が響いた。
熊五郎の目が。
鋭く光った。
「……分かった」
熊五郎は。
魔物を見据える。
「お前の中にいる奴を――」
風が。
一気に膨れ上がる。
「俺が助ける」




