第45話 黒い霧の心臓
第45話 黒い霧の心臓
ドクン――。
巨大魔物の胸の黒い塊が、大きく脈打った。
その瞬間。
「うわああああっ!」
戦場全体に、黒い霧が一気に広がった。
「霧が来るぞ!」
「下がれ!」
「負傷者を運べ!」
「無理だ! 速すぎる!」
黒い霧が地面を覆う。
兵士たちの足元を這い。
建物の壁を伝い。
逃げる兵士たちの背中へ迫っていく。
「熊五郎!」
ガルドが叫んだ。
「霧が広がりすぎている!」
「分かってる」
熊五郎は風を強くする。
ゴォォォォォッ!
風の壁が黒い霧を押し返す。
しかし。
「……重いな」
熊五郎の耳がわずかに動く。
今までとは明らかに違う。
黒い霧そのものが。
風に逆らっている。
「熊五郎!」
ガルドが叫ぶ。
「俺は行く!」
「ああ」
熊五郎は短く答えた。
「黒い塊を壊せ」
「分かった!」
ガルドは巨大魔物へ向かって走った。
その頃。
レオンは。
「……あ」
胸を押さえていた。
黒い線が。
心臓のすぐ近くまで伸びている。
「レオン!」
仲間が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「……分からない」
レオンは苦しそうに息をする。
「胸が……変だ」
「痛いのか?」
「違う」
レオンは首を振る。
「心臓が……遠い」
「遠い?」
「自分の身体なのに……」
レオンは胸を押さえる。
「ここにあるはずなのに……自分のものじゃないみたいだ」
「そんな……」
仲間が言葉を失う。
レオンは何度も自分の胸を叩いた。
「動いてる」
「……」
「ちゃんと動いてるよな?」
「動いてる」
「俺、生きてる?」
「生きてる!」
「本当に?」
「本当だ!」
レオンは目を閉じる。
自分の鼓動を確かめようとする。
ドクン。
ドクン。
確かに聞こえる。
「……よかった」
小さく息を吐いた。
「まだ聞こえる」
「何が?」
「心臓の音」
レオンは胸に手を当てる。
「これが聞こえるうちは……俺はまだ俺だ」
その直後。
ドクン。
心臓の鼓動が。
一瞬だけ。
二重に聞こえた。
「……え?」
レオンが目を開く。
「今……」
「どうした?」
「今、二つ聞こえた」
「何が?」
「心臓の音が……」
レオンの顔が青ざめる。
「俺のじゃない音が……混ざった」
「そんな馬鹿な」
「聞こえたんだ!」
レオンは胸を押さえた。
「俺の鼓動の中に……別の何かがいるみたいだった」
仲間がレオンを支える。
「落ち着け」
「無理だ……」
レオンの声が震える。
「これ以上、俺の中に入ってくるな……」
黒い線が。
ほんの少し。
心臓へ近づいた。
「――っ!」
レオンが身体を強張らせる。
「来るな……」
右手が震える。
「来るな!」
今度は。
右手が勝手に胸から離れた。
「……え?」
レオンが右手を見る。
「動いた……」
「レオン?」
「今……俺は動かしてない」
右手がゆっくり上がる。
「まただ……」
指が動く。
「止まれ」
動く。
「止まれ!」
それでも。
右手は動き続ける。
レオンは左手で右腕を掴んだ。
「俺の腕だ!」
力を込める。
「俺の言うことを聞け!」
一瞬。
右腕が止まった。
「……止まった」
レオンが息を吐く。
しかし。
次の瞬間。
右腕が大きく跳ねた。
「うわっ!」
「レオン!」
レオンがよろめく。
右腕が。
自分の胸へ向かう。
「やめろ!」
レオンは左手で押さえ込む。
「そこに触るな!」
右手が胸へ近づく。
「俺は……」
レオンは歯を食いしばった。
「俺は、俺だ!」
その瞬間。
「レオン!」
ガルドの声が聞こえた。
レオンが顔を上げる。
黒い霧の向こう。
ガルドが巨大魔物の胸へ迫っている。
「ガルド……」
ガルドの腕にも。
黒い線が伸びている。
それでも。
ガルドは止まらない。
「ガルド!」
レオンが叫ぶ。
「気をつけろ!」
ガルドが振り向く。
「レオン!」
「その霧……!」
「分かってる!」
ガルドは自分の腕を見る。
「俺も侵食されている」
「だったら戻れ!」
「戻れない!」
ガルドは巨大魔物を見る。
「ここで止めなきゃ、もっと多くの人間が同じ目に遭う!」
ガルドが走る。
巨大魔物が腕を振り上げた。
「――来る!」
ドォォォォン!
ガルドの目の前へ巨大な腕が落ちる。
ガルドは横へ飛んだ。
地面が砕ける。
「くっ……!」
立ち上がる。
巨大魔物の胸。
黒い塊。
「あと少し……!」
ガルドが剣を構える。
「これを……」
一歩。
「壊す!」
剣を振り上げる。
その瞬間。
黒い塊が脈打った。
ドクン。
黒い霧がガルドへ集中する。
「なに……!?」
黒い霧が腕へ絡みつく。
「ぐっ……!」
ガルドの右腕が震える。
黒い線が。
肘から肩へ伸びた。
「ガルド!」
熊五郎が叫ぶ。
風を一気に強める。
ゴォォォォォッ!
黒い霧が吹き飛ばされる。
ガルドは片膝をついた。
「……助かった」
「無理をするな」
熊五郎が言う。
「だが……」
ガルドは立ち上がる。
「まだやれる」
熊五郎はガルドの腕を見る。
黒い線は。
確実に広がっている。
「時間がない」
熊五郎が呟く。
そして。
巨大魔物の胸を見る。
「……あの黒い塊を壊せば、霧は弱まるはずだ」
「なら、やるしかない」
ガルドが剣を握る。
その時。
レオンの身体が大きく震えた。
「――っ!」
「レオン!」
レオンは胸を押さえる。
「……来た」
「何が?」
「また……」
レオンの顔が青ざめる。
「また、あの音が聞こえる」
ドクン。
ドクン。
心臓の鼓動。
その奥に。
もう一つ。
ドクン。
ドクン。
何か別の鼓動が混ざっている。
「嫌だ……」
レオンは耳を塞いだ。
「聞きたくない……」
「レオン!」
「俺の中に……何かいる……」
「そんなことない!」
「でも聞こえる!」
レオンが叫ぶ。
「俺の心臓じゃない!」
黒い線が。
胸の中央へ。
さらに近づく。
「やめろ……」
レオンは涙を流しながら、自分の名前を繰り返す。
「俺はレオン……」
一度。
「俺はレオン……」
もう一度。
「俺はレオンだ!」
声が震える。
「俺は……」
右手が。
また勝手に動く。
「俺は……俺だ!」
その瞬間。
熊五郎が振り返った。
レオンを見る。
そして。
巨大魔物の胸を見る。
二つの異変。
同じタイミングで。
黒い霧が脈打っている。
「……なるほど」
熊五郎が小さく呟いた。
「黒い塊と、侵食された身体が……繋がっている」
ガルドが振り向く。
「どういうことだ?」
「まだ分からない」
熊五郎は答えた。
「だが……」
黒い塊を見る。
「壊せば、何かが変わる」
ガルドが剣を構える。
「なら――」
熊五郎も風を強める。
「今度こそ、あれを壊す」
二人は。
巨大魔物の胸へ向かって走り出した。
その背後で。
レオンの黒い線が。
心臓へ向かって。
また一歩。
伸びていった。




