第44話 奪われる感覚
第44話 奪われる感覚
「うわああああっ!」
レオンの叫び声が、戦場に響き渡った。
胸元まで伸びた黒い線。
それが。
今までとは違う動きを見せていた。
ゆっくりではない。
まるで何かを探すように。
黒い線が胸の中央へ向かって伸びていく。
「止まれ……!」
レオンは胸を押さえた。
「そこから先は……来るな……!」
黒い線は止まらない。
「レオン!」
仲間が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「分からない……」
レオンの呼吸が荒い。
「胸が……変だ」
「痛いのか?」
「いや……」
レオンは首を横に振った。
「痛くない」
「じゃあ――」
「逆なんだ」
「え?」
レオンは胸を押さえた。
「ここだけ……何も感じない」
「……」
「手で触ってるのに……触ってる感じがしない」
仲間が顔を強張らせる。
レオンは自分の胸を何度も触った。
「ここ……俺の身体だよな?」
「当たり前だ」
「じゃあ……なんで分からないんだ?」
答えは返ってこなかった。
その時。
レオンの右足が動いた。
「――っ!」
「またか!」
右足が一歩前へ出ようとする。
レオンは左足で踏ん張った。
「止まれ!」
右足が震える。
「俺の言うことを聞け!」
それでも。
足は動こうとする。
「くそっ……!」
レオンは自分の太ももを両手で押さえた。
「俺は……お前を動かしてない!」
右足が止まる。
一瞬だけ。
「……止まった?」
レオンが息を吐く。
しかし。
次の瞬間。
右足の感覚が。
消えた。
「……え?」
レオンが固まる。
「どうした?」
「……足」
「足が?」
「感じない」
「え?」
レオンは右足を見た。
「今……立ってるよな?」
「立ってる」
「俺の右足、地面についてる?」
「ついてる」
「……でも」
レオンは震える声で言った。
「地面の感触が……ない」
仲間がレオンの右足を見た。
「本当に?」
「何も感じない」
「触ってみるぞ」
仲間が右足に手を置く。
「どうだ?」
「……何も」
「痛みは?」
「分からない」
「冷たさは?」
「分からない」
「熱さは?」
「……分からない」
レオンの顔が青ざめる。
「俺の右足……」
言葉が詰まる。
「感覚がなくなってる」
その頃。
戦場の中央では。
熊五郎が風を操り続けていた。
ゴォォォォッ!
黒い霧が押し戻される。
だが。
熊五郎の顔には、いつもの余裕がなかった。
「……侵食が早くなっている」
熊五郎は巨大魔物の胸を見る。
黒い塊が脈打つ。
ドクン。
霧が増える。
ドクン。
さらに増える。
そして。
黒い霧が熊五郎の風を押し返した。
「……そういうことか」
熊五郎が目を細める。
黒い塊が強くなるほど。
黒い霧も強くなる。
そして。
霧に触れた者の侵食速度まで上がっている。
「ガルド!」
熊五郎が叫んだ。
「急げ!」
「分かってる!」
ガルドは巨大魔物の胸へ走る。
しかし。
巨大魔物が腕を振った。
「くっ!」
ガルドが横へ飛ぶ。
ドォン!
地面が砕ける。
「まだだ!」
ガルドは立ち上がった。
右腕を見る。
黒い線が肘から少し上へ伸びている。
「……俺もか」
ガルドは一瞬だけ腕を見つめた。
だが。
すぐに巨大魔物へ視線を戻す。
「まだ動く」
剣を握る。
「なら、行ける」
そして走り出す。
一方。
レオンは自分の右足を見つめていた。
「……本当に何も感じない」
「レオン」
「触られても分からない」
仲間が心配そうに見つめる。
「でも……動く」
右足が。
勝手に動いた。
「――っ!」
レオンの顔が歪む。
「感覚はないのに……」
右足が一歩前へ出る。
「動かされる」
「レオン!」
「やめろ!」
レオンは左足で右足を押さえた。
「動くな!」
しかし。
右足は止まらない。
「俺の足なのに……」
右膝が曲がる。
「俺の命令は聞かない」
さらに。
右腕が震えた。
「……腕まで」
レオンは右腕を見る。
指先が。
ゆっくり動く。
「嘘だろ……」
「レオン!」
「腕は……まだ俺の言うことを聞け」
指が動く。
「止まれ」
動く。
「止まれ!」
右手が持ち上がる。
レオンは左手で右腕を掴んだ。
「止まれ!」
力を込める。
それでも。
右腕は少しずつ持ち上がっていく。
「俺は……」
レオンの声が震える。
「俺は仲間を傷つけたくない」
「剣を遠ざけろ!」
仲間が叫ぶ。
別の兵士がレオンの剣をさらに遠くへ運ぶ。
「これでいい!」
「……ありがとう」
レオンは息を吐いた。
だが。
右手の指が。
今度は自分の胸へ向いた。
「……何してる?」
レオン自身にも分からない。
右手が胸元へ近づく。
「やめろ」
止めようとする。
「そこに触るな」
右手が。
胸の黒い線へ触れた。
「――っ!」
レオンの身体が大きく震えた。
「何だ……これ……」
一瞬。
頭の中に。
何かが流れ込んできた。
暗い。
冷たい。
何もない場所。
「……誰かいる」
「レオン?」
「今……」
レオンは周囲を見る。
「誰か……呼んだ?」
「誰も呼んでない」
「でも……聞こえた」
「何が?」
レオンは答えられなかった。
ただ。
胸の奥に。
知らない声が聞こえた気がした。
――来い。
「……嫌だ」
レオンは首を振った。
「行かない」
――来い。
「嫌だ!」
レオンは胸を押さえる。
「俺は……そっちへ行かない!」
仲間がレオンを支える。
「レオン!」
「俺はここにいる!」
レオンは叫んだ。
「俺はここにいる!」
何度も。
何度も。
「俺はレオンだ!」
その声に呼応するように。
胸の黒い線が。
ドクン。
脈打った。
「うっ……!」
レオンが膝をつく。
「レオン!」
「大丈夫……」
「大丈夫じゃない!」
「まだ……」
レオンは自分の右足を見る。
「まだ俺の足だ」
右腕を見る。
「まだ俺の腕だ」
胸を押さえる。
「まだ……俺だ」
その言葉を。
何度も繰り返す。
一方。
巨大魔物の胸では。
ガルドがついに黒い塊の目前まで迫っていた。
「これか……」
目の前にある黒い塊。
巨大魔物の胸の奥で。
心臓のように脈打っている。
ドクン。
「これが霧を……」
ガルドが剣を構える。
その瞬間。
黒い塊が大きく膨らんだ。
「――っ!」
ガルドが後ろへ飛ぶ。
ドォォォォォン!
黒い霧が爆発するように噴き出した。
「ガルド!」
熊五郎が叫ぶ。
風魔法が霧を押し返す。
ゴォォォォォッ!
「今だ!」
熊五郎が叫んだ。
「ガルド!」
ガルドは立ち上がる。
「分かった!」
剣を握り直す。
そして。
黒い塊を睨みつけた。
「これを壊せば……」
その時。
レオンの胸の黒い線が。
心臓の近くまで伸びた。
「……っ」
レオンが息を止める。
「そこだけは……」
胸を押さえる。
「そこだけは……取らないでくれ」
黒い線が。
ゆっくりと。
さらに一歩。
心臓へ向かって伸びていく。
レオンは震えながら。
自分の名前を繰り返した。
「俺は……レオン」
一歩。
「俺はレオン……」
さらに一歩。
「俺は……」
そして。
黒い線が。
心臓のすぐ近くまで到達した。
「――俺は、俺だ!」
その叫び声と同時に。
巨大魔物の胸の黒い塊が。
これまでで最大の脈動を起こした。
ドクン――。
戦場全体を。
黒い霧が覆った。




