第42話 黒い霧の侵食速度
第42話 黒い霧の侵食速度
熊五郎とガルドは走っていた。
目指す場所は、巨大魔物の胸。
そこにある、黒い塊。
黒い霧の中心だった。
「くっ……!」
ガルドが腕で顔を覆う。
前方から吹き付けてくる黒い霧が、視界を奪っていく。
数メートル先にいるはずの巨大魔物でさえ、輪郭しか見えない。
「熊五郎!」
「いる」
「見えてるか!?」
「見えてる」
「本当に!?」
「赤い目が二つある」
「それだけじゃないか!」
ガルドが叫ぶ。
熊五郎は平然としていた。
だが、その視線は巨大魔物の胸から離れていない。
黒い塊。
その周囲から、黒い霧が絶え間なく噴き出している。
ドクン。
ドクン。
まるで心臓のように黒い塊が脈打つ。
そのたびに――。
黒い霧が増える。
「……まただ」
熊五郎が呟いた。
「何が?」
「霧が増えた」
「さっきも増えていただろ」
「違う」
熊五郎が足を止める。
「今度は速い」
ガルドも足を止めた。
二人の前。
地面を這っていた黒い霧が、一気に速度を増した。
まるで水が流れるように。
いや。
それよりも速い。
黒い霧が地面を走り、戦場へ広がっていく。
「これは……」
ガルドの顔から血の気が引く。
「さっきより明らかに速い」
「ああ」
熊五郎は頷いた。
「時間が経つほど速くなってる」
「なぜだ?」
「分からない」
熊五郎は黒い塊を見る。
「だが、原因はあそこだ」
その時だった。
「うわあああっ!」
遠くから叫び声が響いた。
「誰か来てくれ!」
二人が振り返る。
黒い霧の向こう。
兵士が一人、地面に膝をついている。
「腕が!」
仲間の兵士が叫ぶ。
「黒い線が広がってる!」
ガルドが走り出した。
「熊五郎!」
「分かってる」
熊五郎も後を追う。
二人が兵士のところへ到着すると、兵士は右腕を押さえていた。
「どうした?」
ガルドが聞く。
「霧に触れました……ほんの少しです」
兵士は苦しそうに答える。
「足元を通った霧が、靴に触れて……」
右手が震えている。
「最初は足首だけだったんです」
兵士がズボンをまくる。
黒い線が、足首から脛へ伸びていた。
「それが……」
黒い線は膝へ向かって伸びている。
「こんなに……」
治癒術師が駆け寄る。
「動かさないでください」
兵士の足を見る。
「……早い」
「何がです?」
「侵食です」
治癒術師が顔を上げる。
「前の患者より、明らかに速い」
ガルドが眉を寄せた。
「どれくらい違う?」
「先ほどの兵士は、足首から膝へ到達するまで、かなり時間がかかりました」
治癒術師は黒い線を見つめる。
「ですが、この兵士は……」
「もう膝の近くまで来ている」
熊五郎が言った。
治癒術師が頷く。
「はい」
兵士が震える。
「……止められないんですか?」
「今は治癒魔法を使えません」
「どうして……」
治癒術師は唇を噛んだ。
「以前の患者で分かりました。治癒魔法を使うと、黒い霧が反応する」
「俺の身体の中に……?」
「はい」
「じゃあ、どうすれば……」
誰も答えられない。
兵士は自分の右足を見つめた。
黒い線。
たった一本の黒い線だった。
それなのに。
それが自分の身体の中を進んでいると思うと、息が苦しくなった。
「……俺」
兵士の声が震える。
「これ……どこまで行くんですか?」
治癒術師は答えられない。
「膝まで?」
沈黙。
「じゃあ……太ももまで?」
やはり答えがない。
兵士の呼吸が早くなる。
「その先は?」
「落ち着いてください」
「その先はどうなるんですか!」
兵士が声を荒らげた。
「俺の身体……どうなるんですか!」
周囲の兵士たちが黙り込む。
誰も答えられない。
それが一番怖かった。
敵に斬られるなら分かる。
血が出る。
傷ができる。
痛みがある。
治療すればいい。
だが、この黒い線は違う。
傷口があるわけでもない。
血も流れていない。
なのに。
自分の身体の中で、何かが勝手に進んでいる。
「……怖い」
兵士が小さく呟いた。
「え?」
仲間の兵士が聞き返す。
「怖いんだ……」
兵士は自分の右足を掴んだ。
「自分の足なのに……」
指が震えている。
「感覚が、少しずつなくなってる」
足の裏を触る。
何度も。
強く。
「……分からない」
「何が?」
「触ってるのに……」
兵士の目に涙が浮かぶ。
「触ってる感覚が、さっきより薄い」
仲間の兵士が唇を噛む。
「大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだよ……」
兵士が震える声で返した。
「俺だって……大丈夫って言いたいよ」
右足がピクッと動いた。
兵士が固まる。
「……今」
「どうした?」
「動いた」
「自分で?」
「違う」
兵士の顔が青ざめる。
「俺……動かしてない」
もう一度。
右足が動く。
ピクッ。
「……っ!」
兵士が足を押さえ込む。
「やめろ……」
「おい?」
「やめろ!」
自分の足に向かって叫ぶ。
「勝手に動くな!」
周囲が静まり返った。
兵士自身も、自分が何を言っているのか分からない。
ただ。
怖かった。
自分の身体なのに、自分の命令を聞かない。
それが、たまらなく怖かった。
「俺……」
兵士は震える唇を開く。
「このまま全部、動かなくなるのか?」
誰も答えない。
「足だけじゃなくて……」
自分の右手を見る。
「手も?」
胸に手を当てる。
「身体全部?」
兵士の呼吸が乱れる。
「最後には……」
そこで言葉が止まった。
言いたくなかった。
考えたくなかった。
けれど、頭の中に浮かんでしまう。
――死ぬ。
「……俺、死ぬのか?」
仲間の兵士が慌てて肩を掴んだ。
「そんなこと決まってない!」
「でも誰も分からないんだろ!」
「……」
「治癒魔法も使えない!」
兵士の目から涙が落ちた。
「霧から離れても止まらない!」
声が震える。
「じゃあ俺は、どうすればいいんだよ!」
ガルドが静かに兵士の前にしゃがんだ。
「お前」
兵士がガルドを見る。
「名前は?」
「……レオン」
「レオン」
ガルドはまっすぐ目を見る。
「今、お前は生きている」
「……」
「足も動く」
レオンは自分の足を見る。
「完全には動かないけどな……」
「それでも動く」
ガルドは言った。
「だから、まだ終わってない」
レオンは何も言えなかった。
熊五郎も、その腕と足を見ていた。
黒い線は、また少し伸びている。
「……熊五郎」
ガルドが振り向く。
「どうだ?」
「速くなっている」
熊五郎は短く答えた。
「さっきより明らかに速い」
レオンがその言葉を聞いた。
「……速く?」
「侵食がだ」
熊五郎は隠さなかった。
「時間が経つほど、進む速度が上がっている」
レオンの顔が強張る。
「じゃあ……」
「だから急ぐ」
熊五郎が言う。
「俺たちがあの魔物を止める」
レオンが熊五郎を見る。
「……本当に?」
「ああ」
「俺……助かる?」
熊五郎は一瞬だけ黙った。
そして。
「助ける」
短い言葉だった。
だが。
その言葉には迷いがなかった。
レオンは唇を噛んだ。
「……頼む」
その時。
レオンの右足がまた動いた。
「っ!」
レオンが息を呑む。
今度は――。
膝が、自分の意思とは関係なく曲がった。
「うわっ!」
身体が傾く。
仲間が慌てて支える。
「レオン!」
「違う……!」
レオンが叫ぶ。
「今のも俺じゃない!」
黒い線が膝へ伸びた。
そして。
ほんの一瞬。
黒い線が脈打った。
ドクン。
レオンの身体が震える。
「……っ!」
「どうした!?」
「聞こえた……」
「何が?」
「自分の身体の中で……」
レオンは胸を押さえる。
「何かが……動いた」
治癒術師の顔が強張る。
「……侵食が、さらに進んでいます」
熊五郎が立ち上がった。
「ガルド」
「分かってる」
「行くぞ」
「ああ」
二人が巨大魔物を見る。
黒い塊が脈打つ。
ドクン。
その瞬間。
黒い霧が一気に広がった。
「うわっ!」
兵士たちが後退する。
「霧が来るぞ!」
「負傷者を下げろ!」
「急げ!」
戦場が再び混乱する。
熊五郎は右手を上げた。
「風よ!」
轟音。
黒い霧が押し返される。
その隙にガルドが走る。
「熊五郎!」
「行くぞ!」
二人は巨大魔物へ向かって走った。
だが。
その背後。
レオンの黒い線が――。
また伸びた。
膝を越え。
太ももへ向かって。
先ほどよりも速く。
そしてレオンは、自分の足を見ながら呟いた。
「……頼むから」
震える声。
「俺の身体を……俺から奪わないでくれ」
黒い霧は答えない。
ただ。
静かに。
確実に。
レオンの身体を侵食していった。




