第39話 黒い霧に蝕まれる身体
第39話 黒い霧に蝕まれる身体
黒い霧が、戦場の地面を這うように広がっていた。
その向こうでは、巨大魔物が低い唸り声を上げている。
兵士たちは必死に距離を取っていた。
しかし、すべての兵士が逃げ切れるわけではない。
負傷者を運ぶ者。
倒れた仲間を助ける者。
盾を構えて後方を守る者。
それぞれが自分の役目を果たすために戦場へ残っていた。
そして――。
一人の兵士が、自分の右腕を見つめていた。
「……なんだ、これ」
袖をまくる。
手首の近くに、黒い筋が浮かんでいた。
細い。
最初は血管のように見えた。
だが、よく見ると違う。
黒い筋は、脈打つようにゆっくりと動いている。
「おい……」
仲間が顔を近づける。
「それ、さっき霧に触れたところか?」
「ああ……」
兵士は頷いた。
「ほんの少しだった」
「痛むのか?」
「最初はな」
兵士は右手を握ろうとした。
「でも、今は……」
指を動かす。
動いた。
「動く」
兵士が少し安心した。
「まだ大丈夫だ」
しかし、次の瞬間。
「……あれ?」
兵士の表情が変わった。
「どうした?」
「触ってる感じがしない」
自分の右手を左手で触る。
「何を?」
「右手を触ってる」
兵士は何度も指を動かした。
「見えてる。動いてるのもわかる」
だが――。
「感覚だけがない」
仲間の顔から笑みが消えた。
「神官を呼べ!」
「はい!」
神官が駆け寄る。
「どうしました?」
「黒い霧に触れた兵士です。右腕の感覚がありません」
神官は兵士の腕を見る。
黒い筋は、先ほどよりも長くなっていた。
手首から肘へ。
ほんのわずかだが、確実に伸びている。
「……広がっています」
「やっぱりか」
兵士が呟く。
神官は兵士の腕に手を添えた。
「治癒魔法を使います」
神官が両手をかざす。
「治癒の光よ――」
白い光が兵士の腕を包んだ。
その瞬間だった。
黒い筋が――。
ドクンッ。
大きく脈打った。
「うっ……!」
兵士が腕を押さえる。
「痛い!」
黒い筋が一気に濃くなった。
「やめて!」
仲間が叫ぶ。
神官が慌てて魔法を止める。
白い光が消える。
すると、黒い筋の動きも少しだけ弱くなった。
神官は青ざめた顔で兵士の腕を見る。
「……やはり」
ガルドが振り向く。
「何が起きた?」
神官は震える声で答えた。
「治癒魔法そのものが、黒い霧を活性化させています」
「治す魔法なのに?」
実咲が驚く。
神官は兵士の腕を指差した。
「通常の傷なら、治癒魔法によって生命力や魔力を補い、傷ついた組織を修復します」
「でも、この霧は違う」
熊五郎が口を開いた。
神官が頷く。
「はい」
熊五郎は黒い筋を見つめる。
「黒い霧は、身体の中に入り込んだ魔力を食っている」
「魔力を……食う?」
実咲が聞き返す。
「だから治癒魔法で魔力を送り込むと――」
「霧に餌を与えることになる」
神官が答えた。
兵士の顔が青ざめる。
「じゃあ……治そうとすればするほど……」
「侵食が進む可能性があります」
神官が言った。
実咲は兵士を見る。
「だから、さっき治癒魔法を使った時に黒い筋が広がったんだ……」
「そういうことです」
神官は悔しそうに拳を握った。
「私たちの治療法では、逆効果になる」
兵士が自分の腕を見る。
黒い筋は、肘へ向かって伸びていた。
「……どんどん広がってる」
兵士の声が震える。
「止められないのか?」
ガルドが尋ねる。
神官は首を横に振った。
「今の私には……」
兵士の顔が強張る。
「じゃあ、俺は……」
言葉が続かない。
熊五郎が静かに言った。
「治癒魔法が悪いんじゃない」
「え?」
「相手が普通の傷ではないんだ」
熊五郎は兵士の腕を見る。
「身体そのものを治す前に、身体の中に入り込んだ黒い霧をどうにかしなければならない」
ガルドが眉を寄せる。
「つまり、先に霧を取り除かなければ治療できないということか」
「そうだ」
熊五郎が頷く。
「今のまま治癒魔法を使えば、霧に魔力を与えてしまう」
神官は治癒魔法を使う手を下ろした。
「……では、もう治療魔法は使えない」
「少なくとも、今までと同じ方法ではな」
熊五郎が答えた。
その時だった。
「……あっ」
兵士が小さく声を漏らした。
右手が震えていた。
「どうした?」
「指が……」
兵士が右手を見る。
一本。
また一本。
指が勝手に動き始める。
「俺、動かしてない」
仲間が兵士の手を掴む。
「止められるか?」
「わからない!」
兵士が左手で右手を押さえる。
しかし――。
右手は勝手に握り込まれていく。
「くっ……!」
「力が入ってる!」
「俺じゃない!」
兵士の額から汗が流れる。
「俺は握ってない!」
熊五郎が腕を掴む。
「動くな」
「熊五郎……!」
「霧が魔力だけじゃなく、身体の神経にも入り込んでいる」
熊五郎の声が低くなる。
「感覚を奪うだけじゃない」
黒い筋が、腕から肩へ向かって伸びている。
「身体の動きまで奪おうとしている」
実咲が息を呑む。
「そんな……」
兵士は震えながら自分の腕を見る。
「俺の身体なのに……」
右手が、また動いた。
「俺の言うことを聞かない……」
兵士の目に恐怖が浮かぶ。
さらに異変が起きた。
「……音が」
「どうした?」
「みんなの声が遠い」
兵士が周囲を見る。
「聞こえてるのに……」
仲間が顔を近づける。
「俺の声は?」
「聞こえる」
「なら大丈夫だ」
「でも……」
兵士は首を振る。
「さっきより小さい」
さらに兵士は、自分の左腕を触った。
「……冷たい」
「寒いのか?」
「違う」
兵士は首を振った。
「身体は普通なのに、感覚だけが消えていく」
神官の顔が険しくなる。
「侵食が感覚器官にまで及んでいる……」
「次は?」
ガルドが尋ねる。
神官は答えられなかった。
「わかりません」
その一言が、兵士をさらに不安にさせた。
「……俺、どうなるんですか?」
熊五郎は少し黙った。
「まだ決まったわけじゃない」
「でも、治癒魔法が使えないなら……」
「だから俺が方法を探す」
熊五郎は立ち上がった。
「この霧に、何が効くのかを探す」
その目は、黒い霧の向こうにいる巨大魔物へ向けられていた。
「そして、あいつを倒す」
その時。
兵士が突然、胸元を押さえた。
「……っ!」
「どうした!」
ガルドが駆け寄る。
「心臓が……」
兵士が荒い息を吐く。
「一瞬……止まったみたいに感じた」
神官が兵士の胸元を見る。
黒い筋が、鎖骨の近くまで伸びていた。
「侵食が胸まで……」
神官の声が震える。
「まだ速くなっている」
兵士は唇を噛んだ。
「……怖い」
その一言だけだった。
これまで魔物と戦い続けてきた兵士が、初めて恐怖を隠さなかった。
「俺……死ぬのか?」
仲間が肩を掴む。
「そんなこと言うな」
「でも……」
兵士は自分の右手を見る。
「手が動かないだけじゃない」
「……」
「音が遠い。感覚が消える。身体まで勝手に動く」
兵士の声が震える。
「このまま全部なくなったら……俺はどうなる?」
誰も答えられなかった。
熊五郎が兵士の肩に手を置く。
「お前は、お前だ」
兵士が顔を上げる。
「霧が何を奪っても、それだけは忘れるな」
「……はい」
「生きていろ」
熊五郎は立ち上がる。
その瞬間――。
ドォォォン!!
大地が大きく揺れた。
巨大魔物が地面を叩き潰したのだ。
「グオオオオオオッ!!」
黒い霧が一気に広がった。
「来るぞ!」
ガルドが叫ぶ。
「負傷者を下げろ!」
「急げ!」
兵士たちが担架を持って走る。
しかし、黒い霧は地面を這いながら追ってくる。
「速い!」
「こっちへ来るぞ!」
「霧に触れるな!」
一人の兵士が足を滑らせた。
「うわっ!」
黒い霧が足元へ迫る。
仲間が腕を掴んで引き起こす。
「立て!」
「助かった……」
その兵士の靴のすぐ横を、黒い霧が通り過ぎる。
草が触れた。
ジュッ。
草が黒く変色し、しおれていく。
「……」
兵士は言葉を失った。
あれが身体に触れれば――。
自分も同じになる。
誰もがそれを理解した。
「霧に触れるな!」
ガルドが再び叫ぶ。
「絶対に近づくな!」
黒い霧が、負傷者のいる場所へ迫っていく。
その前に、熊五郎が立った。
「止まれ」
右手を上げる。
ゴォォォォォッ!!
強烈な風が吹き荒れた。
黒い霧が押し戻される。
だが、消えない。
風に逆らうように、霧が少しずつ前へ進んでくる。
「……やっぱり、ただの霧じゃない」
熊五郎が呟く。
「魔力そのものに近い」
ガルドが剣を握る。
「なら、どうする?」
熊五郎は巨大魔物を見る。
「まず、あいつを止める」
「俺も行く」
ガルドが隣に立つ。
熊五郎は頷いた。
「頼む」
二人が前へ出る。
その背後では、黒い筋に蝕まれた兵士が必死に自分の右手を押さえていた。
治癒魔法は使えない。
時間が経つほど侵食は進む。
そして――。
戦場の向こうでは、巨大魔物が再び黒い霧を吐き出していた。
「グオオオオオオッ!!」
熊五郎が拳を握る。
「この霧を止める」
ガルドも剣を構える。
「そして、町を守る」
二人の前に、黒い霧と巨大魔物が迫る。
戦いは、さらに激しさを増していった。




