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第37話 黒い霧に侵された兵士

第37話 黒い霧に侵された兵士


黒い霧が、兵士の身体を覆っていた。


「う……あ……」


兵士は地面に膝をついている。


仲間が必死に肩を掴んだ。


「しっかりしろ!」


「……俺は……大丈夫……」


そう答えようとした。


だが、声が弱い。


先ほどまで動いていた右腕が、だらりと垂れ下がっている。


「右腕が……動かない」


「神官!」


「今、治療します!」


神官が駆け寄り、両手を兵士の胸元へかざした。


「治癒の光よ――」


白い光が兵士を包む。


ところが。


パチッ!


光が黒い霧に触れた瞬間、弾け飛んだ。


「なっ……」


神官が目を見開く。


「もう一度!」


再び治癒魔法を使う。


しかし結果は同じだった。


黒い霧が、光を飲み込んでいく。


「治癒魔法が効かない……」


「そんな……」


兵士が苦しそうに息をする。


「俺……死ぬのか?」


「そんなこと言うな!」


仲間が怒鳴る。


「絶対に助ける!」


兵士は笑おうとした。


「……そうだな」


だが、その笑顔はすぐに消えた。


黒い筋が、腕から肩へ広がっている。


そして胸元まで届いた。


「ガルド!」


神官が叫ぶ。


「このままでは危険です!」


ガルドが駆け寄る。


「何が起きている?」


「身体の魔力が、黒い霧に侵食されています」


「止められないのか?」


「今の私では……」


神官が唇を噛む。


「治すどころか、進行を止めることもできません」


ガルドの顔が険しくなる。


「……熊五郎」


熊五郎が兵士を見る。


しばらく無言で観察していた。


「この兵士を霧の外へ運べ」


「助かるのか?」


ガルドが聞く。


熊五郎はすぐには答えなかった。


「わからない」


その言葉に、周囲の兵士たちが凍りついた。


いつもなら、何か方法を見つける熊五郎。


その熊五郎が――。


「わからない」と言った。


兵士はそれを聞いてしまった。


「……そうか」


小さく呟く。


「俺……もう、戦えないのか?」


ガルドが兵士の肩に手を置く。


「今は何も考えるな」


「でも……」


兵士は自分の右手を見る。


指を動かそうとする。


「……動かない」


何度試しても動かなかった。


「俺、剣を握れない」


仲間が黙り込む。


兵士は目を伏せた。


「ずっと兵士だったんだ」


「……」


「剣を握れなくなったら……俺は何をすればいい?」


ガルドは答えられなかった。


その時。


熊五郎が兵士の前にしゃがんだ。


「お前は生きている」


兵士が顔を上げる。


「……はい」


「なら、それでいい」


「でも……」


「戦うだけが兵士の仕事じゃない」


熊五郎は静かに言った。


「生きて帰ることも仕事だ」


兵士の目に涙が浮かぶ。


「……俺、生きて帰っていいんですか?」


「当たり前だ」


熊五郎は答えた。


「死んで役に立つより、生きて帰ったほうがいい」


兵士は唇を噛んだ。


そして、初めて涙を流した。


「……はい」


仲間たちが兵士を担架に乗せる。


「運ぶぞ!」


「気をつけろ!」


黒い霧から離れる。


少しずつ。


少しずつ。


そして防衛線の後方へ運び出した。


しかし――。


数時間後。


兵士はまだ生きていた。


だが。


右腕は動かなかった。


黒い筋は肩まで残っている。


そして魔力を使おうとすると、激しい痛みが走ることがわかった。


神官が何度治療しても、完全には消えない。


「……治らないのか?」


兵士が尋ねる。


神官は目を伏せた。


「今は……」


その答えだけで十分だった。


兵士は自分の右手を見る。


握ろうとしても、指は動かない。


「……そうか」


それでも兵士は、しばらくして顔を上げた。


「死ななかっただけでも、いいか」


仲間が隣に座る。


「もちろんだ」


「俺、まだ生きてるんだな」


「ああ」


兵士は小さく笑った。


「だったら……帰ったら母ちゃんに飯を食わせてもらおうかな」


仲間も笑った。


「その前に、自分で食えよ」


「右手が動かなくても左手がある」


二人は笑った。


だが――。


その夜。


兵士が眠っている間。


黒い筋が、ほんのわずかに動いた。


肩から胸へ。


ゆっくりと。


まるで生き物のように。


兵士は気づかない。


誰も気づかない。


ただ、治療を担当していた神官だけが、夜中に兵士の身体を確認した。


そして――。


「……嘘……」


黒い筋が、昼間よりわずかに広がっている。


神官の顔から血の気が引いた。


「まだ……侵食が続いている……」


黒い霧は消えていなかった。


兵士の身体の中に残っている。


そしてそれは――。


時間が経てば自然に消えるものではなかった。


神官は震える手で記録を残した。


『黒い霧に触れた者は、霧から離れても侵食が続く可能性あり』


さらに、その下に一文を書き加えた。


『治癒魔法では完全な回復を確認できず』


その記録を握りしめながら、神官は戦場の方を見る。


遠くでは、まだ魔物の咆哮が響いていた。


「……あの霧は」


神官は呟く。


「人間を殺すためだけのものじゃない……」


「生きていても……戦う力を奪うためのものなのか……」


その頃。


戦場では、熊五郎が黒い霧を見つめていた。


ガルドが隣に立つ。


「……あの兵士は?」


「生きている」


熊五郎が答える。


「だが、まだ終わっていない」


「どういう意味だ?」


熊五郎は黒い霧を見る。


「霧が身体の中に残っている」


ガルドの表情が険しくなる。


「なら、助ける方法は?」


熊五郎はしばらく黙っていた。


そして――。


「探す」


「探す?」


「この霧を消す方法を」


熊五郎の目が、これまでにないほど鋭くなる。


「まだ食堂の客が残っている」


ガルドが息を呑む。


熊五郎は戦場の向こうを見る。


「生きているなら、食わせる」


そして黒い霧に覆われた巨大魔物へ視線を向けた。


「だから――」


右手をゆっくりと上げる。


「ここで終わらせる」


巨大魔物が、再び咆哮した。


黒い霧が大地を覆っていく。


戦いは、さらに激しくなろうとしていた。

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