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第36話 黒い影の命令

第36話 黒い影の命令


『――人間どもよ』


その声が、戦場全体を震わせた。


兵士たちの動きが止まる。


誰もが空を見上げていた。


北の空。


そこには巨大な黒い影が浮かんでいる。


翼なのか。


煙なのか。


それすら判別できない。


ただ――。


二つの赤い光だけが、はっきりと見えていた。


『ここから先は――』


声が響く。


低い。


重い。


そして、不気味なほど落ち着いている。


『私が相手をする』


「……っ」


実咲の身体が震えた。


「なに……あれ……」


兵士の一人が呟く。


「魔王……?」


別の兵士が首を振る。


「わからない……」


「でも、あの声……」


「聞いているだけで……身体が動かない……」


誰もが恐怖を感じていた。


その瞬間。


空から黒い光が落ちてきた。


「来るぞ!」


ガルドが叫ぶ。


「盾を構えろ!」


兵士たちが一斉に盾を構えた。


次の瞬間――。


ドォン!!


黒い光が地面に突き刺さった。


地面が大きく揺れる。


「うわっ!」


「なんだ!?」


土煙が舞い上がる。


その中から――。


魔物が飛び出した。


一体。


二体。


十体。


「まだ来るぞ!」


さらに黒い光が落ちる。


ドン!


ドン!


ドン!


地面が何度も揺れる。


「多すぎる!」


「数を数えるな!」


ガルドが怒鳴った。


「目の前だけ見ろ!」


魔物が突っ込んでくる。


「構えろ!」


盾兵が前へ出た。


「押し返せ!」


ガァン!!


巨大な爪が盾に叩きつけられる。


「ぐっ!」


兵士の身体が後ろへ押される。


「耐えろ!」


隣の兵士が盾を重ねる。


二人。


三人。


四人。


それでも押される。


「重い……!」


「こいつ、力が……!」


魔物が唸る。


さらに爪を振り下ろす。


「うわああっ!」


盾が弾き飛ばされた。


兵士が地面に倒れる。


魔物が、その兵士へ飛びかかった。


「危ない!」


ガルドが走る。


剣を振り抜く。


ズバッ!


魔物の腕が切り裂かれる。


「下がれ!」


倒れた兵士を引きずり、ガルドが後退する。


「ありがとうございます!」


「礼は後だ!」


ガルドが前を見る。


「次が来る!」


魔物の群れが迫っていた。


「弓兵!」


ガルドが叫ぶ。


「放て!」


弓兵が一斉に矢を放つ。


ヒュンッ!


ヒュンッ!


ヒュンッ!


何本もの矢が魔物へ突き刺さる。


数体が倒れた。


だが――。


残った魔物は止まらない。


「効いてない!?」


「足を狙え!」


「槍兵、前へ!」


槍が突き出される。


一体。


二体。


魔物を押し返す。


しかし、別の場所から魔物が回り込んできた。


「右だ!」


「右が破られる!」


ガルドが振り向く。


「しまった……!」


右側の兵士が少ない。


そこへ巨大な魔物が突っ込んだ。


「来るぞ!」


「隊長!」


ガルドが走る。


だが、間に合わない。


魔物の爪が兵士へ振り下ろされる。


「うわあああ!」


その瞬間。


ゴォン!!


見えない何かに弾かれたように、魔物が横へ吹き飛んだ。


瓦礫へ激突する。


「……え?」


兵士が呆然とする。


その先に熊五郎がいた。


「料理中だ」


熊五郎は鍋をかき混ぜながら言った。


「近づくな」


「……」


兵士が目を丸くする。


「今、何を……?」


「魔法だ」


熊五郎は当然のように答える。


実咲が叫ぶ。


「だったら最初から使ってよ!」


「料理が冷める」


「そこなの!?」


熊五郎の周囲には薄い風の壁ができていた。


飛んでくる石。


瓦礫。


魔物。


そのすべてを弾き飛ばしている。


だが――。


熊五郎が守れるのは、ほんの一部だった。


戦場全体を守ることはできない。


反対側では、まだ兵士たちが戦っている。


「ガルド!」


実咲が叫ぶ。


「向こう!」


ガルドが振り返る。


左側の防衛線が崩れかけていた。


「まずい!」


ガルドが走る。


「左列、三歩下がれ!」


兵士が叫ぶ。


「下がったら突破されます!」


「いいから下がれ!」


「でも!」


「命令だ!」


兵士たちが後退する。


その直後。


巨大な魔物が突っ込んできた。


ズドン!!


さっきまで兵士が立っていた場所を爪が叩き潰す。


「……!」


兵士たちの顔が青ざめる。


「今の判断で助かった……」


誰かが呟いた。


ガルドは息を整える。


「戦場では、一歩が命を分ける」


そして剣を構える。


「次は俺が止める」


魔物が迫る。


ガルドも走る。


「うおおおおっ!」


剣と爪がぶつかる。


ガァン!!


腕が痺れる。


「くっ……!」


魔物の力が強い。


押される。


一歩。


また一歩。


ガルドの靴が地面を削る。


「隊長!」


「来るな!」


ガルドが叫ぶ。


「こいつは俺が止める!」


魔物が口を大きく開ける。


牙が迫る。


ガルドが横へ飛ぶ。


牙が肩をかすめた。


「ぐっ!」


血が飛ぶ。


「隊長!」


「構うな!」


ガルドは歯を食いしばる。


剣を握る。


もう一度踏み込む。


「ここは――」


魔物の懐へ入る。


「通さん!」


ズバッ!!


魔物の胸を斬り裂く。


魔物が倒れる。


ガルドは膝をついた。


「はぁ……はぁ……」


その時。


背後から声がした。


「ガルド!」


「……!」


振り返る。


別の魔物が迫っている。


「しまっ――」


ガルドが剣を構える。


だが、間に合わない。


その魔物が飛びかかってきた。


「ガルド!」


実咲が叫ぶ。


ドン!!


魔物が地面に叩きつけられた。


熊五郎が片手を上げている。


「飯ができた」


「……」


ガルドが熊五郎を見る。


「お前……」


「食え」


「この状況で?」


「この状況だからだ」


熊五郎は鍋から料理をよそう。


湯気が立つ。


肉と魚と野菜。


戦場には似つかわしくない温かな香り。


しかし――。


兵士たちは、その匂いに気づいた。


「……飯」


「飯だ……」


「食えるのか?」


熊五郎が叫ぶ。


「食える者は来い!」


「今!?」


実咲が叫ぶ。


「敵が目の前にいるよ!?」


「だから急げ」


熊五郎は淡々としている。


「食って戦え」


兵士たちは迷った。


だが――。


一人が走った。


「いただきます!」


椀を受け取る。


一口。


「……うまい」


二口。


「身体が……」


兵士が息を吐く。


「少し……力が戻る」


別の兵士も駆け寄る。


「俺にも!」


「俺も!」


熊五郎は順番に渡していく。


「走るな」


「熱いぞ」


「落とすな」


「はい!」


戦場の真ん中で兵士たちが飯を食う。


しかし、その間にも魔物は迫っている。


「来たぞ!」


「盾を!」


「食ってる場合じゃない!」


「食ってから戦え!」


ガルドが叫んだ。


「一人ずつ食え!」


「はい!」


食べ終わった兵士が立ち上がる。


盾を持つ。


剣を握る。


そして戦列へ戻る。


「次!」


別の兵士が椀を受け取る。


「……ありがとう」


「礼はいい」


熊五郎が言う。


「生きろ」


その一言に、兵士は目を見開いた。


「……はい!」


そして走っていく。


その姿を見ていたガルドの頭に、また記憶が走った。


――飯を食わせろ。


――戦える者には戦わせろ。


――傷ついた者には治療を。


――そして。


――生きている者を、生きて帰せ。


「……誰だ」


ガルドは呟く。


「俺は……誰の命令を聞いていた?」


頭痛が走る。


「ぐっ……!」


「ガルド!」


実咲が駆け寄る。


「大丈夫!?」


「ああ……」


ガルドは顔を上げる。


その視線の先に熊五郎がいた。


鍋を持っている。


いつもの姿。


いつもの態度。


だが――。


なぜか、記憶の中の人物と重なる。


「……お前は」


ガルドが呟く。


熊五郎が振り返る。


「なんだ?」


「……いや」


ガルドは首を振った。


「まだ、わからない」


その瞬間。


戦場の奥から、巨大な咆哮が響いた。


「グオオオオオオオオッ!!」


空気が震える。


兵士たちが振り向く。


魔物たちの群れが左右へ割れていく。


その奥から――。


これまでの魔物より遥かに巨大な影が現れた。


「……なんだ、あれ」


「でかすぎる……」


「隊長……」


ガルドは剣を握る。


巨大な魔物が一歩進む。


ズン。


地面が揺れる。


もう一歩。


ズン。


瓦礫が跳ねる。


そして、その魔物の赤い目が――。


防衛線の兵士たちを捉えた。


ガルドが叫ぶ。


「全員、構えろ!」


兵士たちが盾を構える。


弓兵が矢をつがえる。


槍兵が前へ出る。


熊五郎も鍋を置いた。


「……あれは」


実咲が震える声で言う。


「今までの魔物とは違うよね……?」


熊五郎は巨大な魔物を見た。


「強そうだな」


「感想それ!?」


巨大な魔物が吠える。


そして――。


防衛線へ向かって走り出した。


「来るぞおおおおお!!」


ガルドの叫び声と同時に。


戦場全体が再び動き出した。

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